早朝4時半。
いつも通りトレーニングをする為起床した俺は、玄関扉を開けて固まった。
「にゃーお」
まるで俺が起きるのを待っていたと言わんばかりに座りながら、クリクリの目で俺を見上げて鳴いているのは、見たこともない小さな黒猫。
成猫にしては身体が小さすぎるし、見た感じ幼い印象を受けたことから、恐らくまだ子猫なのだろう。
「……」
(俺が生きていた頃は、現実の世界で野良猫を見かける事はよくあったが…異世界にも野良猫がいるとは……)
どの世界も共通することなのか、悲しすぎる現実である。
「にゃあぁ~…にゃ~お」
身勝手な飼い主に怒りが湧いてくるも、助けを求めるような子猫の声にハッとし、怖がらせないように、なるべく優しい声で語り掛ける。
「お前…どこから来たんだ?」
「にゃあ…?」
「って、人間じゃないんだし、質問したところで答えられるわけがないか…参ったな…」
子猫は人慣れをしているのか、俺を怖がろうともしなかった。
警戒心の強いはずの野良猫にしては珍しい。
どこかで飼われている飼い猫かとも思ったが、見たところ首輪もしていないし、どこかの家から逃げてきたわけでもなさそうだ。
野良だとしたら、近くに親猫がいるはず…そう思って辺りを見渡してみるが、親猫らしい姿はどこにも見当たらない。
とはいえ、猫の世話をしたことがない俺が子猫の面倒を見るのは…かなりというか絶対に無理だ。
…まぁ、だからと言って放っておくわけにもいかないから困っている訳なんだが。
「とりあえずミシェルに相談してみるか」
小さくため息をついて、猫の目線の高さに近くなるようにしゃがみ込んだ俺は、子猫のツヤツヤの毛並みを優しく撫でる。
野良猫のわりにはやけに毛並みがいいな…と思ったのが第一印象だった。
「お前…1人なのか?お母さんかお父さんはいないのか?」
「にゃぁ」
俺の質問に答えるかのように、子猫が悲しそうなか細い声で鳴く。
「そうか。お前の親になにがあったのかは分からないが…ひとりぼっちになってしまったんだな」
「にゃあ…にゃあ…」
助けを求めるように、ゴロゴロと喉を鳴らしながら子猫が俺の足にすり寄ってくる。
切ない声で鳴き続ける子猫の親になにがあったのかが、なんとなく分かった気がした。
頭を撫でていた手を、肩付近から尻尾の付け根にかけて撫でたところで、俺はようやく子猫の身体の細さに気付く。
子猫の身体はガリガリで、ほとんど骨と皮だけだった。背骨とあばら骨が浮き出ているのが、今の子猫の現状を表していると思った。
「お前…随分と痩せているな…飯はちゃんと食っているのか?」
「にゃあぁ~…にゃーお」
「なにも食っていないんだな?…まったく、それならそうと先に言え。ちょっと待っていろ。なにか食えそうなものがないか探してくる」
真っ先に向かった先はキッチンスペースだ。冷蔵庫を開け子猫が食べられそうなものがないかを探したのだが……
「…なにもない…」
冷蔵庫の中は、愛用しているトルドの水が冷やされるだけで、他には何も入っていなかった。
せめて牛乳でもあれば子猫に飲ませることができたのだが、牛乳を飲む習慣がない俺は常備などしているはずもなく…
まさかここで自分の食生活の悪さを恨むことになるとは思わなかった。
「どうすりゃあいいんだ…」
「にゃーお…」
背後からか細い声が聞こえた。
振り返れば餌を貰えると悟ったのか、期待の眼差しで子猫が俺を見上げている。
「……仕方ない…牛乳、買いに行くか?」
「にゃあっ!」
やはりこの子猫は人間の言葉が分かっているのかもしれない。
嬉しそうな表情をしながら鳴いた子猫を抱き上げ、俺はシャルメーンロードへと向かったのだった。
***
「今日も一段と人が多いな…」
シャルメーンロードに向かうまでの間、いつもより精霊や妖精とすれ違う回数が多い事にげんなりしつつ、腕の中でゴロゴロと喉鳴らしながら甘える子猫を撫でる。
「にゃ~ぁ?」
「心配してくれているのか?牛乳を買いに行くだけだから大丈夫だ。我慢は出来る。それに、いずれは克服しなければいけない事でもあるからな…」
「にゃ?」
「…なんでもない。こっちの話だ」
俺はシャルメーンロード入口付近にある看板の前で立ち止まり、牛乳が売っている店の場所を確認する。
木で作られた3メートルほどの巨大な看板には、シャルメーンロード内の店の場所を示すMAPの映像が映し出されていた。
とは言っても、数百件ある店の中から牛乳が売っている店を探すのはそう簡単じゃない。
しかも俺の場合、言語は通じてもヨルノクニで使われている文字が読めないという問題がある。
「どこに店があるかさっぱり分からん…」
絵文字とハングル文字が融合して逆様にしたような、THE異世界と言わんばかりの解読不可能な文字に困惑しながら、店の場所と共に映し出されている絵文字のアイコンを頼りに牛乳らしきアイコンを探す。
前に一度店の前を通った時は人も多かったし、本当にたまたま通りかかっただけだったこともあって、どこに店があったかまったく覚えていなかった。
(こんなことなら、あの時ちゃんと場所を覚えておけばよかった…)
「あれっ…もしかして、君…征十郎くん?」
ふと、背後から声をかけられ振り返る
「エヴィ―か」
「覚えててくれてよかった~!久しぶりだね!ところで、看板を凝視してどうかしたの?」
大きな籠風の鞄を両手に抱えたエヴィ―が、不思議そうな表情で訪ねてくる。
「実は牛乳を売っている店を探しているんだが、文字が読めなくてどこにあるか分からないんだ」
「牛乳?それならシャルメーンロードの入口を入って3分くらいのところにあるよ?」
「…そんなに近くにあったのか」
「うん。ほら、ここだよ!」
エヴィ―は看板に表示されている店の場所を指さす。
見てみると、確かにそこには牛のような絵が表示されているが、分かりづらい事この上ない。
パッと見、牛は牛でも牛乳ではなく、肉を売っている店だと思ってしまうからだ。
「こんなの分からなすぎるだろう…」
どうりで探しても見つからない訳である。
「もしなにか買い物をしたいけど店が分からない時は、なにを買いたいのか考えながらこの水晶玉に触れるといいよ」
そう言うと、エヴィ―は看板の真下の台の突起物にはめられている水晶玉に触れた。
するとすぐに水晶玉は淡く光り、MAP全体が暗くなると、入り口付近の1つの店が場所を示すようにゆっくりと点滅し始める。
点滅している場所は、さっきエヴィ―が教えてくれた場所だった。
「エヴィ―が教えてくれた店が光っている…」
「この水晶玉に触れる事によって、私達が探しているものを水晶玉が感じ取ってくれて、場所を教えてくれるの!征十郎くんみたいに文字が読めない人はこの世界にもいるし、目が不自由な人もいるから、そういう人達のために設置された魔法の道具なんだよ!」
「便利なものがあるもんだな…教えてくれてありがとう。助かった」
「どういたしまして!」
満面の笑みで返事をしたエヴィ―の表情は、何かを思い出したように暗くなり始める。
「征十郎くん…少しだけ時間大丈夫かな?」
「あー…いや…」
なにかを話したそうにしているエヴィ―に曖昧な返事をしつつ、子猫が気になり一瞬だけ視線を落とす。
子猫は待ちくたびれてしまったのか、ただ単に俺の腕の中を落ち着く場所だと思ってくれたのか、腕の中で身体を丸めて寝ていた。
「征十郎くん?」
一瞬子猫のことをエヴィ―に話そうかとも思ったが、起こすのも可哀想だし、寝ているのならその間にエヴィ―の話を聞いて、その後で牛乳を買いに行っても問題はないだろうという結論に至った。
「あまり長い間時間は取れないが…少しなら大丈夫だ」
「ありがとう。…その、この間は迷惑をかけちゃってごめんね。あの時の事、ずっと謝りたかったんだ」
エヴィ―が言う“あの時”とは、恐らく早朝に家に突撃をしてきた時の事だろう。
「過ぎた事だし、もう気にしなくていい」
「うん…ありがとう。ミシェルがね…私達以外の誰かと長い間一緒にいるってことが今までなかったからさ…嬉しくなっちゃったんだ」
切なそうな表情で話すエヴィ―は、よほどミシェルの事を大切に思っているのだろう。
言葉の中にいろんな感情が込められているような気がした。
「……単純に、慣れ親しんだヤツと一緒にいる方が好きなだけじゃないのか?」
「それもあるかもしれないけど…実はね、――ミシェルは小さい時に、悪魔堕ちした男の精霊に襲われた事があるんだ」
「っ…!」
エヴィ―の口から衝撃的な言葉が俺の耳に入ってきた。