何これ?
私の心の中は冷ややかだった。今、目の前で私の婚約者が私との婚約を破棄しようとしている。
「ジル・ヴァロア!いや、ジゼル・ヴァロア!今、この時をもって君との婚約を破棄する!そしてこのマリエラ・グラハム嬢と婚約する!」
こんな場所で断罪するように、そう大声で宣言されてもなお、私の心は冷ややかだった。
この人はちゃんと物事を分かって言っているのだろうか。いや、分かっている筈が無い。分かっているならば私との婚約を破棄するなどと馬鹿げた事は言わない筈だ。周囲は固唾を飲んで見守っている。私がどう出るか、待っているのだ。
まぁ、良いでしょう。このまま私が引き下がって幕引きしましょう。
その後の事は私には無関係となるのだから。私はドレスの両端を持って深くお辞儀する。
「かしこまりました、王太子殿下。殿下の仰せのままに。」
そう言われた事が意外だったのか、顔を上げた私が見たのは驚いている王太子殿下とその恋人のグラハム嬢の顔だった。
「私は婚約を破棄されましたので、この場には相応しく無い身の上となりました故、失礼させて頂きます。」
そう言ってひらりと踵を返して歩き出す。
扉を開けて外へ出る。このまま帰ろう。馬車が何台も連なっていて、自分の家の馬車までは遠い。王宮で開かれた夜会なので元々庭園が広いのだ。私は歩きながら前だけを見て歩き続ける。
私はここ何年も王妃に相応しい女性になるべく、王妃教育を受けて来た。それはこの国の国王陛下も王妃殿下も、そして誰よりも王太子殿下も良く知っている事だ。5年前に婚約が決まり、20歳になったら正式に結婚の予定だった。そう、今年がその年だった。それがこのザマだ。
半年ほど前からグラハム嬢と王太子殿下の仲の良さは疑っていた。王太子殿下に直接お聞きした事もあった。王太子殿下はその度に自分を疑うのか!と私を叱責なさった。私たちの結婚は家同士が決めた事、いわゆる政略結婚というものだ。我がヴァロア家はこの国で強大な力を持つ。国王陛下はそのヴァロアとの結び付きを更に固めるべく、王太子殿下と私との結婚を決めたのだ。かたやグラハム家はしがない子爵位。きっと二人は身分違いの恋とやらに浮かれてのぼせている。現実はそれほど甘くないというのに。
「うふふふふ…」
可笑しくて笑みが漏れる。あのグラハム嬢に王妃が務まるだろうか。頭の中は着飾る事と殿方に甘える事で一杯で、この国の政治や経済、外交や歴史などには疎いと聞く。王妃たる者、ありとあらゆる知識と知恵が必要なのに。
でも私にはもう関係無い。婚約は破棄されたのだ。もう今以上に知識や外交の経験など積まなくても良くなる。笑っている筈なのに、私の瞳からは涙が溢れて来る。まだダメよ、ジゼル。我慢なさい。せめてこの庭園を出るまでは。去り際こそ美しく、散るなら潔く。そう強く思いながら歩く。やっと中間地点の白亜のガゼボに辿り着く。ここを抜けて真っすぐ歩くのよ。
次の瞬間、有り得ない事が起こった。ヒールの踵が石畳に引っ掛かり、躓いて転ぶ。
「痛っ…」
今までこんな事は起こった事が無かったのに。転ぶなんて何年ぶりだろうか。体を起こして立ち上がろうとする。その瞬間足に、肘に痛みが走る。見れば肘は擦り剝け、膝は打ち付けて赤くなっている。足首を捻ったのか、体重を乗せる事も出来そうに無い。痛みと羞恥で涙が止まらなくなる。
「もう嫌…」
そう呟いた時。
「大丈夫ですか、御令嬢。」
低く艶やかな声。その声に驚いたけれど、こんな失態、人に見せる訳にはいかず、私は痛む足を庇いながら自身の手袋をはめている手で涙を拭う。声の主は私に近付いて来ている。私はその気配とは逆方向を向き、顔を上げて言う。
「ご心配はご無用です。」
声の主は私のすぐ傍まで来ると私の傍らに片膝を付き、言う。
「心配は無用との事ですが、その足では歩けないのでは?」
仰る通りだ。私は足を挫いていて歩く事もままならない。
「宜しければこの私に御令嬢の歩くお手伝いをさせては頂けませんか?」
低く艶やかな声。どこかで聞いた覚えのある優しい声。声の主は立ち上がると私のすぐ傍に立ち言う。
「強情なお嬢さんだ。」
そう言って私の腰を抱き、自分と向き合わせる。何て強引な!そう思って声の主を見て驚く。
「王弟殿下…!」
目の前に居るのは王弟殿下のテオドール様だ。
「あの、王弟殿下、これは、何ですの?」
王弟殿下は微笑みながら私を抱き寄せている。
「貴方を助けているのですよ、ヴァロア嬢。」
助けているというけれど、そうは見えない。
「足を挫いたのでしょう?運んで差し上げますよ。」
王弟殿下はそう言うと私をまるで小さな子を抱っこするように抱き上げる。
「殿下!お戯れが過ぎます!」
言うと王弟殿下は私を見上げて言う。
「お戯れ?私は真剣ですよ。」
その眼差しは熱く潤んでいる。王弟殿下は私を片腕で抱きながら、もう片方の手で私の頬を撫でる。
「こんなに麗しい貴方を泣かせるなんて…!あの青二才が!」
そして歩き出しながら言う。
「だから最初からこの婚約には反対だったんだ!あの青二才がヴァロア嬢の魅力に釣り合う筈無いんだからな。」
ノシノシと歩く王弟殿下は逞しく、まるで私など抱っこしていないかのようだ。最初からこの婚約には反対?それはどういう…。考えが纏まらない。
「あの、王弟殿下、下ろしては頂けませんか?」
王弟殿下はノシノシ歩きながら言う。
「嫌です。」
そしてふと立ち止まると私を見上げてまた頬を撫でる。
「私のような年上の者が妙齢の貴方に恋焦がれていた事、貴方はご存知あるまい。」
王弟殿下の瞳は熱を帯びていて、戯言を言っているのでは無いと分かる。
「王弟殿下が、私を…?」
聞くと王弟殿下は優しく微笑むと私の胸元へ顔を埋める。
「そうです、ずっと、初めて見た時から。」
そして顔を上げると私をわざとスルッと落とし、私の足が地面に付く前にキャッチする。王弟殿下のお顔が目の前にある。
「あの、私、」
言いかけると王弟殿下が言う。
「黙って。」
そのまま唇を奪われる。頭の中が混乱する。何も考えられないくらいの熱く甘い口付けに体の力が抜ける。とても長く口付けていたと思う。唇を離した王弟殿下は私を抱き上げ歩き出す。