ノックが響く。入って来たのは昨日挨拶してくれた侍女長のメアリーともう一人の侍女。私付きのメイドでは無い人だ。
「おはようございます、ジル様。」
メアリーは朗らかにそう言う。もう一人の侍女が言う。
「はじめまして、侍女のケリーと申します。」
メアリーはその場で私に聞く。
「お風呂を準備させて頂きます、どちらのお風呂をお使いになりますか?」
聞かれて私は思う。そうか、テオ殿下専用のお風呂ももちろんあるだろう。でもそれを使うのは気が引けた。
「では私の部屋のものを。」
言うとメアリーは私に近付きながらケリーに言う。
「すぐにお風呂の準備を。」
ケリーは失礼しますと言ってパタパタと部屋を出て行く。メアリーは私に近付いて来る間に床に落ちている私の服を拾い、私の側まで来るとベッドの端に座り聞く。
「お体は大丈夫ですか?」
恥ずかしくて俯く。
「大丈夫です…」
メアリーは少し笑って言う。
「お顔をお上げください。恥ずかしい事など何もありません。」
メアリーを見るとメアリーは目を細めて微笑んでいる。
「お風呂の準備が整うまで少しお話しても?」
聞かれて頷く。私の部屋と繋がっているドアが開いてケリーが何かを持って来て、メアリーに渡すとそのまままた戻って行く。メアリーはそれを受け取ると私に掛ける。
「これは…?」
メアリーはクスッと笑って言う。
「殿下がジル様の為に用意したガウンです。殿下とお揃いのものです。」
肌触りの良いガウンは薄いピンク色だった。
「綺麗な色…」
言うとメアリーが微笑んだまま言う。
「ジル様の為に何もかもご自分でご用意されたんですよ?お部屋の調度品も、ベッドも、身に付ける物も。」
メアリーはクスクス笑って私の手を取る。
「ここ何年も殿下のお心は暗く閉ざされておりました。表面上は誰にも弱さを見せない方ですが、人一倍そのお心は傷付き易く、ここ何年も塞ぎ込んでしまって。私たち使用人一同心を痛めておりました。それが数日前に殿下は変わられたのです。急に婚約した!婚約者を屋敷に住まわせる!全て自分が指示する!完璧に用意をする!と息巻いて。」
メアリーは嬉しそうに笑う。
「あんなに嬉しそうな殿下を見るのは初めてです。もう妙齢も過ぎて正直、結婚など諦めておりましたのに。」
メアリーの瞳には涙が浮かんでいる。
「私はこの屋敷に来てからずっと殿下に仕えております。もう何年になりますか…その間、ただの一度も女性をこの屋敷に入れた事はございません。あんなに素晴らしいお方なのに、お見合いなど全て断って、女性と連れ立って歩く事さえも拒否なさって。」
ホロっとメアリーの涙が落ちる。
「きっと心に決めた人がいらっしゃるのだと思っておりました。殿下のお心を捉えて離さず、それでも叶う事の無い愛する人がいらっしゃるのだと。」
メアリーは涙を拭きながら言う。
「それがあなた様です、ジル様。」
メアリーが微笑む。
「メアリーは嬉しゅうございます。殿下のお心を溶かし、愛で満たして下さってありがとうございます。」
お風呂の準備が整い、メアリーとケリーで世話をしてくれる。
「まぁ、何て事。」
メアリーが私の体にある痕を見て言う。それは昨日の蜜事の時にテオ殿下が付けた愛痕だ。
「ジル様の美しいお肌にこんな痕を付けるだなんて、殿下には自重していただかないといけませんね。」
メアリーにそう言われて笑う。
「何故メアリーとケリーが?」
聞くとメアリーが微笑んで言う。
「昨日ジル様に付けたメイドたちはまだ若くて経験が浅いのです。私とケリーならばもう既に結婚もしていて子供もおります故、何かと気を配る事が出来ます。」
そう言われてなるほどと思う。
「お体、お労りください。今日はゆっくり休んでゆっくりお過ごしください。」
お風呂から出て髪を拭きながらメアリーが聞く。
「お食事はどうなさいますか?」
私は少し考えて言う。
「じゃあ軽いものを。」
言うとメアリーは頷いて近くにあったベルを鳴らす。パタパタと私付きのメイドが走って来る。
「アン、サリー、ジル様に軽いお食事を。」
朝から精力的に動く。活力が満ち満ちていた。今朝起きた時に腕の中にジルが居て、その寝顔をしばらく見ていた。ジルはスヤスヤと俺の腕の中で眠っていて、こんなにも美しく可愛い人が俺のものになった事に叫び出しそうだった。ベッドを後にする時にチラリと見えたジルの純潔を散らした愛痕。それを見て切なくなった。そして決意を新たにした。この人をこの先もずっと守っていこうと。騎士団の訓練の為に自ら木刀を持ち、団員と1対1の対戦をする。団員全員を倒し、息をつくと後ろから声がする。
「お見事です。」
振り返るとマドラス卿が立っている。
「今日は一段とお強い。」
俺は笑う。
「さぁ、立て!敷地内を走るぞ。」
団員たちが立ち上がる。先頭を切って走ると団員が付いてくる。
髪を梳かして髪を結って貰う。食事が運ばれて来る。食事を摂る。外が騒がしい。
「これは…?」
聞くとメアリーが微笑んで言う。
「殿下が団員の方たちと走っておられるのでしょう。」
私はそれを聞いて立ち上がり、窓に向かい、窓を開ける。テラスに出ると丁度、たくさんの人たちが走って来るところだった。先頭にはテオ殿下がいらっしゃる。風に靡く長い銀髪、逞しく凛々しいお姿にうっとりする。テオ殿下は私に気付くと手を上げてくださる。私はホンの少し手を上げて振る。走り去って行くのを見送って息をする。息をするのも忘れるくらい、見惚れていた。そしてハッとして戻る。
「ごめんなさい、食事の途中なのに。」
言うとメアリーはクスッと笑う。
「良いのですよ、ジル様が何をしようとそれを咎める者はここにはおりません。」
走り出して屋敷の方へ来る。ジルはもう起きただろうか。部屋の方を見上げる。テラスにジルが居た。俺がジルの為に用意したガウンを着ている。手を上げるとジルも手を上げ小さく振る。何て麗しいのだろう、俺の愛する人は。嬉しくて笑みが漏れてしまう。
侍女たちを下がらせてベッドに横になる。まるで初めて恋をしているような自分がおかしかった。ホンの少しでもテオ殿下を見たいと思ってしまった。息をするのも忘れる程に、私はテオ殿下を見つめていた。メアリーが話してくれた事を思い出す。テオ殿下は一度たりともこの屋敷に女性を入れた事が無かったという。女性の影も無く、誰一人として寄せ付けずにいた。そこでハッとする。あんなに切なく歪む表情も愛していると囁く事も私が一番最初で、唯一の…。胸が熱くなって鼻の奥がツンとする。涙が溢れて来て、それと一緒に思う。あぁ、逢いたい、テオ殿下に。ノックが響く。私は慌てて涙を拭って体を起こす。失礼しますと言って入って来たのはメアリーだった。メアリーは私を見て私の元へ小走りにやって来て、ベッドの端に座る。
「どうかされましたか?」
溢れて来る涙を拭う。メアリーは私の背中を撫でる。
「どうされたのです?メアリーに教えては頂けませんか?」
私は泣きながら言う。
「…逢いたいのです、テオ様に…」
メアリーは少し笑って私の頭を撫でる。
「それでは逢いに参りましょう。」
驚いてメアリーを見る。メアリーは微笑んで言う。
「ジル様がお逢いになりたいのであれば、そうされれば良いのです。」
私は聞く。
「でもお仕事なのでしょう?」
メアリーが笑う。
「婚約者様がこんなに恋焦がれていらっしゃるのに、それを放っておくような方ならば、このメアリーが許しません。」
そう言われておかしくて少し笑う。メアリーは時計を見て言う。
「丁度、お昼なのでお昼の差し入れをお持ちするのはどうでしょう。」