「深夜、仕事の帰り道の事だ。いきなり路地裏から子供の泣き声が聞こえたんだ。時間帯も遅いし子供なんているはずがないとは思っていたが、気になって行ってみると、そこには幼い子供がいた」
「そして、その子供を見てすぐに“生きている人間じゃない”と気づいた」
「関わらない方がいいというのは分ってはいたが、どうしても放っておけなくて声をかけた。だけど、そいつはいきなり豹変して俺を襲ってきたんだ」
「子供の姿から別の姿に“変化”したのはどのタイミングでしたか?」
一通り話した後で、オリビアが真剣な表情で聞いてきた。
「俺の拳が、1度だけそいつに当たったタイミングだ」
「ッ…!!」
その瞬間、オリビアの目が見開く。
驚くタイミングがミシェルと同じだった。
なにか驚く理由があるのだろうか?ここまで一緒だと、さすがに気になって聞いてみる。
「なにかあるのか?」
「いえ……続けてください」
オリビアの反応が気になりつつも、俺は続きを話し始めた。
「俺の拳が当たったことに怒り狂った子供の身体の中から、大柄な男が出てきた」
「その男の見た目を教えていただけますか?」
神妙な面持ちのまま、オリビアが聞いてくる。
「頭に大きな角が2本。背中には大きな黒い羽。黒髪で長髪の赤い目をした男だった」
「……」
オリビアの表情が
「オリビア様…やはり…」
「ミシェル」
ミシェルが何かを言いかけたところで、オリビアが制止をかけた。
「…っ」
何か知っている事を感じながらも俺はオリビアに訊ねる。
「続けてもいいか?」
「はい…お願いします」
「男は自分のことを“魔王”だと言って、俺の腹に腕を突き刺してきた」
「その後、動かなくなった俺を死んだと思ったのか、空中に出した穴に入ろうとしていたから後を追った。そして気づいたらこの世界に飛ばされていたんだ。現実世界の俺が今頃どうなっているのかは分からんが、元の世界に帰りたいとは思っていない」
正直な自分の気持ちを告げると、オリビアが静かに口を開く。
「征十郎さん。あなたには、普通の人間には見えない存在が視えていらっしゃるのですね」
見透かしたようにオリビアが聞いてきた。
「……視えている。そのせいで、幼少期のいい思い出は1つもない」
「そうですか…。視えない者達しかいない世界で生きていくのは、さぞお辛かったでしょう…」
「…っ」
まるで自分が辛かったように話すオリビアの言葉が、突き刺さる。
「ですが、この世界の者達は皆貴方と同じものが視えています。視えない者達だけではなく、貴方と同じものが視えている者もいるということを、どうか…忘れないで下さい。辛い人生を送ってこられた分、これからは自由に貴方らしく生きてください」
「ッ…!!」
花が咲いたように綺麗に微笑むオリビアから目が離せなかった。
今まで心にかかっていた霧が晴れた様に心が軽くなった気がする。
初めて感じる、不思議な感覚だった。
「これからのことで、征十郎さんにお話をしなければいけない事がございます」
「なんだ?」
「…征十郎さん、貴方が今後元の世界に帰れることはありません」
「……」
「貴方が遭ったのは、悪魔達のトップに君臨する魔王・ゲオルグという最上級位の悪魔です。この世界での貴方は生きていますが、現実世界の貴方はゲオルグによって
「!」
「貴方がゲオルグの後を追わず、現実世界で何かしらの処置を受けていれば、もしかしたら生き延びていた可能性は少なからずあるでしょう。しかし、ヨルノクニに来た時点で、その可能性は消滅しました」
よくよく考えてみれば不思議だった。
悪魔に負わされた攻撃は即死しても不思議じゃないほどの怪我だったはず。
腹の怪我も痛みも、ヨルノクニに来る前は確かにあったはずなのに、ヨルノクニに来たらその傷は完治しているどころか、最初からなかったかのように綺麗になっていたのだ。
「……そういうことか…」
「人間という生き物は、現実世界から魂が消えれば死にます。死んだ人間が生き返ることは絶対にありません。通常であれば死んだ人間がこの世界に来ることは不可能。ですが貴方は私の結界に弾き飛ばされずにこの世界へとやってきた…それにはなにかしらの意味があると、私は思っています」
「…」
「もし貴方が自分の死を受け入れ、ヨルノクニで生きていくことを決めるのなら、私は貴方を迎え入れます。ですが、仮に受け入れることができなければ、本来貴方が行くべき場所へ私が責任を持ってお送りいたします。――貴方のお気持ちを聞かせていただけますか?」
「俺は…」
視えることからずっと解放されたかった。
誰も信じてくれない、信じようとしてくれない人間達がいるあの世界が心底嫌いだった。
何度もこの世から消えようとも考えた。
(だけど、この世界は違う――)
(ここなら、俺のことも、俺が視えているモノも、みんなが信じてくれるかもしれない)
(それなら、答えはひとつだ)
「受け入れる」
「自分の死を受け入れて、俺はこの世界で生きていく」
「――分かりました」
オリビアがふんわりと微笑んだ。
「そうなれば、早速征十郎さんの自宅を用意しましょう。すぐにご用意できると思いますので少しだけお時間を下さい」
「分かった」
折りたたまれていたオリビアの羽が大きく広げられると、光の粒子を纏いながら姿が消えた。
**
天空神殿の最奥に位置する部屋に、光の粒子を纏ったオリビアが姿を現した。
300㎡はある部屋は広く、オリビアの大きな羽を伸ばした状態でも広々と使える空間だ。
白で統一されている部屋の床はすべて大理石が敷き詰められていて、部屋のあちこちには西洋風の家具が設置されている。
中央には巨大な革製のソファとガラスのテーブルが置かれているが、ソファには座らず、奥にある書斎スペースへと向かって歩き出した。
「まさか、こんなことになるなんて…」
征十郎の前で話していた堂々とした表情とは違い、神妙な面持ちを浮かべたオリビアの表情は暗い。
書斎スペースの傍にある台には、四方の位置から封印が施された手のひらサイズ2つ分程の水晶玉が置かれていた。
水晶玉の中には、半分ほど黒ずみかかった1枚の羽が浮かんでいる。
「……やっぱりあの時に殺しておくべきだったわ」
水晶玉の中の羽をじっと見つめ、水晶玉に触れようと手を伸ばした時、扉の向こうに気配を感じて手を引っ込めた。
オリビアは振り返らないまま、口を開く。
「ミシェルね」
すると、扉がゆっくりと開いた。
「…はい。許可なくこちらまで来てしまい申し訳ありません、オリビア様」
扉の前には、片膝をついて跪くミシェルの姿があった。
「構わないわ。入って」
「はい」
オリビアの指示にミシェルが立ち上がる。
ヒール音を鳴らしながら歩いていき、オリビアの背後に立つと言いづらそうに話を切り出した。
「オリビア様、実は――」
「ゲオルグの事でしょう?」
間髪入れずにオリビアが口を開く。
「…はい。征十郎の話が本当であれば、ゲオルグはオリビア様が施した結界を何かしらの方法で破り、外界を自由に行き来しているということになります。こんなことは今まで一度もありませんでした!」
「そうね」
「オリビア様の結界は完璧なものです。あの日以来、ゲオルグはもちろん他の悪魔達が外界を行き来しているという目撃情報は一度もありませんでした。結界をすり抜け、人間界にまで行けるようになっているということは、オリビア様の力と同等の力まで魔力が回復したか、それ以上の強大な力を身につけているということになります!」
「…」
「このままでは、あの時と同じようなことが起こりかねません!!そうなればゲオルグが真っ先に狙ってくるのはオリビア様です!あいつは…あいつはまだオリビア様を諦めていないと思います!」
オリビアの背中越しに強めの口調で訴えるミシェル。
「…ミシェル…」
オリビアがようやく振り返った。
「私、もう嫌なんです!この世界やオリビア様が傷つくところを見るのは…ッ!!」
必死に訴えるミシェルの頬に、オリビアの手がそっと添えられた。
「貴女は昔と変わらず優しい子ね」
「っ…」
優しく微笑むオリビアの笑顔に、ミシェルの表情が泣きそうに歪んだ。
「心配しなくても大丈夫よ。ゲオルグのことも、結界の事も至急対策を考えるわ」
「…オリビア様…っ」
「あんな事は、もう二度と起こさせない。だから心配しないで」
まるで子供をあやすように、オリビアがミシェルの頭を撫でる。
優しいオリビアの手に、ミシェルの目に涙が浮かんだ。
「…はい…っ」
オリビアはミシェルを優しく抱きしめた。