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第2話 ジャンの失望

 セレネが貴族学校を飛び出した同日、ほぼ同時刻。

 貴族学校の講義棟前にある渡り廊下の柱に、煤けた灰色の髪をした青年が背をもたせかけて立っていた。羽織っている王立大学校の制服である濃紺のボレロ式ジャケットがやけに立派で、錫色のメガネ、ライトベージュと暖色のベストが目立たないほどだ。分厚い本を小脇に抱え、紐で縛ったレポート用紙をペラペラとめくって目を通す。

 そこへ、一人の女子生徒がやってきた。女性としては若干背が高く、ヒールの高さを足せば青年と同じくらいの身長になる。薄紅の詰襟のドレスは淑やかさと華やかさを両立し、彼女の大人びた美しい顔立ちとブラウンの長髪が際立つ。

 女子生徒もまた、教科書やノートを胸の前に抱き、そこから十数枚ほどの紙束を取り出して、青年の挨拶とともに差し出す。

「ごきげんよう、ジャン。教えてほしいところがあるのだけれど」

 挨拶もそこそこに、青年——ジャン=ジャック・マードックは紙束を受け取り、その表紙を一瞥した。すると、頬を緩ませ、感心する。

「ふむ、この論文は最新のものか。よく手に入ったね」

「お父様の伝手で、教授たちへ配布する写しの一部を王立大学校からいただいたの。次のページ、この数式は見たことのないものだけれど、何かしら?」

 女子生徒——エールヴェ伯爵令嬢ユーギットは、ジャンがめくったページの末尾にある、まるで魔術のような複雑な数式を指差す。

 それをジャンは、チラリと見ただけで数式の正体に気付いた。つい昨日、若手研究者たちの集まりで話題になったばかりのものだ。

「ああ、それは物理学者たちが最近好んで議題に挙げているもので、一般的にはまだ馴染みのないものだ。知らなくても無理はないよ」

「まあ、そうだったのね」

 それから数回、質疑応答のやり取りがあったのち、ユーギットは「なるほど、まだまだ読み込み足りないわね。ありがとう」と感謝を述べて、ジャンが手放した論文の紙束を受け取る。

 最新の数学論文についてなど、貴族学校の数学講師と生徒の会話にしてはなかなかに高度な話題だ。それも、ユーギットは女子生徒であり、数学が必修というわけでもない。むしろ女子は講義を受けられず、単位取得ができないため、聴講生として数学の講義に出席していた。その数学の講義で教えているのがジャンであり、おそらく男女合わせても今の貴族学校では随一の数学の才能を持つのがユーギットだ。

 しかし、ユーギットは貴族令嬢だ。貴族学校を卒業すれば、結婚して家庭に入る。女性が数学など学んでも無駄だ、と世間一般では嘲られるように、ユーギットの数学への熱意が真に理解されることはないだろう。

 ジャンとしては、そんな現状を嘆かざるをえない。

「ユーギットは意欲的で賢い。王立大学校に入ることも夢じゃないだろうに」

 ユーギットはまあ、とわざと驚いたフリをして、やれやれと肩をすくめた。

「貴族令嬢にそんなことは求められていないわ。やるべきことなんて、淑女教育をまっとうして、いい家の殿方に嫁いで、後継を育てることだけよ」

「それが君の進むべき道なのか?」

「ええ、そうよ。そうすべきで、それ以外は私ではない人がやればいいの。だって、そうでなくて? 貴族というのは、その役割をまっとうする人間に与えられる身分よ。貴族としてやるべきことをやらず、他のことにかまけられるほど私は要領がよくないし、他人の目を気にしてしまう性分だから無理よ」

 ユーギットのその言葉が、まるきりユーギット本人の意思であるわけがなかった。貴族令嬢が本心を口にしてしまえば、ろくなことにならないと騎士物語やロマンス小説が教訓として伝えるように、彼女たちは貴族令嬢という人形になることを望まれており、そうなるよう努める。中でも特別優秀なユーギットは、貴族令嬢という完璧な人形になりきることを期待される。

 ゆえに、ユーギットはあるかもしれない未来を諦めているのだ。あるわけがない未来を望んでいれば諦めろと諭せるが、あるかもしれないのなら——本人も他人も希望が捨てきれないものだ。

 だからと言って、ジャンにはどうすることもできない。彼女の境遇に、深い嘆息を贈るしかない。

「それがこの世の習いなら、致し方ないか」

「そう? あなただって、何かやるべきことがあるのではないかしら? 貴族の一員、と言っていいのか分からないけれど」

 ド・ヴィシャ侯爵の婚外子に対してのユーギットの控えめな表現にジャンは苦笑しつつ、ユーギットの未来を揶揄した対価として自分のことを語る。

「ある天才を探している」

「天才? あなただって十分天才でしょうに?」

「ああ。僕よりもずっと……天才という表現はそぐわないな、『鬼才スター』と言ったほうが正しいかもしれない」

 それはぼんやりとしていて、雲を掴むような話だ。

 ジャンは生まれてこのかた、ずっと貴族の落胤という自身の身分のせいで嘲られてきた。自分だけならまだいい、母親までもが貴族に媚びへつらうだの、よその男を横取りしただのと陰口を叩かれ、散々な思いをしてきた。

 その原因は実父であるド・ヴィシャ侯爵なのだが、彼は何の非難を受けることもなく、ただ後継を多く残しておくためだけにジャンを産ませたのだ。そんなことが許されるのは、彼が貴族であり、このイースティス王国では国王の側近や高位貴族は何をしても大抵許されるという悪しき常識が蔓延しているからだ。

「社会というものは、きっと維持するほうが大変なんだろう。だが、年月を経ていけばいずれ歪みが出て、大きな亀裂を産む。そうなったなら社会という器は一旦壊して、新しくしなければならない。そのとき、人間というのは必ずしもついてこられる者ばかりではなく、意図せず溢れてしまう者、抵抗できなかった弱者、見捨てられた孤児や老人、そんな人々は器の外に放り出されてしまうのだろう」

 それゆえに、ジャンはこの国と貴族が嫌いだった。自分には数学の才能しかないが、ある日突然革命を起こす大人物が現れて、何もかもをひっくり返してくれないか……と、子どものように願っていたのだ。

 そして、その一縷の望みを掴んだ。

「あなたが探しているのは、新しい社会という器を作る人? それとも、救世主のように放り出された人々を助ける人?」

「両方だ。両方をこなせてこそ、新時代を変革する資格のある為政者になりうる。だからこそ、『鬼才スター』は必要とされているんだ。なのに」

 なのに、まだジャンはその人物と出会えてさえいない。手がかりは掴んでいるのに、出会うきっかけがないのだ。

 嘆いてばかりではいられない、ジャンは前向きに、ユーギットに感謝する。

「ともかく、、ユーギット。君のおかげで、貴族学校に入る資格を得たのだから」

「大したことではないわ。私はただ、優秀な数学教師を招聘したかっただけだもの」

 にっこりとユーギットは微笑む。ユーギットが貴族学校の怠惰な講師より、外部から優秀な数学の専門家を呼んで学びたかったというのは本音だ。そこへ、父のエールヴェ伯爵を通じてジャンと知り合い、数学講師として推挙したからこそ、ジャンは貴族でもないのに貴族学校への出入りを許されている。

 これはチャンスだ。ジャンにとっては、待望する『鬼才スター』を見つけるのは今しかない。

「なのに、未だ探している相手と出会うことさえできていないなんて情けない……はあ、どこにいるのやら」

 いかに天才といえど、ぼんやりとした人物像だけで、初等部から高等部まで数百人がいる貴族学校から一人を探し出すのはなかなかに困難だった。

 改革派貴族たちの間で話題になっている『鬼才スター』——今は貴族学校にいて、王位継承権を持ち、現状を不服とし、密かに力を蓄えている人物。

 今のところ、ジャンの目の届く範囲には、そんな人物はいそうになかった。

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