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第百九十四話 最後の一手・③

「……は?」

「……な、なんでっ……? なんで先輩が知って……!?」


 引き金を引いた俺の発言に、二人とも別々な意味で驚きの声を発する。


 環多流に至っては状況が呑み込めていないようで、考えるより先に言葉が出ていた。


「う、嘘だろ──」

「嘘をついて。……いると思うか?」


 嘘。それはこの場、この空気にて、あまりも適さない単語。環多流はそれを理解したうえでなお、目を泳がせながら身を引く。


「……ッ思う!」


 ──だが意外にも、そんな俺の言葉を否定したのは葵の方だった。


「その情報は誰から聞いたの……!? わたしのっ……家族のことを……!」


 一瞬声が上ずったものの、鋭く、突き刺すような問いが葵から放たれる。


「天王寺道場の元師範、天王寺玄水」

「……っ!?」


 そんな葵に、俺は嘘で包み隠すことなくそのままの真実を告げた。


「お、おい、まてよ…………じゃあ、お、俺は…………」


 間をおいて、環多流の表情が歪む。


 状況が真実を突きつけるとはよく言うが、俺が玄水の名前を出した途端に環多流の中で信憑性が確定された。


 俺があまり不確定要素を口に出さないことも相まって、それは真実となったのだろう。


「俺は……なんてことを……」


 まぁ、それは環多流にとって"やってしまった"過去だ。俺一人に対する攻撃ではなく、西ヶ崎将棋部、ひいては西地区という大きな枠に対して県大会への出場停止を狙ってしまった攻撃だ。


 それはつまり、環多流が謝罪したいと思っていた被害者の存在を、自らの手で傷つけたようなもの。


 静寂の間に両者の情感が膨れ上がる。


 そんな中、冷や汗を流しながらも環多流はなんとか葵に向けて謝罪の言葉を口に出そうとするが。


「あ、あの──」

「聞きたくないっす、アンタからの謝罪なんて」


 その雰囲気を感じ取ったのか、葵に一刀両断されてしまった。


「だいたい、なんで先輩はこの男と一緒にいるんですか? この男は……先輩のことを公の場で不正者だと罵ったんですよ? アオイの家族を皆殺しにしておきながら、本人は寝たきりで会話もできず、その一家はそろって墓参りにすら来ない……!」


 葵の声が昂り始める。環多流はその言葉を受け止めきれるだけの立場が無い。


「当時のアオイは子供だったから何も知らされなかった、何も分からなかった。ただ突然いなくなった家族に茫然とする日々で、その恨む相手すら被害者で、すべては不幸な事故だから、しょうがないことだからと、勝手に幕をおろされた」


 家族を失った当時の葵がどういう環境に置かれていたのか、その細かいところまで俺は把握していない。


 児童養護施設には入ったのか、未成年後見人などの支援は受けたのか。……いや、そういう細かいやり取りは実際にあったのだろう。だが、如何様に事が展開されようとも、葵が今独りで生きている事実に変わりはない。


 葵の怒りは、環多流へと向いていた。


「……なのに、そっちの家族は誰も死なずに生き残ってて、しかもその弟はアオイと同じく将棋を指してるじゃあないですか。こっちは必死に明日を生きようとしてるのに、のうのうと大会に出ては結果を出して他人を下に見て。……それで? え? 10年ぶりに視線が向いたと思ったらウチの大将を不正者呼ばわり? 言いがかりをつけられて県大会には出場できないって?」


 それは、ずっと逆鱗に触れ続けていたのだろう。


 大きく息を吸い込んだ葵に、反射的に鳥肌が立った。


「──ふざけるのも大概しろよ! こっちは人生掛かってんだよッ!」


 葵の怒号が響いた。


 環多流は何も言えず、ただ葵の叫びを真っ向から浴びせられるがままになる。


 もはや激昂。葵のその眼に映る色を殺意と呼べずしてなんと呼ぶのか。


 しかし、葵は叫んだ反動で息を吐くと、今度は落ち着いた声で話し始めた。


「……って、言いたくとも言えなかったんすよ。だってアンタは、アオイの家族が遭った事故に関して何も関係がないから。それに、アオイがここで癇癪かんしゃくを起こしたところで何も解決はしない。あれは誰かが責任を負う事故じゃなかった。……だから、アオイはこの怒りを空に向けて放つしかない」


 それは既に泣き寝入った後の始末。今さらどうこうしろだなんて、葵の口からは出てこなかった。


 それでも、環多流がしたことは決して許されることではない。


 きっと、俺が公に咎めようとしなかったから葵も身を引いていたのだろう。実際にはこうして怒号を放つくらいには憤りを感じていたはずだ。


 なにせあの来崎だって、殺意を表面に出していたくらいだからな……。


 葵は少しだけスッキリした顔で俺の方を向くと、胸に手を当てて告げた。


「先輩。アオイは先輩に恩があります。ですから先輩に何か頼まれたらなんでもやってあげるつもりです。……だから、アオイのことは放っておいてください。アオイはもう十分幸せです」


 十分幸せか。幸せは十二分あっても足りないくらいの幸福を指すものだと思うのだが、慎ましいと身の丈も低くしてしまいがちだ。


 俺は葵の言葉に沈黙を返すと、そこへ割って入るように環多流が喋った。


「……俺は、何も知らなかったんだ。当時の姉の事故に関しては俺もずっと知りたかった。でも、誰も何も教えてくれなかったんだ」

「だから何?」

「今回、俺がお前達にした仕打ちとは別個の問題なのも分かっている。でも言い訳はしたくないから全部説明させてくれ。姉の治療費を稼ぐためにも、バカな俺は銀譱委員会に寄りかかってしまった。県大会での悪事は、俺がより金を稼ぐためにしたことなんだ。悲劇なんてない、全部俺が意図した悪事だ。だから許して欲しいとは言わない。……ただ、俺はあの10年前の事故について君に謝罪をしたかっただけなんだ」

「アンタからの謝罪なんていらないって言ったでしょ」

「っ……」


 葵の突き放すような言い方に、環多流は思わず項垂れる。


「葵」

「先輩は優しすぎるんです。アオイは絶対にこの男を許しません。それはライカっちや東城先輩もきっと同じ」

「そうだね。俺も許すつもりはないよ。でも、謝罪くらいは受け取ってもいいんじゃないかな」


 俺の言葉に、葵はそれでもなお視線を横に流して、冷たく吐き捨てる。


「先輩はこんな男の謝罪を受け入れたんすか」

「自分本意じゃない謝罪は謝罪としての価値がある。彼は自分の立場を放棄して頭を下げているんだ。非を認めるとはつまるところ、自分の劣勢を容認するということ。少なくとも俺は、環多流が自分の非を認めていると思っている」

「……」


 そう、それはどこぞの明日香とは違う。


 許しを請うための謝罪ではない。相手に恨まれ、憎まれ、厭われても、謝罪だけは受け取ってほしいと願っている。


 失敗し続ける者は救いようがないが、失敗から立ち直ろうとしている者を切り捨てるのは少しだけ残酷だ。


 俺だって何度も失敗している。他人にだって迷惑をかけているかもしれない。


 だから、善悪はどうあれ、話は聞く。それから判断して答えを出しても別に遅くはない。


「……分かったっす」


 しばらく無言だった葵が、どこか遠くを見つめなから呟いた。


 それがただの二つ返事の納得ではないことを、俺や環多流は理解する。


 環多流に関しては複雑な表情だ。自分が悪いと自覚している状態で、自分の謝罪を受け入れる相手を見てるんだ。嬉しいなんて感情は出てこない。


 そんな環多流に、葵はゆっくりと近づいていった。


「西ヶ崎将棋部の、アオイの仲間たち全員に今すぐ県大会の件で謝罪してきてください。そして先輩にもきちんと。……それで許します」

「……!」


 環多流の目に光が灯される。


「わ、分かった……!」


 環多流はすぐに返事をすると、俺の横を通り過ぎて個室を出て行った。


「……まさか許すとまで言うとは思わなかった」

「少し冷静になって考えてみれば、アオイも遊馬環多流と同じ立場だったことを思い出したんです。自分の夢のために、アオイも先輩を巻き込んであの部を自分のものにしようとしてました」


 葵はそう言うと、目元をほぐしながら妙な表情を作って笑う。


「あの時は立ち止まることができなかった、他人に迷惑を掛けることを躊躇しなかった。……そんなアオイを、先輩は当事者でありながら許してくれたんです。だったら、アオイも人のこと言えないなって……そう思ったんです」

「……そっか」


 俺はホッと胸をなでおろして安堵する。


 ……しかし、それは形だけで、俺は葵が未だに"演技"していることに憂慮が捨てきれない。


 別に葵の発言全てが本心じゃないというわけではなく、葵が環多流を許すと口に出したその言葉自体は間違いなく本心だ。


 今日の戦いを見て何を感じ、何に夢見て、何を目指そうと、葵はその点に関して嘘はつかないだろう。


 俺に対する恩義も、環多流に抱いていた怒りも、これからの未来に対する不安や渇望も全て本心だ。


 ──なのにどうして、自分にだけはそうやって嘘をついているのか。


 ※


 環多流が私の傍を通り過ぎて去って行ったあと、個室には私と真才先輩だけが残っていた。


「──偉いでしょ? ミカドっち」


 私はいつもの調子に戻って胸を張る。


「ああ、偉いよ。俺はまだ環多流のことを許してないからね」

「ミカドっちは一生恨む権利があるっすよ! なんなら一発殴ってもいいくらいっす!」

「ははは……」


 先輩も張り詰めていた空気を和らげるように椅子に座ると、対局後の疲れを取るかのように汗を拭う。


 私とて、心の底から遊馬環多流の全てを許したわけじゃない。


 ただ私は、10年もの間ずっと楔となっていたこの苦しさをほんの少しでも和らげたかった。


 どんな免罪符でもいいから、納得をしたかった。家族を失っていい理由を見つけたかった。


 ただ、逃げたかっただけなのだ。


 それは悪いことかもしれない。間違っているのかもしれない。でも、それで前に進めるのならと一歩を踏み出した。


 この人はどうせその辺りも全部読んで、私を遊馬環多流と引き合わせたのだろう。


「それじゃ、アオイたちも会場に戻るっすか?」

「……」


 個室のドアから差し込む光と、それによって僅かに浮き出ている崩れた影。それが自らの情動を映したことに気付き、思わず目線の移動ですかさず隠した。


 先輩の視線は、私の目線を追っていなかった。


「な、なんすか?」

「いや、大した疑問じゃないんだけどさ。環多流を許すほど偉くて寛容な葵が、どうして自分自身は許せないのかなって」


 何の前触れもなく、何の心の準備もなく放たれたその一言は、まるで頭を鈍器でぶん殴られたような衝撃を私に与えた。


「……どういう、意味っすか」

「そのまんまの意味だよ」


 平然と、しかし飄々《ひょうひょう》と言うほどでもない態度でそう告げる先輩。


 その全てを見通さんとする眼の色が、私の目元の痙攣を誘発した。


 私は繰り返すように先輩に問いただす。


「……どういう意味っすか、アオイのどこがッ」

「それだよ」


 私の言葉を切り上げて割って入るように告げた先輩は、その鋭い眼差しを私の視線と交える。


 普段は目を合わせずに喋ってるくせに、こういう時ばかり目を合わせてくる。


 そして、こういう時の先輩は絶対に──。


「その一人称、最初はそういうものだと思ってた。赤利もそういう口調で喋るしね。……でも、名前じゃなくて苗字ってところがずっと違和感だったんだ」


 心臓が跳ねる。鼓動が早くなる。


 やめてくれと、そう言わんばかりの私の顔は、どれほど醜かっただろう。


 どうして、この人はそこまで知って──。


「俺は何も知らない、知らなかった。ただ、俺達の師、玄水から葵の事情を少しばかり聞いた時に、やっと合点がいったんだ」

「……やめて」

「あぁ、葵はその後悔を他者へ向けるのではなく、ずっと自分に向けていたんだなって」

「やめてください」

「家族を失った悲しみよりも、家族を失ってまで生き残ってしまった自分への怒りがそれを──」

「やめてって言ってるでしょ!」


 私は思わず叫んだ。


 誰もいない場所には木霊だけが残り続け、私は下を向いて反論の言葉を必死に手繰り寄せようとする。


「……アオイは、アオイは……ッ」

「そうやって連呼して、自分の苗字ばかりを口にして。──そうして自分の名前を少しでも薄めて消そうと・・・・・・・・・・・しているんだ?」

「なんでっ……先輩はそうやってアオイの心の中を全部見透かすんですかっ!」


 本性、化けの皮、内に秘めた本心を引きずり出されては、私はもう私ではない。


 今先輩と相対している私は、誰よりも醜く、誰にも見せたくない顔だった。


「別にいいでしょ!? 自分のことが嫌いだって! 前にも先輩に言ったじゃないですか、アオイは弟の夢のために将棋を指してるんです! これは私の、アオイの一生を懸けた『夢のための戦い』なんですよ!」

「死者を想いを継ぐというのは、死者の夢を継ぐことじゃない」

「うるさい!」


 当然のように正論をかざしてくる先輩に頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 こんなはずじゃなかった。


 私はただ、前を向いていたかっただけ。夢に向かって走っていきたかっただけだ。


 ──過去を振り返りたくはなかった。


 先輩は私の恩人だ。


 どうしようもない状況だった私を救ってくれて、夢に近づける手伝いをしてくれて、それだけでよかった。


 たとえそれが『アオイ』の進む道だったとしても、その軌跡が薄汚れていたとしても、先輩はそれを肯定してくれたから、あの時の私を救ったんでしょ?


 ……違うの?


「……」


 先輩は私と違って毅然とした態度で沈黙している。


 決して感情だけでは押し切らない、言葉だけに意味を持たせた冷静な眼差しだ。


「……アオイがどんな気持ちであの凄惨な光景を目にしたか分かりますか」


 それは今でも夢に出てくる。地獄のような光景だ。


 甲高いブレーキ音、体が浮く感覚、鼓膜が破れるような衝突の轟音に焼けるような背中の痛みがあった。


 朧げな意識をなんとか保ち、目を開けた私は──絶句した。


 赤い血と、あり得ない方向に折れ曲がった腕。ピクリとも動かない体に、内側から飛び出す足の骨。


 それが家族の姿だなんて、思いたくはなかった。


「普通の家庭だった、普通の人生だった。弟は私なんかよりも将棋の才能があって、対する私はなんの才能も持ち合わせていなかった」


 両手を握りしめ、蒸し返したくもない過去の記憶を自ら掘り起こす。


「退屈だと思った。つまらない日々だと思った。自分が恵まれている環境であることも分からず、私はあの現状に不満を抱いていました。それも大した理由もない、ぼんやりとした不満の感情だったんです」


 言っていて怒りが湧いてくる。


 何が不満だ。何がつまらないだ。


 私はあの時、あの事故が起こるまで、家族のありがたみをまるで理解していなかった。


 あの日は私と弟の"特別な日"だった。


 だけど、そんな久々の家族そろってのお出かけは、私が勝手に機嫌を損ねていたところから始まっていた。


 弟が見ている前だからと、いつも頭を撫でてくれた母の手を振りほどき、いつもの癖でハグを迫ってくる父を追い払った。


 喜ばしい日だったのだ。頭を撫でられ、抱きしめられても良い日だったのだ。


 私はその日に限って何もせず、少しだけ大人ぶった自分を演じてしまった。


 ……私の後悔は、あの日の自分に全て向けられている。


 許せるわけがない。こんな自分を、許せるわけがない。


「……それですべて失って気づくって、本当にバカみたい」


 吐き捨てるように言った私は、先輩の方を向いて睨んだ。


「……何もしなかった、何もできなかった。あの日はっ、私の誕生日で、晴斗はるとが初めて大会で優勝した日だったのに! ……なのに、私は同じ大会の準決勝で晴斗に負けて、それでずっと機嫌を悪くして、せっかくの特別な日を台無しにしたの! ……"よく頑張ったね"ってパパは言ってくれたのに、"次はお姉ちゃんの意地を見せよう"ってママは言ってくれたのに、私はそんな言葉には耳も傾けず二人の手を拒んだ! その結果生き残ったのが私だけってなんの冗談!?」


 本心が、零れるように出てくる。


 涙腺から垂れてくる雫を拭いもせず、私は感情のままに叫び散らす。


「あの時、私が二人の手を取っていたら……素直になっていたら……きっと家族は死なずに済んだ。……ううん、死ぬのは私だけだったかもしれない」


 あの日、私はその血に塗れた亡骸を抱き上げてどこまでも強く抱きしめていた。


 本当はこうしたかったのだと言わんばかりに、絶叫の末に枯れ果てた喉を震わせながらどこまでも強く抱きしめていた。


 ……人肌がこんなにも冷たいものだったなんて、知らなかった。


「……ずっと記憶から離れないんです。死体となった家族を抱きかかえてしまったあの時の記憶が。血の臭いも、冷たい肌も、硬直しきった体も、全部全部、毎日のように夢に出てくるんです。……でも、それでよかった、そのくらいでなければいけなかった……!」


 私はそれを、贖罪だと思って受け入れていた。


 夢に出てくるだけ、トラウマになっているだけ。私の行く道が閉ざされたわけじゃない。


 だから、私は"アオイ"を演じながらも、夢が果たせるのならそれでいいと思っている。


 私自身がどうなろうと、知ったことではなかった。


 なのに──。


「なのに、どうして玲奈わたしを引きずり出すんですか……! 私はいいって、それで妥協して、それを受け入れて、こうして頑張っているんだから、それでいいじゃないですかッ!」

「良くない」

「っ! ──じゃあ、先輩が私を強く抱きしめてくださいよ! あの時の冷たさを忘れさせてくださいよ!! 私の家族をっ……返してくださいよ…………」


 それが無意味な言葉だと気付いて、途中から勢いがなくなった。


 これほど本心に感情が溜まっていたなんて分からなかった。


 感情に任せ過ぎた叫びは今までの鬱憤を晴らすが如く喉元を通り過ぎ、なんの障害もなくそのまま口から放たれていた。


 言いたいことを言い終えた私は、段々と冷静になって恐る恐る顔を上げる。


 私の話を全部聞いていた先輩は私と目が合うと、少しだけ表情を崩して言った。


「……そうだよな、冷たいよな」


 まるで私の気持ちを分かっているかのように口ぶりに、私は怪訝になる。


「俺もずっと後悔している。父の死に際に立ち会えなかったことを」

「えっ……? 先輩も……?」

「なんだ、知らないのか? 俺には家族がいない。母は俺が物心つく前に他界し、父は俺が小学生の時に病気で死んだ」

「うそ……」


 思えば、前に廃部騒動で先輩の家に行った時、家の中には誰もいなかった。


 当時は親が出掛けているのかと思ったけど、今思えばあまりにも家の中が殺風景だった。


「俺も当時は褒められ慣れていなかったから、父と触れ合う機会は少なかった。だから生まれて初めて抱きしめたのは、父の死体だった」

「……」

「どうして間に合わなかったんだろうって後悔したよ。どうせ死んでしまうのなら、もっと正直になっておけばよかったとずっと後悔してる。……今の俺だったら、きっと自分の気持ちを全部伝えて何よりも大事に抱きしめていただろうにね」


 初耳だった。


 私が感情をぶけていた相手は、私と同じ境遇を持った人物だった。


 私は、なんてことをしてしまったのだろう。


「……そう言えば、返事してなかったな」

「え?」


 先輩はそう言って席を立つと、私の前まで迫ってきた。


「……"強く"だっけ?」

「せんぱっ──!?」


 先輩はその勢いのまま、両手を広げて私の身体を包み込む。


 強く、という言葉の通り抱きしめようとする先輩だったが、疲れ果てた右手から右腕にかけてはほとんど力が入っておらず、半ばのしかかるような体勢となっていた。


 でも、それがかえって密着度を上げていて。


「……暖かい」


 初めにいだいた感想がそれだった。


 寒い季節でも、この場所が寒いわけでもないのに、私はそのぬくもりに縋るように両手を被せた。


 冷たさが引いていく。あの時感じた凍てつく死の感触を上書きするかのように、先輩は私を抱きしめる。


「……ハグって、こんなにも落ち着くんですね。知らなかった」

「俺も」

「嘘、先輩は東城先輩ともライカっちともハグしたって聞きましたよ?」

「そうだったかな? 物覚えが悪いから忘れたよ」

「──ふふっ、うそつき」


 私は先輩の胸の中で泣くように笑う。


 背中に回した手は力任せに服を引っ張っていたが、先輩は気にせず私を抱きしめ続けてくれた。


「……なんか、言ってください」


 私は無茶ぶりでもするかのように呟く。


 先輩に聞こえるかどうかの声量だ。


 主語も意図も告げていないその言葉を聞いて、先輩は抱きしめながら空いた手で私の頭に手を乗せると、その手で優しく撫でた。


「──よく頑張ったな、葵」

「……っ」


 温もりが、私の涙腺を刺激した。


 私は先輩の背中に手を回すと、そのまま強く、強く抱き返す。


 そして、その胸の中で声を押し殺すこともなく泣き続けた。






 ……どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと泣いていた気がするが、実際は数分の出来事だったようにも思える。


 目元が赤くなっている私に、先輩はハンカチをくれた。


「……気が利くっすね、ミカドっちはモテるっす」

「たまたまだよ。対局の前後でご飯を食べたりトイレに行ったりすることが多いからね、いくら手洗いをしても濡れた手で駒を触るわけにもいかないから」

「ホント、将棋バカっすね」


 ふふっと笑う私に、先輩もつられて微笑む。


 緊張の糸が解けたかのように緩まった私の表情を見て、先輩は言った。


「葵」

「?」

「弟に負けたのが悔しかった?」


 それは、これまでの"アオイ"ではなく、葵玲奈への質問なのだろう。


「……悔しかったです」


 私は正直に答えた。


「じゃあ、その悔しさをバネにプロになろう。プロになって、天国にいる弟さんに見せつけてやろう。自分はプロ棋士になれたぞって、アンタの夢を奪ってやったぞって」

「性格終わってるじゃないっすか……」

「いいんだよ、それで。自分のための、自分のために生きる人生なんだから。努力も苦悩も全部自分で受け止めてる限り、その先で得た称賛は全部自分のものだ。──あの日、事故が起きなかった葵玲奈なら、きっとそうしたんじゃないかな」


 まだ絶望を知らなかったあの頃の私なら、確かにそうしていたかもしれない。


 身近に自分よりも強い相手がいるなんて嫉妬するに決まっている。幼かったあの頃の私は、才能のある弟に嫉妬していたんだろう。


 だから、全部失った怒りを自分に向けたんだ。望んでいた結果だろうって、そう突きつけるように。


「先輩、ひとつだけ聞きたいです」

「なに?」


 私は先輩からもらったハンカチを小さく折りたたみ、先輩に背を向けた。


「玲奈って名前、どう思いますか?」


 それは、父と母から貰った大切な名前。


『玲』は清らかで透き通った内面を指し、『奈』は願いという意味が込められている。両親は私が美しく綺麗な内面を持つ子に育ってほしいという願いを込めて、この名をつけた。


 でも私は、この名前の通りに成長することができなかった。


 何よりも大切にしたいのに、ずっと嫌っていた名前だ。


 先輩はそんな私の名前の由来など、知る由もない。


「……名前の意味なんて全く分からないから、本当に率直でいい?」

「はい。どう思ったのか聞きたいだけですから」

「なら即答だ」


 答えに言い淀むと思っていた時間は瞬きの間すらなく、先輩は答えた。


「『葵』は確か、太陽の方を向く植物に由来してるんだったな。なら"その名前"は常に陽の光に照らされているということだ。──これに『素敵』以外の言葉があるか?」


 先輩に背を向けていた私は、何もないその扉の先を見つめて目を見開いた。


 信じられない。それは以前、母が私に言ってくれた言葉と同じだ。


 葵家に生まれた者が、皆明るく、すくすくと成長していくことを願うために、太陽に向かって咲き続ける『葵』を苗字にしたのだと言っていた。


 だから、葵の名のもとに産まれた者は皆太陽に照らされて明るく育つのだと。


「……もしかして、的外れなこと言っちゃったか?」


 私は勢いよく横に首を振る。


 ……ずるい。ずるいよ、先輩。


 せっかく拭った目元からまた涙が零れそうになり、鼻をすすって精一杯我慢する。


 そして、時間切れとばかりに会場の方から拍手の音が聞こえ出し、私は大きく息を吸って呼吸を整えた。


「……時間みたいっすね。いきますか!」

「そうだね」


 最後に満面の笑みを浮かべた私は、先輩の手を引いて会場へ向かう。


 あれだけ冷たく感じていた手も先輩の熱に溶かされるかのように温もりを帯び、今さらながらちょっとだけ恥ずかしく思えてしまった。


「ミカドっち! ──レナ・・は絶対プロ棋士になるっすからね!」

「なら、始発の黄龍戦は絶対勝たないとね」

「当然っす!」


 こうして私、葵玲奈は会場へと戻っていくのだった。


 ──窓を突き抜けて照らす陽の光を浴びながら。



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