イアン様の症状が落ち着いてから、数日後。
昼食を終えて、皆で食後のお茶を楽しんでいた時のことだった。
すっかり聞き慣れた車輪の音が、工房の前で止まった。
「……また馬車が来たよ?」
マグカップを片手に、外の様子を覗き見たマイラさんが呟き、わたしたちは顔を見合わせる。
「失礼いたします。皆様、お揃いでしょうか」
その直後に扉が開き、これまた聞き慣れたエドヴィンさんの声がした。
「これはどうも。どうされましたか?」
その場でお茶会を切り上げたわたしたちは、ミラベルさんを先頭に店舗スペースへと移動する。
「先日はお世話になりました。おかげさまで、イアン様の症状も落ち着いております」
正装に身を包んだエドヴィンさんが、洗練された所作で頭を下げる。
……わざわざお礼を言いに来てくれたのかな。
「実は本日、皆さんにお会いしたいという方をお連れしておりまして。会っていただけますでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
それが本題なのだと理解したミラベルさんが頷くと、エドヴィンさんは一礼したあと、馬車のほうへ戻っていった。
ややあって、彼以上に立派な身なりの男性が馬車から降りてきた。その後ろにはオリヴィア様の姿も見える。
あの男の人は誰だろう……そんなことを考えている間にも、エドヴィンさんが扉を開け、二人がお店に入ってくる。
「……これは、ノーハット伯爵様ではありませんか」
次の瞬間、ミラベルさんが驚愕の表情とともに頭を下げた。わたしたちも急いでそれに続く。
えっ、えっ、伯爵様? それって、すごい人なのでは?
「そうかしこまらないでくれ。お初にお目にかかる。このたびは息子たちが世話になったようだな」
栗色の髪をしたその人は優しい口調で言う。
すっかり忘れていたけど、オリヴィア様は伯爵令嬢だった。そのお父様ということは、伯爵様その人ということ。その物腰は柔らかくも、全身に気品溢れるオーラをまとっていた。
その事実に気づいた時、わたしの背中に冷たいものが流れ出す。それも、大量に。
「本日こちらに伺ったのは他でもない。苦労をかけた薬師殿に是非とも礼を言いたいのだ。して……どちらかな」
わたしは反射的に後退りするも、お呼びですよ……と言わんばかりにクロエさんから背中を押され、前へと押し出される。
「お、おはちゅにお目にかかります……エリン・ハーランドと申します……」
「そなたが薬師エリン殿か。オリヴィアから話は聞いている。このたびは世話になったな」
「と、とんでもございません。こんな恰好で、申し訳ありませぬ」
速攻で人見知りを発動させたわたしは、緊張のあまり噛みまくりながら、ペコペコと頭を下げる。
服装だって、作業着と室内着を兼ねた割烹着姿のまま。突然の来訪だったとはいえ、あまりにも釣り合っていない。
「はは、オリヴィアの言う通り、愉快な方だな」
「そうでしょう。わたくしと年が近いとは思えぬ、素晴らしい方なのですよ」
父親の前だからか、貴族オーラ全開のオリヴィア様が口元を隠しながら優雅に笑う。
「ところでお父様、言葉だけでなく、行動でも謝意を示さねばいけませんわ」
「わかっている。入浴設備の工事だったな」
「は?」
二人のやり取りを聞いていたミラベルさんが、明らかにうろたえていた。
そういえば報酬の件については、工房の皆に一切話していなかった気がする。
「あ、あのあの、実はですね……」
わたしは慌てて振り返り、しどろもどろになりながら事のいきさつを話して聞かせた。
「……なるほど。それはまた、
「いやいや。こちらとしても、見合った対価だと思っている。格安で職人を手配させてもらうとしよう。工費は半分……いや、八割持とう」
「お心遣い、痛み入ります」
「あ、あの、待ってください」
ミラベルさんが深々と頭を下げるも、わたしは思わずその中に割って入る。
「こ、今回は対処療法をしただけです。まだイアン様については、抜本的な治療はできていません。オリヴィア様との約束は、イアン様のご病気を治すことだったはずです」
「こらエリン、せっかくの伯爵様からの好意を無下にするな」
「そ、そうですけど、約束ですし……あわわ」
ぐいっと引き寄せられて、耳元でそう呟かれる。
伯爵様はそんなわたしたちを見ながら、豪快に笑っていた。
「いや、失礼。薬師殿は正直者だな。そこまで言うのなら、望み通りにしよう」
「あ、ありがとうございます」
「その代わり、今後もイアンやオリヴィアと仲良くしてもらえるとありがたい。私もなにかと忙しく、なかなか二人に構ってやれないのでな」
「は、はい。それはもう」
「それと、今後も定期的に薬を頼むことになると思う。主治医のエドヴィンも、そなたには絶大の信頼を寄せているようだしな」
笑みを浮かべたまま、伯爵様はエドヴィンさんに視線を送る。彼は深く頭を下げていた。
「それでは、今後ともよろしく頼む」
最後にそう言い残すと、伯爵様たちは去っていく。
その背を見送っていると、オリヴィア様がおもむろにスフィアへ近づいてきた。
「イアン、また会いたがってましたよ。エリン様と一緒に、いつでもいらしてくださいね」
そしてわたしたちにだけ聞こえる声で言うと、急ぎ足で伯爵様のあとに続いていった。
◇
伯爵様たちがお帰りになり、わたしとスフィアは食堂で呆けていた。
「き、緊張で心臓が止まるかと思いました」
「わ、わたしもです。頭も真っ白で、何を話したかも覚えていません……」
冷めきったお茶を飲みながら、二人でそんな会話をする。
「でも、伯爵様もオリヴィア様も、すごく嬉しそうでしたね。なんだか、私も嬉しくなりました」
そう口にするスフィアの笑顔は、輝いていた。
――薬師が一番喜びを感じるのは、お客さんの病気が治って、感謝された時さ。
……その時、かつての父の言葉が思い出された。
薬師を続けていくうえで、わたしの根幹を成す言葉なのだけど、スフィアはおのずとそれに気づきはじめているようだ。
師匠として、まだまだ至らない部分が多いけれど、この子はなんとしても一人前の薬師に育て上げなければいけない……そんな強い思いが、わたしの中に芽生えていた。
「……どうした。やけに静かだぞ?」
「わぎゃ!?」
そんなことを考えていた矢先、いきなり背後から抱きつかれた。
とっさに視線を向けると、目の前に顔を赤くしたミラベルさんがいた。その後ろには、笑顔のマイラさんやクロエさんの姿も見える。
「わ、ミラベルさん、お酒臭いですよ。こんな時間から飲んでいるんですか」
「祝い酒だ。国王陛下に続いて、貴族様ともパイプを作ってしまうとはな。エリン、でかしたぞ」
言いながら、がしがしと乱暴に頭を撫でられる。正直、痛い。
「あわわわ、今回はイアン様たちと仲良くなったスフィアのお手柄で……わたしは大したことは……」
「いいえ! エリン先生の助言がなければ、私は何もできないクズ師のままでしたよ!」
とっさにそんな言い訳をするも、それを遮ってスフィアも抱きついてくる。
「どんな助言をしたのか知らんが、今夜はお祝いだ」
「お祝い!? やったー!」
「マイラが一番に喜んでどうするんですか。じゃあ、今夜は久しぶりの外食ですね」
「ああ、街一番のレストランを予約してくれ」
ミラベルさんはわたしを抱きしめたまま、本当に嬉しそうに言う。
一方のマイラさんたちは一様に笑顔を浮かべ、少し離れた場所からその様子を見守っていた。
「あうあうあう……クロエさん、マイラさん、笑ってないで助けてください……!」
二人に抱きつかれたまま、わたしは情けない声を上げる。
それを合図にしたように、食堂は再び大きな笑い声に包まれたのだった。
――突然弟子を取ることになったり、貴族のお屋敷に出入りすることになったりと、人見知りのわたしにとっては、心をすり減らすような毎日だけど。
――この工房での賑やかで楽しい日々は、まだまだ続いてほしい。わたしは、心からそう思った。
追放薬師は人見知り!? 第二章・完