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最終話 セレネとジャンの物語

 翌朝、セレネはなぜか引きたてのコーヒー豆の香りで目が覚めた。普段は寮の同室のパラスティーヌが淹れる紅茶の香りだが、今日はちょっと刺激的だ。

 のそのそベッドから起き出して寝ぼけ眼でソファに座るセレネの前に、大手新聞社から発行された今日付の新聞紙がずらりと並べられた。そこに記載のあるセレネの記事一つひとつを、ジャンが説明していく。

 昨晩のうちに国王の退位が決まり、新たな国王としてセレネが推挙され、女王としてその座に就くこととなった。戴冠式は一か月後の建国記念日と定められ、云々……他にも改革派貴族たちの逮捕や新しい宮廷官僚の任官など重要情報もあったが、それらは省略された。

 セレネ女王誕生という大見出しが踊る新聞を突きつけられては、セレネも現実を受け止めなくてはならない。とはいえ、なかなかこの現実は受け入れるのが容易ではない。本当は現実ではないとか言われないだろうか、セレネはジャンへ尋ねてみた。

「ほ、本当に戴冠式、するの?」

 ジャンは食堂からコーヒーのたっぷり入ったポットをもらってきていた。カップにコーヒーを注ぎ、ミルクと砂糖を放り込んで混ぜ、セレネへ手渡す。

「ああ。そうじゃないと、君が女王になれない。イースティス王国は変わるんだ、君はその旗頭となっていく。それでいい、僕の望みは叶ったようなものだ」

 このクソッたれた国は変化するんだ、とジャンは付け足す。

 そして、もう一つ、言い忘れてはいけない現実を、セレネへ伝えた。

「平民にすぎない僕は、女王の君と結婚したくてもできない。惜しいな、婚約していれば強引に進められたかもしれないが、もう遅い」

 セレネは分かっていた。王というのは、何もかもが不自由だ。国で一番権力を持っていても、結婚相手さえ自分で決められない。誰か一人のためだけに働くことを許されない。もしジャンが宮廷に入ったとしても、私的な交流はかなり制限される。

 ジャンは見返りを何も求めなかった。仕事も金も、ド・ヴィシャ侯爵家のことだって解決を求めたりはしない。その理由を、ジャンは空元気の笑顔を浮かべて話す。

「そんな顔をしないでくれ。僕は君を利用したんだ、このクソッたれた国を変えてやるために、『鬼才スター』を求めた。運よく、僕の望みは叶ったんだから、それ以上を求めるのは分不相応というものだ。違うかい?」

 一人で納得しているジャンへ、セレネは精一杯の反論をする。

鬼才スターって何のことか知らないけど、そんなことより! だって、ジャンは、私のこと嫌いなの? 好きだから、結婚してほしいなんて言えたんじゃないの? 違うの?」

 ——嫌いなわけじゃない、って言ってくれたのに。

 ——プロポーズしてくれたのに。

 ——それに、それに。

「キスしたのは、私を利用するためじゃないでしょ! ちょっとでも好きだと思ったからしたんでしょ!? じゃあ、じゃあ……!」

 その先の言葉は、声にならなかった。セレネの目に、涙が溢れてくる。

 部屋の窓のカーテンがはためく。朝の柔らかな日差しが差し込み、涙ぐむセレネにまで届く。眩しいほどに、セレネのまだ整えていない金の癖っ毛は光を受けて、明るく輝いていた。

 『奇跡の王女ワンダープリンセス』の奇跡は、まだ起きていない。

 ジャンは粗末なハンカチでセレネの涙を拭いて、これから起きるかもしれない奇跡を匂わせる。

「僕はサンレイ伯爵領へ行く。そこから先は……言わなくても分かる?」

「分かんない」

「そうか……えーと」

 どうやら『奇跡の王女ワンダープリンセス』は迂遠な物言いを好かないようだ、とジャンはからかって、それから——。

「もし僕を追いかけてきたかったら、サンレイ伯爵領に熟成肉を食べに行くといい。そうすれば、気兼ねなく会えるだろう?」

 そこまで言われて、やっとセレネは顔を上げ、その言外の意味に大きな大きな希望を、夢の続きを見出した。

 しゃっくりして、鼻を啜り、ハンカチで涙をすべて拭いてから、セレネは『奇跡』を手に入れることを決心する。

「ジャン、お肉食べすぎて太ったりしないでね?」

「善処する。それじゃ、『奇跡の王女ワンダープリンセス』が『素晴らしい女王ワンダークイーン』になれますように」

 こうして、セレネとジャンは一旦、道を別つことになる。

 しかし、セレネは諦めない。『奇跡』のようなことだったとしても、希望が残っているのなら諦めない。

 サンレイ伯爵領で待つと言った一人の数学者に、若き女王は恋焦がれていた。

終わり。

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