厩舎からの帰り道、ジルと手を繋いで歩く。
「ジルは一人で馬に乗れるかい?」
ジルが微笑む。
「えぇ、もちろん乗れるわ。ヴァロアに居た頃にレッスンを受けたもの。」
俺は微笑んでジルに聞く。
「じゃあ遠乗りは?」
ジルは少し考える。
「出来なくも無いと思うけれど。」
俺は提案する。
「じゃあ今度は遠乗りだな。少しずつ距離を伸ばして行こう。」
ジルが嬉しそうに微笑む。
「毎日、ブランエールに会いに来てやってくれな。」
言うとジルは微笑む。
「えぇ、そのつもりよ。」
その日から私の日課にブランエールとの散歩が加わった。朝食後、厩舎に行き、ブランエールに挨拶し、ブランエールを連れて辺りを一周する。時にはブランエールが自らまるで乗ってくれと鼻を擦り付けて来る事もあった。乗馬用の服を着て、慣らす為に馬場を歩いたのはそれからすぐの事だった。ブランエールはお行儀良く、私の言う事を良く聞いてくれた。
ジルはめきめきと乗馬の腕をあげていた。俺が馬をプレゼントしてからものの一週間で乗りこなした。もちろん馬との相性もあっただろう。敷地の南側から出れば、その先はしばらく牧草地だ。
「少し牧草地を走らせてみるかい?」
ジルを誘う。ジルは喜んで頷く。
乗馬の準備をする。乗馬服を着ているジルもまた可愛かった。ジルの為に作らせた乗馬台にブランエールが自らやって来る。
「だいぶ、手懐けたな。」
言うとジルは照れて俯く。ジルがブランエールに乗るとブランエールはゆっくりと歩き出す。俺の背後でブルルルと俺の馬が鼻を鳴らす。
「分かった、分かった。」
俺はそう言って自分の馬に乗る。
テオの馬は真っ黒だった。鼻筋だけ白く凛々しい。テオは鐙に足を引っ掛けると一気にマントを翻して馬に乗る。その姿だけで目眩がする程、素敵だった。
「2、3時間で戻る。」
厩者にそう告げて、歩き出す。
「あなたの馬は何てお名前なの?」
聞くとテオが言う。
「タイランノワールだ。」
テオはそう言って微笑む。
「タイランノワール…」
反芻するとテオが言う。
「黒い暴君という意味だ。」
そんな名前とは思えない程、大人しくお行儀良く歩いている。
「そんなふうには見えないけれど。」
言うとテオは笑う。
「コイツは俺しか乗せない。他の者が近付くだけで暴れるんだ。機嫌が悪いと俺でも振り落とそうとする。だが、良い馬だ。足は早いし、誰にも屈服しない。負けず嫌いだが俺には従順だ。」
そう話すテオはとても優しい顔をしている。
草原に出る。遠くには森が見える。
「少し走らせてみるか。」
そう言われて頷く。馬が走り出す。テオは私と並走している。風を切って走るのは気持ちが良い。あっという間に森の入口に到着する。馬の手綱を引いたその時。
ジルと馬を走らせる。ジルに並走しながらジルと共に笑い合う。もう少しで森の入口にさしかかろうとした、その時だった。何か光る物を視界の端に捉えた、次の瞬間、ジルを乗せていたブランエールが急にヒヒーンといななき、その前足を高く上げ、暴れ出した。
「ジル!」
ジルは驚いているのか、振り落とされないように手綱にしがみつく。ブランエールがジルを乗せたまま走り出す。
「待て!ブランエール!」
俺はタイランノワールを走らせて追いかける。
「ジル!捕まっていろ!今、行く!」
森の中を蛇行するように走り抜けるブランエールを追いかける。ブランエールに追いつき、ジルに言う。
「ジル、手綱を…」
その瞬間、今度はタイランノワールが急にいななき、前足を上げる。
「クソッ…」
俺は手綱を引き、タイランノワールを落ち着かせる。
「ジル!」
ブランエールはジルを乗せたまま走っている。
「タイラン!行け!」
タイランノワールがまた走り出す。
「…ジル、ジル。」
誰かが私の名を呼んでいる。
「ジル!」
ハッとする。目の前にはテオが居る。
「テオ…」
テオは私を抱き締めて言う。
「あぁ、良かった…」
辺りを見回す。森の中だった。テオの良い匂い。安心する…。全身の力が抜ける…。
すんでのところでジルを助け出した。タイランノワールで追いついた俺はブランエールの手綱を引こうとした。その瞬間にジルがブランエールから落ちかける。俺はタイランノワールを寄せてジルを抱え込み、馬を止めた。ジルは気絶していて、俺は馬から降りてジルの様子を見た。ジルに呼びかけ、一旦はその声で目を覚ましたが、俺の顔を見て安心したのか、また気を失った。タイランノワールは俺の傍に立ち、俺の背中に鼻を擦り付けている。
「あぁ、良くやった。偉いぞ、タイラン。」
撫でてやる。でもおかしい。急にあんなふうにいななくなんて。とりあえずジルを抱き上げ、俺は辺りを見回した。ここはどの辺だろうか。休めそうな場所を探す。タイランノワールは手綱を引かずとも俺に付いてくる。少し開けた場所に出る。日が落ちかけている。どうするか。ジルを抱えてタイランノワールに乗ろうにも、下手をすればジルが落ちる。俺とジルを縄でくくろうにも、縄が無い。ブランエールはもうその姿さえ見えない。ジルを地べたに置くなんて…でも仕方ない。俺はジルを地べたに寝かせ、マントを脱ぎマントでジルを包む。火を起こすか。
パチパチという音で目が覚める。ここは…どこ…?温かい…そこでハッとする。
「ジル。」
上から声が降って来る。見ればそれはテオだった。
「テオ…」
テオは私を背後から抱き締めていた。そうだ、私、馬に乗ってて…。思い出すと恐怖で体が震える。体の向きを変えてテオに抱き着く。
「大丈夫、大丈夫だ。」
テオは私を抱き締めて、頭や背中を撫でてくれる。
落ち着きを取り戻した私はやっと冷静になる。ここは森の中、目の前には焚き火がある。
「…!…ブランエールは?」
聞くとテオが少し笑う。
「ブランエールはどこかへ走って行ってしまったよ。」
溜息をつく。
「そうなのね…」
テオは私を膝の上に座らせている。
「寒くはないかい?」
聞かれて頷く。
「大丈夫、あなた、怪我は?」
聞くとテオがまた少し笑う。
「俺に怪我は無いよ。」
テオは私にマントをかけ直し、私を抱き寄せる。パチパチと焚き火が音を立てる。
「少し馬を調べたいんだが、良いかい?」
聞かれて私は頷く。
「えぇ、もちろん。」
テオは私を下ろし、立ち上がると、少し離れた所に居るタイランノワールに近付く。不意にブルルルとタイランノワールが鳴く。テオが戻って来る。
「やっぱりだ。」
テオはそう言って地べたに座ると私をまた膝の上に乗せる。
「おかしいと思ったんだ、急にいななくなんて。」
そう言いながらテオは手の中の物を見せてくれた。
「…吹き矢?」
聞くとテオが頷く。
「あぁ、そうだ。馬用にしてはかなり小さい。」
吹き矢に馬用なんて初めて聞いた。
「馬用なんてあるの?」
聞くとテオが頷く。
「あぁ、あるよ。野生の馬を捕らえるのに使ったりする。針に麻酔なんかを仕込むんだ。」
馬を捕らえる…。
「…じゃあ、ブランエールもタイランノワールも、」
言いかけるとテオが言う。
「タイランに関しては大丈夫だ。麻酔は塗られていない…」
テオが語尾を濁す。
「でもブランエールは分からない…そうなのね?」
テオが眉間に皺を寄せて言う。
「あぁ。」
溜息をつく。
「タイランは強い。こんな小さな針くらい刺さっても驚きはするが、制御出来る。だがブランエールはまだ経験が浅い。だから我を失ったんだろう。」
ブランエール、私の愛馬…。ポロポロと涙が出て来る。
「泣くな、代わりの馬なら、」
私はテオに抱き着く。
「代わりなんて言わないで…ブランエールはあなたが私にくれた馬なのよ?初めての私の馬だったのに…」
毎日、会いに行き、鼻を撫で、櫛で体を梳かしてやり、体を拭いて、お散歩もしたのに…。
「ごめん、そうだったな。」
テオが私の背中を撫でる。