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第10話『薬師、メイド服を着る』


 ……ああ、朝が来てしまった。


チラシ配りの当日。わたしはほとんど眠れないまま、朝を迎えた。


 正確には、何度か眠りに落ちたものの、すぐに悪夢を見て目が覚めてしまったのだ。


 夜中に精神を落ち着かせる薬を自分で調合して飲んでみたものの、全く効果はなかった。


「……エリンさん、大丈夫ですか? 目の下、おっきなクマができてますけど」


「えっ、だ、大丈夫です。いつものことなので」


 朝食の席でクロエさんから不意に声をかけられ、わたしは慌てふためきながら答える。


「眠れなかったようだな。本当に大丈夫か?」


 マイラさんのお手製だというパンをかじりながら、ミラベルさんが苦笑する。


 こういう時、悪い未来ばかり予想してしまうのがわたしの悪い癖だった。今朝の悪夢も、その影響だろう。


「エリンさん、今から気にしても仕方ないよ! ここは当たって砕けちゃおう!」


 いやいや、砕けちゃったら元も子もないような気が……なんて思うも、マイラさんは全く気にする様子もなく、コップに入ったミルクをごくごくと飲んでいた。


 ……マイラさんもクロエさんも、本当に気にしていない様子。メイド服姿で人前に出るというのに、恥ずかしくないのかな。


「……さて、食事を終えたら各自準備を整えて、店の前に集合だ。一番人の流れがある通勤時間帯を狙うから、遅れるなよ」


 皆の様子を見ながらパンをかじっていると、一足先に食事を終えたミラベルさんが満面の笑みで言った。


 これは本当に、わたしも覚悟を決めなきゃいけないよう。はぁ、憂鬱だ……。


 ……その後、着替えを済ませて工房の前に集合し、大通りへ向けて歩き出す。


 ちなみにわたしの手には水筒があり、これには煮出したお腹の薬が入っている。

わたしは緊張しすぎると必ずお腹が痛くなるので、この薬が必須なのだ。


「よし、それではチラシ配りを始める。ノルマは……そうだな。クロエとマイラが40枚ずつ、エリンが20枚だ」


 やがて大通りにたどり着くと、ミラベルさんがそう指示を出す。


 昨日皆で作ったチラシには、工房の名前と場所、売っている薬の種類や金額、そして割引クーポンがついていた。


 そんな立派なチラシを一通り眺めたあと、周囲に目をやる。


 朝の大通りはたくさんの人が行き交い、すごく賑やかだった。


 出勤途中の人ばかりで、その誰もが、何かに追われるように先を急いでいる。


 ……駄目だ。とてもじゃないけど渡せない。怖い。


「この街に新たな薬師やくし工房がオープンです! よろしくお願いしまーす!」


「今なら一割引のクーポン付きですよ! そこのお兄さん、どうですか?」


 わたしが固まっている間も、クロエさんとマイラさんはテキパキとチラシを配っていく。


「す、すごい……」


「どうしたエリン。感心していないで、お前も頑張れ」


 わたしが道の端で躊躇していると、ミラベルさんから声が飛ぶ。


「そ、そう言われましても、人は怖いですし、服は恥ずかしいですし……」


 ごにょごにょと呟くように言う。わたしたちがメイド服を着る中、ミラベルさんは普段と同じ軽装で、腰から剣を下げていた。


 少し離れた場所からわたしたちを見守る一方、手を貸してくれる気はないようだった。


「あ、あの……新しい薬師工房が……」


「うん? 悪いねお嬢さん。急いでるんだ」


 わたしは意を決して、できるだけ優しそうな人に声をかけてみるも、困った顔をしてやんわりと断られてしまった。


「あああ、わたしなんて、わたしなんて……」


 勇気を振り絞った結果轟沈したわたしは、すごすごと引き下がる。


 そして近くにあったゴミ箱の裏に隠れ、頭を抱えた。


「エリンさーん、そんなところに隠れちゃ駄目です! 出てきてくださーい!」


 そんなわたしを、クロエさんが陽の光の下へと引っ張り出してくれる。


 うう、役立たずですみません……。


 ……その後も皆でチラシ配りを続けるも、わたしは1枚も渡せないまま時間が過ぎ、次第に通行人の数も減っていった。


 そうなるとチラシを渡せる確率も下がるので、お昼前には一旦工房へ戻ることになった。


「はぁ……結局、1枚も渡せなかった……」


「エリンさん、気にしなくて大丈夫だよー。まだまだ時間はあるし、お昼ごはん食べて、元気だそう!」


 テーブルに突っ伏すわたしに、ポテトサラダをこれでもかと挟んだサンドイッチを差し出しながら、マイラさんが励ましの言葉をかけてくれる。


「あ、ありがとうございます……はぁ」


 そのサンドイッチを受け取りながらも、思わずため息をつく。


 マイラさんとクロエさんは午前中にノルマ分のチラシを配り終えたそうで、わたしは自分のコミュ力のなさを痛感していた。


「うぅ、わたしはチラシの1枚も配れないダメダメ薬師です。ごめんなさい、ごめんなさい……」


「エリンさーん、泣きながらご飯食べないでくださいよー!」


「人前に出る機会を与えれば案外どうにかなるかと思っていたが、これは重症だな……どうしたものか」


 そんなわたしを見ながらクロエさんはおろおろし、ミラベルさんは何か考えるような仕草をしていた。


 このままじゃ駄目だ。皆に迷惑かけてるし、なんとかしないと。


 ……そんなふうに悶々としたまま、午後からも同じように街へ繰り出す。


 午前中にわたしが配れなかった20枚のチラシは皆に再配分され、わたしの手持ちは2枚になった。この2枚を配ることができれば、ノルマ達成ということにしてくれるらしい。


 不甲斐ない姿を見せてしまったし、これはなんとしても配らないと……と意気込むも、道行く人は短いお昼休憩を有効活用しようと、足早に過ぎ去っていく。


 そんな中でも、クロエさんたちは持ち前の明るさで通りすがりの人に声をかけ、さっさとチラシを配り終えてしまった。


 ……コミュ力の化け物ですか、この人たちは。


 一瞬そんなことを考えた直後、冷静になる。これで残っているのはわたしの手にある2枚のチラシだけだ。


 この状況はまずい。他の皆をわたしにつき合わせてしまうことになる。

早く、早く配らないと。


 そう考えるも、焦りばかりが募る。やっぱり人が怖い。


「……あ、エリンさん、優しそうな女の人が来るよ。勇気を出して、あの人に声をかけてみよう!」


 ……まるで根が生えたように動けずにいると、マイラさんが声を弾ませる。


 視線を送ると、前方から歩いてくる女性の姿があった。


 その若い見た目と裏腹に歩みが遅いと不思議に思っていると、男の子を背負っている。


「エリンさん、優しそうな人だし、チラシを渡すチャンスですよ」


「い、いえ、あの、その……」


 クロエさんはそう言って背中を押してくれるけど、わたしには一つ気になることがあった。


「あ、あの、すみません。その子、どこか悪いんですか?」


「え? ああ……うちの子、急にお腹が痛くなったらしくて。急いで連れて帰っているんです」


 そう言われて、男の子の顔をよく見てみる。その顔色は土気色で、胃腸の調子が悪いのは明白だった。


「わ、わたし、お腹に効く薬、持っています。よかったら、どうぞ」


 わたしは震える声で言って、持っていた水筒を差し出す。


「え? でも……」


「ご婦人、彼女は薬師です。心配はいりませんよ」


 女性は一瞬怪訝そうな顔をするも、すぐにミラベルさんが助け舟を出してくれた。


「お気持ちはありがたいのですが、とても薬を買うお金は……先程もハーランド工房へ行ってみましたが、胃腸の薬は700ピールもして……」


「こ、これは試飲サービス中の品です。ジャールの根を使っているので辛味がありますが、スイートリーフも入っているのでお子さんでも甘くて飲みやすいです。どうぞ」


「……そういうことでしたら。薬師様、ありがとうございます」


 とっさにそう言うと、彼女はようやく安心したらしく、水筒を受け取ってくれた。


「体の小さなお子さんは一度に飲むのは三口までで。夕方になってもまだ調子が悪いようでしたら、残りを飲ませてあげてください」


 服薬方法を説明すると女性は頷いて、薬を男の子に少しずつ飲ませる。


「あ、あの、も、もしよろしければ、チラシもどうぞ。新しくできる薬師工房です」


 男の子が薬を飲み終えたタイミングで、わたしは思い出したかのようにチラシを差し出す。


 女性は一瞬驚いたあと、笑顔になってチラシを受け取ってくれた。


 ……やった。渡せた。


「本当にありがとうございます。おかげで助かりました」


 最後にそう言って立ち去っていく女性の背を、わたしは満足げに見送ったのだった。


「やりましたね。エリンさん!」


「うひゃあ!?」


 ……その時、クロエさんが後ろから抱きついてきた。その柔らかい感触に、わたしは変な声をあげてしまう。


 ようやく一歩前進だな……なんてミラベルさんの声も聞こえる中、マイラさんも一緒になって抱きついてくる。左右からの強烈なスキンシップに、わたしの意識が遠くなりかける。


「……おうおう。お嬢ちゃんたち、誰に断ってチラシなんて配ってんだ?」


 ……その時、野太い声が聞こえた。


 とっさに視線を向けると、いかにもガラの悪そうな男性が三人、わたしたちのほうへやってくるのが見えた。


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