「エリーゼ・ド・アルマンヌ公爵令嬢。国王陛下暗殺未遂の罪に対し、そなたを『白紙刑』に処する」
その宣告は、どこか遠いところから発せられたもののように感じた。
――うそ。どうして……。
私の絶望は、冤罪が晴れなかったからではない。牢の中で何度も悲嘆にくれて泣いたけれども、それはもう諦めていた。父が、兄が、私を救う為に必死で動いていてくれた事は知っていたけれど、筆頭貴族家であるアルマンヌも、王族には勝てない。
――シャルルが証言したのだから。私が陛下の盃に毒をいれるのを見た、と……。
王太子が……私の婚約者だったひとが、そう言ったのだ。いま、沈痛な表情をつくって私に最悪の刑を告げたあの男が。国王陛下が意識不明である今、彼の言葉を否定できる者はいない。その証言は、有罪を確定させる言葉だ。
でも、有罪になったとしても、公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、過去の例から考えても、恐らく服毒死を命じられると考えていた。なのに。
最悪の刑……白紙刑。
死罪は覚悟していたのに、死罪よりも重く屈辱的な刑。私は、私でなくなる。
「『白紙刑』に処する」
その言葉に私は打ち震え、不覚にも涙を流しながら気を失ってしまった。最後に聞いたのは、血相を変えて抗議する父さまと兄さまの声。
白紙刑。
それは、死刑より数段残酷な刑罰とされている。
記憶を奪われ、己を己たらしめてきた魔力を奪われ、それによって容姿も醜く変化し、生まれてから培った全て、人格そのものを奪われた上で、治安もなにもない最下層の下町に追放される。
一千年の王国の歴史の間でも、実際に執行された例は数える程しかないと聞く。それ程に残酷で、尊厳を根こそぎ奪い取るような刑なのだ。
もちろん、貴族として生きてきた人間が、記憶も魔力も身分も奪われた白紙の状態でひとりで生き延びられる訳もない。ひと月も保たないのはあきらか。飢えて死ぬか、暴行されて死ぬか。刑死する事よりも、己を失って惨めなまま何もわからずに死ぬ事がどれ程恐ろしいか。
もし気を失っていなかったらきっと私は、今すぐ首を刎ねてくださいと叫んでいただろう。
―――
――あの時、陛下の盃になにかを入れたのは……シャルルさま。
パーティの席で、シャルルの隣にいた私だけが見ていた。そして、それをシャルルは知っていた筈。
私は自分の目で見たその真実を、ただ一人、兄にしか言わなかった。私と王太子の証言が正反対であれば、私は暗殺未遂の罪を犯した上に、王太子に罪をなすりつけようとした大罪人にされてしまうから。そうなればもう、私一人の命で罪を贖い切れなくなる。
裁きの前の家族との最後の面会。父は心痛のあまり来る事が出来なかった。
『こんなばかな事が許されるべきではないよ、リゼ。長年シャルル殿下に無私無欲で尽くしてきたおまえだのに……厳しい王妃教育を誰よりも努力して完璧にこなし、貴族令嬢の鑑と呼ばれるおまえだのに……』
エドガー兄さまが泣くのを初めて見た。強くて博学でお洒落で素敵な私のたったひとりの兄さま。
『それはもう言わないで、兄さま』
『どうして』
『今まで私がしてきた事が、無意味だったと思いたくないのです。これは何かの勘違いで、いつかシャルルさまはわかって下さって、過ちを認めてくださると思いながら逝きたいから……』
『リゼ、シャルルさまは』
『仰らないで、誰も恨みたくないのです』
兄さまの金色の瞳が湿ったままに揺れた。私も兄さまもわかっていた。シャルルが過ちを認める日など来ないと。あの男は、婚約者の私が無実と知っていて罪を被せたのだから。父王の暗殺を企てた上に、平然と偽証の罪を重ねる男が、過ちを認める日なんて来る訳がないと。
それに、シャルルには愛人がいる。私がいなくなれば堂々とその女を婚約者にするつもりだ。過ちを認めるどころか、更に私の名誉を損なう言動をするかも知れない。
それでも……。
『私一人が罪を被る事でアルマンヌ家を守れるならば、私はこれでいいのです』
罪を否定しないならば、アルマンヌ公爵家は賠償金と暫くの謹慎のみで許すとシャルルに告げられていた。だから、私はその条件を受け入れた。
否定はしないが、罪を認めもしない。私は無言を貫いた。それ故に有罪と裁かれた。守るべきものの事を考えれば、ぎりぎりで矜持を護れたと考えるようにした。
『エリーゼ、何よりも大事な私の妹。おまえを護れない不甲斐ない兄を、許してくれなんて言えない。むしろ罵倒してほしいくらいだ』
そんな兄さまに、私は無理に笑ってみせた。
『大好きな兄さま、罵倒なんてできっこないでしょう。今までずっと、私を護ってくれてありがとう。たまには私を思い出して、私の大好きな白百合を贈って下さったら嬉しいわ』
――こんな事を言ったのは、私は死罪になると思っていたからだ。兄さまもそう思っていた筈。私は長年王太子に仕えた公爵令嬢。大罪への罰が免れないとしても、それは名誉ある死を賜る事だと考えていた。アルマンヌ家の墓地に葬って貰えるよう、父さまと兄さまは動いてくれるだろうし、それくらい叶えられると思いたかった。
私はまだ17歳。何一つ悪い事なんかしていないのに処刑なんかされたくない。生きていたい。私に優しくして下さった大好きな陛下を、事もあろうか暗殺しようとしたという罪で裁かれたくない。生きていたい。そうすれば、色んな事を願える。例えば、大切な人の無事を祈る事を……。
でも、誇りを踏みにじられるよりは名誉ある死の方がいい。貴族として教育を受けた者は誰しも物心ついた頃からそう教えられてきた。
なのに、白紙刑。
―――
気を失って次に目覚めた時には私は、白紙刑を執行される処刑台の上だった。
シャルルは私の顔を覗き込んで誰にも聞こえないように囁きかけた。
「おまえがもっと従順であったなら、他の道もあったがな。ひとつだけ救いをやろう。それは、おまえが白紙刑でなく普通に死罪になったと発表してやる事だ」
それは確かに、恥辱に塗れた白紙刑にされたと知られるよりはましだけれど。
「シャルルさま。どうして……。わたくしは、神に誓って罪を犯してはおりません」
取引の為に表向きには罪を否定しなかったが、シャルルに向かってはもう数えきれない程言った言葉で、今さら何の効果もない言葉だとわかっていた筈なのに、そう言わずにはいられなかった。
「あなたは罪びとなのよ! せめて認めた方が救われるのではなくて?」
シャルルが何か言うより先に、甲高い女の声が響いた。
「アンヌマリー、下がっていなさいと言ったろう。咎の影響が腹の子に及んではいけない」
とシャルルは優しい声で言う。
叫んだのは、アンヌマリー・リオンヌ男爵令嬢。シャルルの愛人だ。
私は、政略結婚相手の王子が愛人を持つのに抵抗する気はなかった。どうせお互いに愛情はないし、ただ私が彼の子どもを産んだ時に嫡子、次の王太子と認められればそれでよかったのに、それすら嫌なのか、シャルルは私を退けてアンヌマリーを王妃にしたいらしい。
なぜ、私の処刑の場にこの女がいるのだろう? 何もかもが屈辱だった。
でも、言葉は魔道で封じられた。台に横たえられた私の身体は、処刑人である魔導士の呪言で縛られ宙に浮いた。
「……っ!!」
私の自慢の長い金髪が風に揺られたようになびき、そこから急速に力が抜けていく感じがする。
「ああアッ!!」
次には、目に強い痛みを感じた。魔力が満ちていた私の金の瞳、そこからも力が奪われてゆく。
「ああら、ご自慢の貴色が白けていくのね。これが罪の代償……」
激痛に目を掻きむしる私に、アンヌマリーは笑いながらそんな言葉を吐いた。
「エリーゼ、痛いか、苦しいか」
シャルルが問う。そう言われると私は、のたうち回りたい程の苦痛のなかでも、絶対にそれを認めたくなかった。
「わたくしは……罪を犯してないのだから、苦しくない!」
明らかに負け惜しみだったので、シャルルもアンヌマリーも可笑しそうに笑った。
「もういい。さっさと全部抜いてやれ。魔力も記憶も全部。最高位の貴族として受けた教育も全て忘れ、みすぼらしい平民の娘の姿になればいい。エリーゼは消える。いつも私を見下していた高慢なエリーゼはいなくなるのだ!」
……どういう、意味だろう。私は確かに婚約者の事を愛してはいなかった。でも、見下した事もなかった。
だけど、それ以上考える力がなかった。味わった事のない苦痛の中、残り僅かな時間で脳裏に浮かぶのは、優しい父、兄、友人。みんな、みんなごめんなさい。私が罪を犯していないと信じてくれていた大切な人たち、ごめんなさい。
その、大切な人たちの顔や優しい思い出を浮かべながら消えたいと願った。
だけどその願いはむなしく、それらの大事な宝物はどんどんを私から吸い出されてゆく。面影は消えてゆく。あれは誰だっけ。あそこはどこだっけ。
そして。
――わたしは、だれ?
恐怖に縛られる。どうしてわからないのかもわからない。死より暗い闇に飲み込まれる!
『――リゼ。幸せに生きて――』
闇のなかで聞こえたのは、最後に残った記憶の残渣。
あの声は……。
そうして、エリーゼ・ド・アルマンヌは、いなくなった。
―――
……深い水の底に私はいた。身体がではなく意識が。
私はどうしたんだっけ。私は、誰だっけ。いまは、いつだっけ。
事故で意識が混濁してるんだ、という事はわかった。そして私は目覚めかけている。私を呼ぶ声がする。
いまの私には居場所がある。記憶喪失のまま、下町で行き倒れて死ぬところだった私。なんとか助けてもらえたものの、居酒屋の下働きとして奴隷のようにこき使われた。毎日ひもじい思いをしながらもなんとか生き延びたけど、あの頃の私はなんにもない白紙の娘だった。自分が誰なのかどうやって生きて来たのか何一つわからなくて、いつも不安で怯えて。空っぽのおなかと心をかかえて毎晩泣いてた。あのままの日々を過ごしていたら、結局私は闇に呑まれて堕ちていって、なんにもないまま死んでしまっていたかもしれない。
でも。
あの日、眩しい空からクリフが舞い降りて来た。黄色い小さな竜の仔のクリフが、私の腕の中に飛び込んで来たあの日から、私の何もかもが変わって、私は新しい自分を得る事が出来たのだった。
「……リゼ!!」
私の名前を呼ぶ声がする。下町にいた時には、名前がなかった。そんな私に名前をくれたひと。
「だん……ちょ」
重たい瞼を開けると。
紫紺の瞳が私を見据えていた。不安と情を滲ませたそんな顔を、私は初めて見た。
この人が、危地にあった私を命がけで助けてくれた事を思い出す。
そして。私はこの人を好きなんだという事を思い出す。
それは、きっと、ずっとずっと以前から……。