「エリン様、ご無理を言って申し訳ありません。お嬢様は弟のイアン様を溺愛しておられまして、時折ああして周りが見えなくなってしまうのです」
イアン様の部屋へ向かう道すがら、エドヴィンさんが小声でそう教えてくれる。
……うん。なんとなくだけど、わかる気がする。
「こちらがイアン様のお部屋になります。確認してまいりますので、少々お待ちください」
やがて奥まった扉の前にやってくると、エドヴィンさんはわたしたちにそう言い、ノックをして部屋に入っていった。
ややあって、扉の向こうから入室許可が出る。
「し、失礼します」
再び緊張しながら室内へ足を踏み入れると、そこには先程と同じようなベッドがあり、その中で一人の少年が身を起こしていた。
髪色こそ姉のオリヴィア様と同じ銀色だったけど、その瞳は鮮やかな翡翠色をしている。その肌が透き通るように白いのは、病弱であまり外に出られないからだろう。
「こんにちは、薬師さん」
「ど、どうも……エリン・ハーランドと申します……」
まるでガラス細工のような、どこか儚げな印象を受けつつも、わたしとスフィアは並んで自己紹介をする。かなり痩せているので判断しづらいけど、スフィアより少し年上だと思う。
「エドヴィンから聞いたよ。姉さんの病気を治してくれたんだってね。ありがとう」
わずかに笑みを浮かべながら言い、「それで、次は僕の病気を治してくれるの?」と続けた。
……その言葉に、わたしは妙な引っ掛かりを覚える。
どうせ治せっこないでしょ……暗にそう言われているような気さえした。
思わずエドヴィンさんに視線を送ると、彼はなんともいえない顔をしたあと、口を開く。
「イアン様、エリン様はこの国一番の
そう持ち上げてくれるも、イアン様は表情を変えなかった。どこか心を閉ざしてしまっているような感じがする。
これは、体の治療と並行して、精神面の治療も必要かもしれない。
無気力感に対する治療薬はもちろんあるのだけど、正直、薬だけでは厳しいものがある。それこそ、環境や本人の意識を変える必要がある。
わたしは少し考えてから、まずは本人へ問診をすることにした。
「あの、イアン様、日頃、食欲はありますか」
「頑張って食べてるよ。お腹の調子が悪くて、残すこともあるけどさ」
「か、風邪をひくことは多いですか」
「うん。季節の変わり目には、三日に一度くらいの頻度で熱が出るよ」
「症状は熱だけですか? 咳が続いたり、お腹が痛くなったりは?」
「咳はないよ。お腹は時々……かな」
「……失礼ですが、ご趣味はありますか」
「趣味……? あえて言うなら、読書くらいだよ」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
いくつか質問をしたあと、わたしはイアン様に一礼し、エドヴィンさんへと向き直る。
「あの、エドヴィンさん、これまでイアン様に使用した薬の
「薬材ですか……? 表にまとめておりますので、取ってまいります。少々お待ちください」
そう言うが早いか、彼はそそくさと部屋から出て行ってしまった。
残されたわたしたちの間に、なんともいえない空気が流れる。
「あの、イアン様、どんな本を読まれているんですか?」
「……えっ?」
そんな空気を壊したのは、底抜けに明るいスフィアの声だった。
彼女は瞳を輝かせながらイアン様のそばに駆け寄ると、ベッド脇に積まれた本の山を興味深そうに見る。
「えっと、貴族や騎士を主役にした物語が多いよ。父様が買い与えてくれるんだ」
イアン様はそう答えるも、明らかに面食らっている様子だった。
「君、本に興味があるの?」
「はい! 好きです!」
ずいっ、と顔を寄せながら、スフィアは満面の笑みを向ける。明らかに、イアン様が気圧されている。
「えっと……女の子には、この本が読みやすいと思うよ。新人メイドの成長物語さ」
彼は少し悩んで、積み重なった本の中から一冊の本を抜き出す。
「ありがとうございます! 読んでいいですか?」
スフィアはそう言うと、彼の返事も待たずにベッドの端へ腰を下ろし、本を開いた。
「……お待たせいたしました。こちらです」
くれぐれも失礼がないように……とスフィアに伝えようとしたところで、エドヴィンさんが書類を手に戻ってきた。
それによって、わたしは声をかけるタイミングを完全に失ったのだった。
それからエドヴィンさんと薬材について話す間、スフィアは本を読みつつも、ずっとイアン様とお話をしていた。
「……じゃあ、君も薬師なの?」
「はい! エリン先生の一番弟子です! まだまだこれからですが!」
「そうなんだ。頑張ってね」
「はい!」
時折そんな会話が聞こえてきて、わたしもつい表情が緩んでしまう。
スフィアは人懐っこい性格だし、すっかりイアン様と打ち解けたようだった。
◇
やがてエドヴィンさんとの話し合いが終わり、わたしたちはノーハット家のお屋敷をあとにする。
工房へと向かう馬車の中で、わたしはイアン様に処方する薬について考える。
エドヴィンさんがこれまで処方していたのは、虚弱体質を改善する
滋養強壮の薬も多くの種類があるのだけど、彼が用意していたのはサクナゲの大花やグリーンオリーブを使った子ども向けの薬だ。
体への負荷が最小限である代わりに、効果もそこまで強くない。言い方は悪いが、無難な薬だった。
わたしが作る場合、効果をもう少し強めた上で、精神面にも効くようにしたい。そうなると、必要な薬材は……。
「……エリン先生、難しい顔をしていますが、イアン様の薬の調合は大変なんですか?」
「そ、そうですね。おそらく、使用する薬材は10種類くらいになると思います。扱いが難しいものが多いので、今回はわたしが一人で調合します」
不安顔で訊いてくるスフィアにそう言葉を返した時、彼女の胸元に一冊の本が抱かれていることに気づいた。
「あれ、その本、イアン様から借りたんですか?」
「はい! 貸してくださりました!」
わたしが尋ねると、スフィアは心底嬉しそうに本を抱きしめる。
……まさか、出会って初日で本を借りるほど仲良くなるなんて。さすがわたしと違って、コミュ力が高い。
「イアン様は日中のほとんどを屋敷の中で過ごされていますし、主治医であるわたくしの他には、世話役のメイドが何人か部屋に出入りする程度。そのご身分もあってご友人もおりませんし、よほどスフィア様のことを気に入られたのでしょう」
馬車の前方から、エドヴィンさんの嬉しそうな声が飛んでくる。
無気力感の治療には、人との交流が大事だと書いている書物もある。スフィアの物怖じしない性格が、イアン様にとってプラスに働いているのかもしれない。
「エリン様、スフィア様。またいつでもお屋敷に足をお運びください。オリヴィア様とイアン様も、きっと喜ばれます」
「はい!」
「そ、そうですね……」
続いてそう言われ、スフィアは元気に返事をするも……わたしはもごもごと言葉を濁してしまう。
歓迎してくれるのは嬉しいのだけど、人見知りのわたしはどうしても緊張してしまう。
次回の訪問のことを考えると、わたしは早くも胃が痛くなってしまったのだった。