「リゼット! またおまえか!」
紫紺の瞳が私を睨み付けている。その目はとっても冷たくて、怒りの炎、というより怒りの氷塊のようだな、と私は思う。まあ、その氷塊はいま私に向かって飛んできているのだから、そんな事思ってる場合じゃないんだけど。
「はいっ、申し訳ありません、団長閣下!」
とりあえず返事はそれしかない。言い訳や口答えは、お説教を長引かせるだけでなんにもならない、と既に私は学んでいる。本当は、それでも言いたい事は言いたいのだけれど、お説教が済むまで私の班全員が夕食にありつけないので、早く済ませて貰わないとみんなに申し訳が立たない。
「騎竜から落ちそうになって隊列を乱すとは何事か! おまえはそれでも竜騎士か!」
「はいっ」
見習いとはいえ、私は竜騎士には違いない――そう思って大真面目に答えたんだけど、どうやらこの返事は駄目だったらしい。団長閣下の眉間の皺がぐっと深くなる。
「『はいっ』じゃないだろう! 竜騎士の資格と責務をなんだと思っているのだ!」
「竜騎士の資格とは、我がドルジアの民から竜に選ばれし者が持つ資格であり、竜騎士の責務とは、ドルジアの為の剣と盾となり祖国に尽くす事であり……」
「そんな決まり文句を聞いてるんじゃないっ! おまえはどう考えているのかと聞いているのだ! 竜に選ばれた者でありながら自らの竜を御せぬとはどういうことか!」
「御す……というか、クリフはちゃんと私の言う事を聞いてくれます」
「では、どうして竜の背から振り落とされそうになるのだ?!」
「あの、それは、クリフが言う事を聞いてくれなかったんじゃなくて、装具が外れてて……」
「装具が外れていた、だと……?」
眉間の皺が更に深くなる。あの皺がとれなくなってしまったら、少しは私にも責任があるかも知れない。王女さまとの縁談があるとかいう噂なのに、それはちょっと申し訳ないかも知れない。
とか思っていたら。
「リゼット!! おまえという奴は!! 騎竜の装具の点検は基本中の基本だろうがぁっ!! これが実戦だったら、おまえは確実に死んでいるぞ!!」
「す、すみません! 死なないように頑張ります!」
基礎通りに、飛行前に何度も何度も点検した。その時は絶対、緩んでも外れてもいなかった。でも、いまそんな事言ったって、なんの証明も出来ない以上、苦し紛れの言い訳にしか聞こえないだろう。無駄な言い訳をするより、謝り倒した方が少しはお説教は早く済む。早く済んだらごはん……なんて、申し訳なさそうな表情を作りながらもぼんやり考えていたら、どうやら見抜かれてしまったらしい。
「リゼット。これだけ言っても、まだ真剣さが足りんようだな」
「いえいえ、団長閣下がいつでも真剣なのはよっく存じております」
「真剣さが足りんのはおまえだああ~っ!!」
「わ、私ですか? 私は真剣です! 真剣に、明日も元気に働く為に早く栄養を採らないと、と思って!」
「馬鹿者! 若者が一食抜いたくらいで働けなくなるか!」
団長は怒りに震える拳を目の前の机に叩きつけ、
「おまえはここで、この装具点検の教本を写本しろ! 他の者は食堂に行ってよし! 書き終えたらわたしの所に持って来い!」
「そんな、こんな量を写すなんて、夜中になっちゃいます! 食堂が閉まっちゃう!」
「知るか! 明日の朝飯が美味いと思え。では解散!」
肩を落とした私に、班の仲間たちは、解放されてほっとした気持ちと憐みの混じった視線を投げて、そそくさと出て行ってしまった。
団長もさっさと行ってしまい、小作戦室には私と机と教本と用紙だけが残された。
「ああもうっ! あの陰険! 絶対私のミスじゃないのに! 隊列乱したって言っても、誰も気づいてない内に立て直したのに!」
深い溜息が出る。私は本当に団長にしょっちゅう小言を言われている。細かなミスをいちいち咎められては長時間のお説教。多くの人は、鬼団長に目を付けられた哀れな平民、という目で見ているし、私自身もそう思う。
それに、最近のミスの大半は、私には覚えのない事なのだ。今日の装具の事だって、絶対最後に見た時にはきちんと締まってた。その後ほんの僅か用を足しに離れた時に、何かがあったに違いない。竜のクリフに聞ければよいのだけれど、クリフとは心は繋がっていても話が出来る訳ではない。
夕日の射しこむ部屋で一人ぽつんと私は課題に取り組んだ。こんな事させられるのは教習所時代以来の事だ。何もかもちゃんと頭に入っているのに……とぶつくさ呟きながら手を動かす。空きっ腹がぐうと鳴る。竜騎士の生活は大変な事も多いけれどこれまでの食うや食わずの生活に比べれば天国だし、やりがいがあって毎日が楽しい。そしてその楽しみの頂点に君臨しているのがごはんなのに、それを抜かれたと思うと本当に悲しくてしくしく泣いてしまう。
「進んだ? わ、何泣いてんの、あんた」
ひょいと扉が開いて、入って来たのは同期のフォニーだ。歳も近く(記憶喪失の私の歳ははっきりわからないけど多分)同じ平民出身の女子という事で、入団してすぐから私たちは親友になった。班も一緒、寮の部屋も同室だ。
「確かに怖かったけど、泣いてもしょうがないよ」
「タテジワは怖くないけどごはん抜きは怖いよお……明日私死ぬかも」
「あっ、やっぱそっち?」
フォニーは苦笑して、懐から包みを取り出す。
「ほら」
「フォニーさま!」
パンだ! 私の涙は乾いた。
「手伝うよ」
と言ってフォニーは、パンを頬張っている私の向かい側に座ってペンをとる。女神。
「それにしてもさあ、あの団長閣下を、タテジワとかおっさんとか陰で言ってるの、あんただけだからね」
「だっておっさんだしタテジワじゃん」
「まだ25だよ」
「老けてるもん」
「老けてないよ! 高位の紫紺の髪と瞳、キリリと引き締まったイケメン、この国一の竜騎士でおまけに王族出身。団長閣下に憧れてる女子がどんだけ多いと思ってんの! あんたの代わりに叱られたい! って食堂でも噂されてたよ」
「代わって欲しい……私は食堂でごはん食べる方がいい」
はぁ、とフォニーは溜息をつく。
「せっかく竜騎士になったのに、ごはんの方がいい~、とかお子さまにも程があるでしょ。引く手あまたの竜騎士団長から目をかけられてるっていうのに勿体ない。そりゃあ、私たち平民が、王族出身の団長閣下とどうこうはあり得ないけど、折角目をかけられてるんだから、殊勝な態度で気に入られておけば、閣下の親衛隊の誰かと、ご縁が出来るかも知れないじゃない!」
「ええ~。そんな不確実な望みに裂く労力ないし。ご縁とかわかんないなあ。私みたいな記憶喪失を気に入るとかもないし。それより私は、自分を磨いてたくさん稼いで、先々も食べるのに困らないようにしたいよ」
「それはそれ、でしょ。立派な竜騎士になる為に自分を磨く事と女を磨く事は両立できるでしょ」
フォニーは同じ歳なのに時々やけに姉さんぶってこういう説教をしてくる。
女を磨く、なんて、下町で食うや食わずの生活してきた私には未だに全然わからないことだ。同じ平民といっても、フォニーみたいな裕福な商人のお嬢さんと最底辺の私では感覚が違う。女である事を利用するというのは、娼館の女性たちがやっていた事だと思ってしまう。生きる為にそれが駄目な事だとは思ってないけど、私にできる気はしない。
フォニーが言うように誰かに見初められるなんて事が、自分に起こるとは思えない。だって私は最底辺にいた記憶なしの白紙の娘。二年前、自分が誰なのか、どうやって生きてきたのかまるでわからない状態で路地裏に倒れていた。治安も最低な界隈で、私みたいな者は殆どの場合、放置されて飢え死ぬか殺されるか売られるか、の三択だと聞いたが、運よくその辺の顔役である酒場の主人に拾われ、下働きとしてこき使われて生き延びた。
建国記念のお祭り……『竜孵りの儀』。一年に一度、この国の守護者である竜たちが聖峰で孵化し、自らが選んだ契約者の所に向かうのだ。
半年前のあの日、通りではお祭りに浮かれる騒ぎが起こっていたけど、私は酔っぱらいが店で暴れた後始末を一人でさせられ、お祭りどころではなかった。竜も竜騎士も、みじめな白紙の自分にはなんの関係もない、そう思いながら重たい桶を持って店の裏口から出た時、『竜が来た!!』という叫び声がいくつも聞こえた。
こんな下町に竜が来るなんてあり得ない筈だ。たまたま身分のある役人でも来てたとか? 竜……見てみたい気はする。もうこんな機会は二度とないだろう。どこにいるのかな。
そう思って辺りを見回した時……あの瞬間は、絶対に一生忘れないだろう。もう一度白紙の記憶喪失にならない限りは。
空から下りて来た、黄色い小さな竜。あの子は……クリフは、私だけを見て、私めがけて飛んできた。絵でしか見た事のない人外の存在、絵では竜は大抵黒とか銀とかで、黄色は見た事なかったけど、でもすごく可愛いと思った。こんなになにかを愛おしいと思ったのは初めてで、その瞬間に私とクリフの心は繋がり、契約に導かれる事になったのだった。
この事がなければ、私は今も、生きていくだけで精いっぱい、なにかを学ぶ機会も余裕もないままの暮らしを続けていた事だろう。
竜に選ばれし者はそれまでの身分の貴賤は問われない、という古来からの掟があるので、騎士団で表立ってのけ者にされたりごはんを貰えなかったりする事はない。とはいえ、竜は通常魔力の高い者を選ぶし魔力の多寡は血筋に関わる事が多いので、必然的にここにいるのは貴族階級以上の人間が大半だ。平民もいるけれども、その殆どはフォニーのようにちゃんと教育を受けた中流以上の平民で、私みたいな生まれもわからず学もなく、おまけに魔力もない、という人間は記録にない事だと言われている。
竜と契約を交わしていまこの竜騎士団の宿舎で暮らせている事は奇跡みたいなものであって、本来なら、竜騎士団長親衛隊どころかここにいる誰とも、フォニーとも、一生口をきく事もなかったような身分だ。お偉いさんが、私と親しくしたいなんて絶対にあり得ない。
わかったよ、と私はとりあえずの返事をする。フォニーが私の為を思って言ってくれているのがわかるから。
「わかればいいのよ。今度の休みには町へ買い物に行こうね。あんた素材はいいんだからさ、ちょっとした工夫でもっとキレイになれると思うのよ」
うう、なんていい娘なんだろう。
私なんて、素材とやらも別にいいとは思えない上に、底辺の『褪せた褐色の髪と瞳』なのに。いくらお化粧やお洒落をしたって、この色は変えられない。こんな髪と瞳でいくら工夫して飾ったところで、大抵の人間からは相手にもされない事はわかっているのに、フォニーは諦めてくれないのだ。それはとても有難い事だと、わかっている。
この世界では、髪と瞳の色というのはものすごく重要だ。何故なら、その色は持って生まれた力の系統や大きさを表すからだ。
特に、貴色と呼ばれる三つの色、黄金、白銀、紫紺。この三色のどれかを持つ者は神の加護を受けた特別な人間とされ、殆ど王族や高位の貴族にしか表れないという。下町暮らしの平民なんかにとっては、そんな人間を間近で見る機会なんかまずないものだ。
一方、一番ありふれた色は褐色。色が薄ければ薄い程、力がないとして蔑みの対象になる。
私の髪と瞳は白けた褐色。よくそれで生きてるなと何度も言われたくらいに白っぽい。力というのは生命力も含まれるので、死が近い病人や怪我人も色が褪せてくるものなのだが、私はその死にかけみたいに見えると言われるのだ。ちなみに死んでしまうと皆完全に白髪になるが、特に魔力の高い人には例外も存在するという噂もある。
私はそれくらいに無力な見かけなのだが、何故かぴんぴんしている。魔力がないのはわかっているが、生命力には不足していない。竜騎士団に迎え入れられるにあたって色々な検査をされたが、竜騎士として身体的には何も問題ないと判断されているし。
とにかく、そんな貧相な見かけの底辺な私がいくら飾ったところで、殆ど全ての男性は特に関わりたいとも思わないだろう。ここに来て、フォニーの他幾人かの人はこんな私に隔てなく優しくしてくれるけれど、殆どの団員は、必要以外に話しかけたりしてくる事はない。でも私の方でも、気疲れしながら貴族様に気に入られるようにしようなんて全く思っていないので、特に困る事はない。
フォニーだって本当はわかっていると思うけど、とにかく世話焼きの性分みたい。
―――
でも流石に明日に響くといけないので、丁重にパンと手伝いのお礼を言って消灯時間には部屋に引き上げてもらった。
夜も更けて私の使う机のランプ以外に明かりもなく人気もない。暗がりは下町の夜では当たり前の事だったので、怖いとかは全くないけれど、お腹もすいてくるしさみしくもなってくる。
ここに来て初めて読み書きを習い、物覚えの早さに関しては教官にかなりお褒めを頂き、今では他の人に引けをとらずに勉学も出来るようになった。本を読むのはすごく楽しい。
でも、もう頭に入っている分厚い教本をもう一度書き写すなんてのはやはり苦行で、何度も投げ出しそうになったけれども、なんとか夜明けより前に終わらせる事が出来た。
『書き終えたら、わたしのところに持って来い!』
タテジワはそんな事を言ってたっけ。でもこんな時間に誰もいない団長室に持って行って何になるんだろう。でも、早朝にと思っても、もしもタテジワより遅れたら結局また滅茶苦茶怒られるだろう。年寄りは朝が早いっていうしね!
団長室は別棟だけど渡り廊下で繋がっているし真夜中でも不安はない。
窓から見える夜闇は澄んだ空気に満ちていて、そこに時折、離れた竜舎から空気を微かに振動させるような竜の吐息が伝わってくる。
竜たちは人間みたいに多くの睡眠を必要としていないので、夜中でも目を覚ましている子も多いのだけれど騒いだりする事は殆どない。でも、何かを伝えあうような声を出している事がある。私はそれを竜の吐息と呼んでいるのだけれど、他の人にはあまり伝わらない。皆が私より竜騎士として先輩であって、その先輩たちがみんな、竜は戦闘で吠える事はあっても吐息なんか出さないよと笑うので、私もこの頃はその事を口にしないようにしている。
たぶん私の思い込みなんだろうけれど、竜が互いに密かに会話をしているなんて素敵な事だと思うので、私は黙って竜の吐息を聞く事を楽しんでいる。
夜当番の騎士から、何をこんな時間に歩き回っているのかと、口を開く前に怒られたけど、訳を話すと微妙な表情で通してくれた。憐れんでくれたのか馬鹿にしているのかは私にはよくわからない。
団長室に近づき、誰もいる筈もないと思いながら扉を叩く。多分鍵がかかってるだろうから、ちゃんとやった証拠にするには、この紙束を扉の前に置いておけばいいかな、なんて考えていたら。
「リゼットか? 入れ」
と。無人の闇の筈の室内から声がしたので私は飛び上がらん位に驚いてしまった。
入ると、明かりがついていてタテジワが書類を積んだ机で仕事をしていた。
「ええ……団長閣下、こんな時間まで残業ですか?!」
と私は敬意を払うフリも忘れて叫ぶように尋ねてしまった。
「仕事は毎日いくらでもある。とは言っても別に毎日この時間までやっている訳ではない」
と、私の非礼を珍しく怒りもせずにタテジワは答えた。
「それよりちゃんと終わったのか? まあ、あの量は少し酷だったかも知れん。こんな時間までさぼらずにやっていたのなら、全部出来てなくても大目に見てやるぞ」
「いえ、やりました。一応、出来ている筈です」
「ほう?」
タテジワは意外そうな表情を浮かべて私の課題を受け取った。なによ、無理だと思ってんなら最初から命じるなよ! って思ってしまう。
私から受け取った紙束を、タテジワは一枚一枚丁寧にめくりながら見ている。夜更けで辺りはしんと静まり、ただ紙のこすれる音が時たま響くだけ。タテジワが何も言わないので、直立して待ってる私は息が詰まって仕方ない。提出したらさっさと戻って寝ようと思ったのに、まさかの追加拘束時間に私は辛さが増してくる。
「ああ……たしかに。誤字はあるし、部分的に違う筆跡があるが……できているな。いいだろう。教練後で疲れていたろうに、よく頑張った」
「はー……」
思わず変な返事になってしまった。
よく頑張った? まさか……私を褒めている?? まさか? という思いが口からこぼれ出たのだ。
「なんだその気の抜けた返事は」
「あっ、いえ、はい、その、ありがとうございます」
焦って答えると、タテジワは、ふっと笑った。
(タテジワが……消えた!)
元々フォニーやみんなは、タテジワなんかない、いつも平静な美男子だと言い張るのだけれど、私にはいつも見える。苦々しさを刻んだ眉間のタテジワと目の下の薄いクマが。
なのに今、そのタテジワがとれている。
「何を見ている。わたしの顔に何かついているのか」
「あっ、いえ、ついてるというよりとれたというか……」
「何が」
「タテ……あ、いえ、なんでもないです」
「よくわからんな」
と言いつつまた小さく笑った。
「そうか、腹が減っているんだったな。これでも喰ってさっさと寝ろ」
そう言って、机の上の籠に入っていたものを投げてよこす。林檎だ。
「わ……ありがとうございます!!」
今度は心からの言葉がするりと出た。
「団長閣下はまだお休みにならないんですか?」
「この書類を片付けたら部屋に戻って休む」
そう言って机の上の書類の束に目を落とした時、団長の眉間には、またタテジワが戻っていた。
毎日この時間まで仕事してる訳じゃないって言ってた。でも今日は……私を待ってくれてた、なんてある訳ないか。
私は大事に林檎を胸に抱えて退室した。明け方までもうそんなに時間はないけど、いまはさっきまでみたいには不幸せな気持ちではなかった。