食事が終わり、殿下と共に父の書斎へ行く。殿下が自分の名を記し、私はその下に自分の名を記す。
「これで成立だな。」
殿下は嬉しそうにその書類を眺める。その書類には既に国王陛下、妃殿下の調印がされていた。
「もう既に調印が?」
聞くと殿下は笑って言う。
「昨日の夜のうちに兄に頼んだのさ。普通は婚約する者同士が名を記してそれを国王に認めて貰う事で調印されるが、まどろっこしい事は嫌いでね。」
書類は二部あって互いの家で厳重に保管される。殿下は一部を胸元にしまい、私の手を取り口付ける。
「これから仕事があるから失礼するが、いつからうちに来られる?」
私に聞いているようで実はそうでは無い。父を見ると父はとても嬉しそうに微笑んでいる。
「なるべく早く、急いでお支度をしても3日程はかかるでしょうか。」
殿下はあからさまにガッカリして言う。
「3日もかかるのか…」
すると父が言う。
「明日には出立させましょう。」
驚いて父を見る。父は微笑んだまま言う。
「ヴァロアに不可能などございません。ですが愛娘ですので多少の支度はさせて頂きたい。」
殿下はそれを聞いて納得したようだった。
「では明日、迎えの馬車をこちらへ手配する。それで宜しいか?」
父は満面の笑みで頷く。
「ハイ、殿下。」
それからは上を下への大騒ぎだった。明日の出立に向けて双方の事務方の人間が連絡を取り合い、荷物の調整やら殿下の邸宅に向かう為の警備のお話やら…。私も侍女たちに持って行くドレスや宝飾品などの選定に駆り出された。
城に戻ると玉座の間では今まさに断罪が行われていた。
「エドワード、昨日の事を説明しろ。」
不機嫌を装って国王が不出来な息子に説明を求めている。興味は無いが、同席しろと兄上にせっつかれ、退屈極まりないこの席に座っている。こんな事よりもやる事が山積みなのだ。彼女の部屋はやはりラベンダー色にしよう、南向きの一番良い部屋…やはり俺の隣の部屋だな…最高級の寝具、最高級の調度品を揃えて…彼女自身も家から持って来る物もあるだろう。事務方で話し合いも進んでいるというし、やはり俺自身が出迎えをしなくては。
「ですから!私は自身の愛する人と結婚したいのです!」
エドワードの横には赤髪の女が居る。昨日、見たグラハム嬢か。見れば見る程、この女のどこがジルよりも優れていると思ったのか、分からなかった。エドワードは国王の一人息子だ。だから自分が通せない我儘など無いと思っているのだろう。浅はかな。
「お前の横に控えているのがその愛する人とやらか。」
国王の冷たい声。俺はメモを書き記し、脇に控えている俺の侍従に渡す。侍従はそれを読み頷き、下がる。
「マリエラ、グラハムと申します…」
その女は緊張しているのか、ヨロヨロと動く。挨拶も碌に出来んのか。退屈だ。今頃ジルは何をしているだろう?慌てて支度をしているのだろうか。それとも優雅にお茶を?クルクル変わる愛らしい彼女の顔を想像してついニヤケてしまう。悟られてはマズイので手で口を覆う。
「まぁ、良い。」
国王がそう言うと二人が嬉しそうに顔を上げて国王を見る。国王は眉一つ動かさず、言う。
「これから出すいくつかの条件をクリアすれば認めてやろう。」
お、何を言い出すやら。
「一つはそこの愛する人とやらにはこれからみっちり王妃教育を受けてもらう。ヴァロアのご令嬢と同等、もしくはそれ以上になるように。」
そこまで聞いてふと笑いが込み上げる。不可能だな、と思う。ジルと同等?あれだけの見識と知識、作法、振る舞いを目の前のこの女が?無理だ。
「もう一つは今後、お前たちはヴァロアとは一切関わらない事。」
少し驚いて国王を見る。国王は俺をちらりと見てホンの少し微笑み、そして視線を二人に戻す。兄貴らしく、弟である俺への祝いの一つだろう。
「ヴァロアとは一切関わらないというのは…?」
エドワードが聞く。聞き分けが悪いなと思う。
「言葉の通りだ、馬鹿者が。朝一番でヴァロアから抗議を受けている。お前とてヴァロアがこの国でどれ程強大か、分かっているだろう?そのヴァロア家の大切なご令嬢との婚約をお前がお前の意思で破棄したんだ。向こうが喧嘩を売られていると思っても仕方ない事をお前はした。だからお前とそこのお前の愛する人とやらはヴァロアと関わるな、と言っている。」
エドワードは父である国王にそう言われてみるみるうちに顔が青ざめる。
「喧嘩を売ったなどと、そんな事…」
事の重大さがやっと分かったようだった。まぁ遅いがな。
「それからエドワード、お前はそこのお前の愛する人とやらが立派に王妃教育をやり遂げるまでは王位に就く事は無いと思え。もし万が一、やり遂げられなければ、その時はパートナーを変えるか、お前が王位継承から退くか、だ。」
そう聞いて思う。これは、これは。
「ですが!私が万が一退いたとしたら!この国の王位はどうなるのです!」
その言葉を聞いて笑えてしまう。お前がその心配をするのか、と。
「もし万が一お前が王位継承権を剥奪されたら、順当にいけば次の王は王弟であるテオだろうな。」
皆が俺を見る。勘弁してくれよ、と思う。
「ですが!テオ殿下にはパートナーがいらっしゃらないじゃないですか!」
そう、この国では結婚をしなければ国王となる事は出来ない。浮いた話の一つも無い俺に誰しもが期待などしていない。今までは俺自身も騎士団の団長として、その任を全うする事でこの国に尽くして来た。王になる事など考えた事も無い。
「心配するな、テオは今朝付けで婚約した。」
おいおい、今話すのか?と国王を見る。国王は楽しそうに微笑んで言う。
「お前が捨てたヴァロアのご令嬢とな。」
ジルが婚約しただと?婚約を破棄された翌日にテオ殿下と?一体何がどうなっている!部屋に戻され、その日は外出を禁止される。マリエラは王妃教育とやらですぐに連れて行かれた。
昨日はジルとの婚約を派手に破棄してやった。ジルはいつも俺よりも優れていて、俺よりも思慮深かった。唯一、俺がマリエラと仲良くしているとその顔を苦痛に歪める。辛そうにしているジルを見ると胸が透く思いだった。マリエラは可愛かった。貴族同士のマナーなどそれ程知らず、俺が何もかもを教えてあげたくなる、守りたくなるような可愛い子だった。俺はジルに劣等感を持っていた。だからジルが憎たらしかった。ジルに触れる事すら嫌悪した。
そこで俺は思い直す。いや、良かったじゃないか。ジルが婚約したのなら、俺も心置き無くマリエラと結婚出来る。
……結婚出来る、のか?
王妃教育の事に関しては良く知らなかった。俺がジルに興味を持たなかったから。ジルは淡々と教育を受けていたし、そんなものだろうと思っていた。ジルにこなせるならマリエラにもこなせる…?そこで俺は初めて思い至る。ジルがどれ程までに優秀で、どれ程までに努力をしていたのかを。いや、マリエラなら出来る、きっとやってくれるだろう。マリエラだって俺の事を愛してくれているのだから。
マリエラだって?俺は今、当たり前のようにそう思った。
そうだ、ジルは淡々としていたけれど、きちんと俺を愛そうと努力していた。5年もの時間をかけて俺に好意をちゃんと向けてくれていた。踏み躙ったのは俺の方だ。
「兄上よ、あんな所で言うなんて聞いて無いぞ?」
言うと兄上は笑う。
「良いじゃないか。どうせ午後には発表するんだ。」
そして俺を見て微笑む。
「女っ気の無かったお前が唯一夢中になったのがヴァロアで良かったよ。」
俺は呆れて言う。
「何とでも言え。」
兄上は俺の肩を叩き、言う。
「いや、本当におめでとう。結婚式は盛大にやろう。心からお祝いするぞ。」
俺は歩き出しながら言う。
「明日には婚約者殿が我が屋敷に来るんだ。支度が忙しいので失礼するよ。」