ガチャン!
電話のガチャ切りがマナー違反とはよく言ったものだと、南沢市総合病院の新人ソーシャルワーカー上坂衛は、はぁっと大きなため息をつきながら受話器をそっとおいた。
病院のソーシャルワーカーに転職して1年。
これまで幸運にも「普通の家族」しか担当してこなかった上坂衛にとって、今回の斎藤家は初の困難ケースとなる事案だった。
「マジで勘弁してくれよ・・・」
「おう、上坂!あのおばさん、なんだって?」
「ちょっと、鈴木先輩。そのセリフ、事務長が聞いたらどやされますよ!」
隣の席で、のんきにコーヒーを飲みながら仕事をしていた先輩の鈴木圭吾は、困難ケースの対象者・斎藤しおりと上坂衛のやり取りを毎回楽しんでおり、今回も電話を切ったとたんに上坂衛に声をかけてきた。
「・・・あのババアを家に連れてこられても困る。でも金はない。どうにかしなさいよ、だそうです。連れてこられてって、日本語おかしくないですか?入院してるのは、あんたの母親でしょう?!」
斎藤しおりが電話で言った言葉を、そのまま鈴木圭吾に伝えた上坂衛に、鈴木圭吾はガハハと大きな声で笑った。
「ま、想定内だろ。」
「そうですけど・・・でも、もう退院期限まで時間がないですし・・・金も無いなら家に帰るしか・・・」
「まぁな。」
上坂衛が担当している斎藤家は、5年前に南沢市へ越してきた南沢市内在住の一家だ。
転倒し腰椎圧迫骨折をした斎藤幸子が、『おばあちゃんが動けなくなった』と病院に救急搬送されて早1か月。
腰の骨は保存療法でくっつくのを待つしかないため、コルセットを作成し、その後リハビリテーションを始めた斎藤幸子は、順調に回復し、現在は入院前と同じADL(日常生活動作=排せつや食事、着替えなどの生活動作)まで回復している。
しかし、入院前と同じADL、は決して家族にとって良い意味とは限らない。
この斎藤幸子もまた、その一人だった。
「幸子さん、徘徊すごいもんな。おかげで病棟看護師からは面倒をみれないから退院させろと毎日怒鳴られ、それを家族に伝えても、のらりくらりとかわされるか、泣かれるか、怒鳴られるか・・・どっちにしても大変だなぁ、上坂。」
「そう思ってるなら、なんかアドバイスとか手助けしてくださいよ・・・」
昔は、最後は病院が何とかしてくれる時代だったが、近年は医療制度改革が進み、病院は身体を治す場所としての機能に特化されるようになってきた。
一日でも早く家に帰るために、入院後すぐにリハビリテーションを行うのもその一環だ。
今回の斎藤幸子の場合、コルセットが出来てしまえば、それ以上の治療はないので、そこで医師から既に退院許可が出されている。
現在いるのはレスパイト病棟。
入院期限は最大60日。
退院許可が下りても、もう少しリハビリをした方が良い人や家で生活するにあたって調整が必要な人が入る病棟である。
斎藤幸子がそこに入って既に3週間が経過しているが、認知症のため、腰の骨が折れている事を忘れてしまった彼女は、昼夜問わず病棟内を徘徊し、看護師や他の患者からクレームの対象となっていた。
そこで退院後の調整を早くしろとせっつかれて、医療ソーシャルワーカーの自分へと仕事が回ってきたのだが、いかんせんその娘・斎藤しおりは日本語が通じない。
入院してきた当初から、医師からのIC(インフォームドコンセント=病状説明)を無視したり、看護師の呼び出しに応じなかったりしているが、その言い訳がいつも「電話なんてかかってきていない」「連絡を受けたが時間や日にちを間違って教えられた」と、病院側のせいにしてくる非常に質が悪い家族だった。
そんな人物でも、接しなくてはいけないのがこのソーシャルワーカーという仕事。
「本当に使命感がないと、やってらんないっすね。この仕事。」
「だろう?だからすぐに辞めてくんだよ。」
医療や介護は常にどこも人不足だ。
賃金が安すぎるというのが世間ではクローズアップされがちだが、実際に職についてみた上坂衛としては、賃金以上に人間関係に疲弊して辞めていくのではないかと思ってしまう。
今までだって、比較的良い人ばかりだったとはいえど、主介護者の家族が認知症で何度言っても通じないとか、性格がルーズで約束をすっぽかされるとかはざらにあった。
さらには高齢者が帰るために必須の存在であるケアマネジャーたちは妙に癖が強い人物が多い気がする。
「・・・マジで、今回のケアマネさんどうしよう・・・」
今まで自宅で徘徊し、警察のご厄介になっていたはずの斎藤幸子はなんと介護保険の申請すらしていなかった。
慌てて申請するよう話したが動いてもらえず、何度も何度もお願いして、ようやく昨日申請したばかりだ。
正直なところ、おそらく退院までに介護保険は間に合わない。
こんな厄介な家族を相手に、介護保険は暫定で、なんて言おうものならケアマネジャーたちに「今まで何やってたんだ」などと、どんな嫌味を言われるか分かったものではない。
(俺の落ち度じゃないんだけど、言ったところで分かってくれないもんな・・・)
はぁっと再び大きなため息をついてうなだれた上坂衛の肩を、鈴木圭吾は励ますようにぽんっと叩いた。
「家族に関しちゃどうしようもないが、いいケアマネさんなら知ってるぞ。」
「本当ですか?!あの家族で?暫定プランで受けてくれるんですか?!」
「正直なところ、受けるかどうかは分からん。彼女は気まぐれだから。」
鈴木圭吾のいい加減な発言に、だんだんと腹が立ってきた上坂衛は「もういいです」とパソコンに向かって仕事をし始めた。
「まぁまぁ。でも、話してみる価値はある人だぞ。」
「価値?」
「彼女はケース内容によって受ける受けないを決める人なんだ。ただ受けてくれるなら、家族との交渉もしてくれる。なにぶん、天才的なコミュニケーション術を持っているからな。」
「はぁ・・・でも、そんな気まぐれな人じゃ頼みづらくないですか?」
「すまん。実際は性格が気まぐれというわけじゃなくて、彼女は基本、末期患者のケースしか受けないんだ。でも、時々、普通のケースを受けてくれる。」
末期しか受けないケアマネジャー。
その言葉に上坂衛は大きな衝撃を受けた。
ケアマネジャーという仕事をよく知っている訳ではないが、ケースを受けた直後が一番仕事が多く、膨大な事務作業を必要とすると聞いている。
なので、仕事をするうえで一番ありがたいのは、長期でその利用者様と付き合っていける安定したケースのはずだ。
それなのに、末期専門とは・・・
「・・・マゾ?」
思わず思ったことがぼそっと口からついてしまい、それを聞いた鈴木圭吾は大爆笑し始めた。
「お前、それを彼女の前で言うなよ。セクハラになるぞ。」
「すみません。気を付けます。それで、その人は?」
ああ、と鈴木圭吾は名刺ホルダーを取り出すと、その中の一つを抜き取り、上坂衛に手渡した。
上坂衛は手渡された名刺をじっと眺める。
この業界にしては珍しく、事業所紹介やらマスコットやらが付いていない白い台紙に、黒い文字だけが打たれたシンプルな名刺。
『ケアプランセンター結 管理者 主任介護支援専門員 木原悠里』
名刺を渡されてしまった以上、電話をかけないわけにはいかなくなった上坂衛は、意を決してケアマネジャー木原悠里へと電話をかけた。