電話が終を切わった後、夜霧はまず水を飲んだ。
飲まず食わずで眠り続けていたことを思い出したからだ。
腹は減っているが、十分過ぎる睡眠のおかげか体調は万全だった。
夜霧は部屋の外に出た。
廊下には誰もいない。だが、知千佳の話ではによれば見えない何かがいるとのいうことだったらしい。
前方に意識を集中する。すると黒い靄が見えた。それは斜め向かいから、知千佳の部屋へと伸びている。
具体的な殺意ではなく、夜霧へ向けられたものでもないので薄ぼんやりとしか見えないが、そこに何かがいることはわかった。
夜霧が現れても、それの殺意を発している何者かは動きを見せなかった。相変わらず殺意は知千佳の部屋へと向いている。それは、気付かれているとは思っていないのだろう。
夜霧はその何者かれに向けて力を放った。
どさり、と何かが倒れる音がした。
少しして、うつ伏せに倒れた少女が現れた。
夜霧はろくに確認もせずに知千佳の部屋の扉を叩いた。
「俺だよ」
すぐに扉は開かれ、恐る恐るといった様子の知千佳が顔を見せた。
「早く入って!」
敵を警戒しているのだろう。夜霧は素直に従った。
「確かになん何かいたよ」
部屋に招き入れられた夜霧は客用の椅子に腰掛けた。
「え、じゃあ姿は見えたってこと?」
「姿は見えなかったけど殺気の出所はわかるよ。この部屋の斜め前あたりに潜んでた。俺には興味がなかったみたいで特に動きは見せなかったな」
「あー、もこもこさんもそんなこと言ってたんだよね。私への敵意を感じたって。でもさ、私って恨まれるようなこと何もしてないと思うんだけど」
確かに、これまでに敵を殺したのは全て夜霧で、知千佳は何もしていない。
『阿呆か。どっちがやったかなど端から見ておってわかるわけもあるまい』
「けどそれなら壇ノ浦さんにだけ敵意を向けるのはおかしい。となると仇討ちってわけじゃないのか?」
狙われる心当たりはそれなりにあるが、具体的な理由まではわからなかった。
「で、まあ、来てもらったのはいいんだけど、どうしようか」
『ふむ。席を外せということならやむを得えないな。よろしくやるがいい!』
「今そんな話してないから!」
「?」
血相を変える知千佳を見て夜霧は首をかしげた。
「そ、それはそうと、どうしたらいいと思う?」
知千佳が強引に話を戻したが、夜霧は特に気にしなかった。
「ああ、そうだ。電話を借りるよ」
夜霧は立ち上がり、フロントに電話をかけた。
「五階の廊下に女の人が倒れてるよ。助けがいるんじゃないかな」
簡潔に用件を伝え、再び椅子に座る。
「え? どういうこと?」
「このまま見知らぬふりをするのも不自然かと思ってさ。廊下に出た俺が死体に気付かないわけがないし」
廊下には誰もいなかったが、前後の状況次第では怪しまれるかもしれない。できるだけ自然な対応をしたほうがいいと思ってのことだ。
「死体?」
「とりあえず殺したけど」
「って、もう!?」
「姿を隠して潜んでるような奴は殺されても仕方がないと思うけど?」
どんな事情があろうと、そんな奴は怪しすぎる。まず排除して然るべきだと夜霧は考えた。
「そりゃそうかもしれないけどさ。なんで狙われてるのかとか、そういうの気にならない?」
『確かに、背後関係を聞き出したいところだったな。組織的な動きだとすれば厄介だぞ?』
「と言われてもね。俺にできるのは殺すことだけだし。尋問向きじゃないんだよな」
手加減の実験は行ったが、やはりこの力で尋問は難しいだろう。脅すには見せしめと説明がいるし、回復不能なダメージを与えてしまっては相手が助かる希望を失ってしまう。
即死の力を使わずに拷問を行おうとしても、姿が見えなくなるような能力の持ち主だ。他にどんな力を持っているかわからない。
安全を第一に考えれば、殺すのが一番だっただろうのは間違いない。
「そういや、倒れている人を放っておくのも不自然か」
夜霧が部屋を出ると、知千佳もついてきた。
まだホテルの人間は来ておらず、少女は先ほどと同じ場所に倒れたままだった。
「確かにこれを見ても人が倒れてるとしか思わないよね」
「俺が言うのも何だけど、壇ノ浦さんって結構冷静だよね」
これまでに、もっと凄惨な死体も見ているがのに、それほど気にしている様子がない。女の子ならもっと取り乱すなり、脅えるなりするものだろうと夜霧は思ったのだ。
「慣れたのかもね。それもどうかと思うけど」
『人などいずれ死ぬものよ。武家の娘がこの程度のことでいちいち取り乱したりはせぬわ』
「そこまで達観はしてないし、結構びびってはいるんだけど……あれ? ねえ、顔を見てもいいと思う?」
死体を見た知千佳が、何かに気づいた様子だったで聞いてくる。
夜霧は死体に近づいてしゃがみ込み、あっさりと仰向けにした。
「いや、現場保存的な意味で大丈夫かなーって思ったんどけど」
「倒れてる人を介抱しようとしたって言えば大丈夫だろ」
死んでいるのは、金髪をツインテールにした少女だった。
「……やっぱり。この人、橘くんの仲間だよ。親衛隊のエリカって子」
「だとすると橘の差し金か? なんにしろまずいな。あいつに喧嘩売ったことになるような」
この場合、売られた喧嘩を買ったともいえるが、どちらにしろ敵対行動を取ったことには変わりない。
『支配者にどの程度の力があるのかわからんが、部下の状況は全て把握していると考えたほうがよいかもしれぬだろうな』
「橘もこのホテルに泊まってるんだよな。とりあえずここは出たほうがいいか」
そんな話をしていると、ホテルスタッフがやってきた。
医者らしきもの者もいて、エリカが担架で運ばれていく。今のところ事件性はないと思われているのか警察の類は来ていなかった。
夜霧たちはこのホテルを後にすることを決断した。