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第百九十二話 最後の一手・①

 天竜と赤利を放って抜け出した後、俺は観戦会場の方へと入っていった。


 道中にある自動販売機で適当な飲み物を2つ買い、一階の廊下を抜けた先にある小さな休憩所へと向かう。


 WTDT杯が終わったことで何人かの観戦者は帰っていくが、皆真っすぐ会場を出て行くばかりで休憩所に向かう者はいない。


 会場の方では解説役のプロ棋士と聞き手役の女流棋士が感想戦を行っており、俺の疑似頓死やアリスターの反則手についての意見などで盛り上がっている声が聞こえてくる。


 そんな声を小耳にはさみながら休憩所へとついた俺は、背無しのロビーチェアに座っている男の横にさきほど買った飲み物を黙って置く。


 そして、俺はそのままその男──環多流と背中合わせに座った。


「……なんだよ、礼は言わねぇぞ?」

「いいよ」


 横に置かれた飲み物を手に取って勢いよく口に入れる環多流。その顔色は分からないが、今顔を見るのは失礼だと思って背を向けた。


「……たまに思うが、人の将棋を見ると自分が強くなった気になれるな」

「それは少しわかる」


 俺は環多流の言葉に同意する。


 第三者視点から見える景色は常に広い。深く狭く考える対局者と違って、それを見ている者は浅く広く局面が見える。


 アリスターは俺の深さを読み解こうとしていたが、それゆえに選択肢の広さに気付けなかった。


「……あの傲慢な指し回しを打ち破るのに、死中に活を求めるのが正解だとは思わなかった」

「抗うだけの最低限の棋力は必要だけどね」

「別に手が読めなかったわけじゃねぇ。ただ、ずっと手のひらから降りられなかったんだ」


 それが環多流にとっての呪縛。複雑に見える細工に活路を見出せるか否かは勝負の結果に直結する。


 自分だけが見えて、相手には見えない。この状況を作り出すだけで簡単に天地はひっくり返る。


 今回俺がアリスターにやった対抗策は、そのほんのひとかけらを武器に会心譜を出し続けただけだ。再現性の条件に俺はいない。


「お前の指し手を見て狭小きょうしょうの希望が膨らんだ。まるで自分の……いや、自分の一歩先を行く棋士が指し手を示してくれたみたいに。……凄くお手本になった」

「それはよかった、何のことか身に覚えがないけど」

「チッ……どこまでも嫌味だ。自分のやり方で戦ったから知らないってか」

「誰が何を見てどう感じようと、俺の関与する所ではないからね」

「そりゃそうだ。お前はいつだって自分の狙いを誇示しない。黄龍戦の他の県代表の連中、次の全国大会で泡吹くぜ?」

「本当になんのことだか」


 俺と環多流は少し先の未来を見据えて小さく笑う。


 互いに敵意をぶつけ合っていたあの時に比べたら信じられれない状況だろう。環多流は笑い終えると、少しだけ沈んだ声色で告げる。


「……俺なんかの気を晴らしていいのかよ。こんなしょうもない生き方をして、もう堕ちていくだけの人間だったんだぞ。……そんな奴の指先だけ救いやがって」


 確かに今の環多流は状況的に芳しくはない。周りから多くのヘイトを買い、出る杭を打つように上から叩かれている。無論、それらは自業自得なのだから擁護のしようがない。


 しかしそれらは所詮、周りがそうたらしめているだけの話だ。環多流がどうなのかは別だろう。


「じゃあ、せっかくだ。いっそのこと清算しよう」

「……?」


 何を言ってるんだという顔をする環多流に、俺は陰で聞き耳を立てている者に目線を送った。


 休憩所の薄暗い照明が、その人物の顔を浮かび上がらせる。


「お前は、西ヶ崎の……!?」


 環多流の目が見開かれた。


 そして、彼女は複雑な表情をしながら、こちらに身を晒した。


「……アオイっす」


 ※


 時は遡り、俺が西ヶ崎将棋部の廃部事件に乗り出した1日目のこと。


 まだ小雨が降り注いでいる北地区のとある駐車場にて、俺は傘を差した老人と会話をしていた。


 その相手はかつての師、天王寺玄水げんすいだ。


「龍牙の件、確かに預かった」

「ありがとうございます」


 静かな威厳を宿らせたその声色に、俺は懐かしさを感じながらも軽い会釈を交えて礼を言う。


 俺は玄水に少しばかりの助力を申し出ていた。


 その助力の内容は今起きている廃部に関してではない。もっと先の、これからのことだ。


 本当は手を出さないつもりだった案件だ。あまりに余計で、あまりにお節介で、結果的に良くなるとしても善行とは言えない。


 ただ、本気で勝ちに行く以上は必要な行為でもある。


 玄水は傘の隙間から俺の顔を覗き見ると、今抱えている問題について口を開いた。


「……何やら厄介事に巻き込まれているらしいのう、ワシが手を貸そうか?」

「知っているんですか?」

「文字通り、知っているだけじゃ。年を取ると耳打ちが多くなるものでのう、そういう話ばかりが入ってくる」


 それは嘘だ。


 この人は俺とよく似ている。普段から動くことを毛嫌いしているくせに、自分の足を動かして情報を取りに行くほどフットワークが軽い。


 いや、どちらかというと俺がこの人に似てしまったんだろうな。


 短くとも、それなりに深い付き合いだった。


 しかし、宗像の件に関しては既に事が済んでいる。


「……して、どうする?」

「いえ、大丈夫です。既に解決していますから」

「ほう……? カラクリを聞いてもよいか?」

「鈴木会長を引き入れます」

「……! ……大胆にも議会の手を掴むのか」

「火の粉を払うのはもうやめましたので」


 俺がそう言うと、玄水は楽しそうに笑った。


「そうか、そうか。お主は本当に強くなったのう」

「あなたから教えてもらったことですよ」

「ワシは何も教えとらん、教える前にお主は道場を去ったからのう」

「それでも、沢山学ばせてもらいました」


 俺の言葉に玄水はふっと目を細める。


 通り過ぎる車の音、遠くから聞こえる小さな雷鳴。そんな雨景色から微かに感じる晴天の予兆に、事の動きが連鎖しそうになる。


 玄水はどこか遠い日のことを思い出すような表情を浮かべると、傘を持つ手を少しばかり自分の胸へと傾けた。


「龍牙の件は確かに引き受けた。……その代わりと言ってはなんだが、こちらの頼みも聞いてくれるかのう?」

「最初からそのつもりです、俺にできることであれば」


 俺は、玄水の方へと向き直り目を合わせる。


「ワシは既に天王寺の師範の座を降りている。今は不肖の息子に跡を継がせておるからのう」

「存じています」

「……そうか。では、言葉を変えよう」


 玄水は一瞬だけ言葉を切り、静かに俺を見つめた。その時雨音が僅かに遠のいたように感じたのは、玄水の真剣な面持ちがそうさせたからなのだろうか。


「真才よ。……葵玲奈は元気にしておるか?」


 どういう意図を含んだ質問なのか、俺は即答する前に少しだけ思案してから答える。


「……善処はしています」

「その様子じゃと、あの娘に何があったか、おおよそは見当がついているようじゃのう」


 玄水の言葉に俺は静かに首肯する。


 葵が追い詰められていたことを、当時の俺は知らなかった。知らないまま敵視され、知ったような素振りで相手をし、知ろうともせずに手を差し伸べた。


 それは、安易に踏み込むべきものではないと思っていたからだ。


「あの娘は将棋を愛しておる。お主と同じじゃ」

「葵が……?」


 思わぬ見解の相違に、俺は口元に手を当てて考える。


「分からぬのも無理はない。お主と同じ学校に通っているとはいえ、まだ出会って日が浅いじゃろう」

「はい、まだ数ヶ月も経っていません」

「そうじゃな……あの娘は、お主が道場を去った日に入れ替わるように入ってきたんじゃ。……そして、ワシが天王寺道場の師範として相手をした最後の生徒でもある」


 それは初耳だ。いや、俺が忘れているだけの可能性もあるが……。


「あの娘は本気でプロ棋士を目指していた。それこそ、何を犠牲にしてでも手を届かせる野心を持っておった。今の若者には足りぬ欲よのう」

「……」

「ワシはそんなあの娘を育て上げ、歴史を覆す快挙を成し得る人材へとこの手で成り上がらせるつもりじゃった。才能も努力も申し分ない、できる素質があると思っておったんじゃ」


 冷静に語る玄水の頬に、風で軌道を変えた雨粒が当たる。


 それが涙のように思えたのは、語る口とは裏腹に後悔を募らせた瞳の色をしていたからだろうか。


「──野心の芯となる部分が"自分のため"でなければ、その道は届かぬ」


 玄水はハッキリとそう告げた。


 ……そうだ。葵は亡くなった者のために将棋を指している。家族を失い、プロ棋士を目指していた弟を失い。葵はその"想い"を背負って自らがその地位へ成ろうとしている。


 だがそれは、自分の本心を"想い"などという都合の良い感情で背を押しているだけでもある。


 誰かのために、というのは足を後退させないための力である。足を進めるための力ではない。


 玄水が言うように、"自分のため"でなければ意味がないだろう。


「しかし、葵玲奈が抱くその熱意は、ワシのような他者が安易に否定できるほど軽くもないだろう。死者に対する想いというのは想像以上に深刻なものだ。……特に身内ともあればな」


 それは痛いほどよく分かる。……俺もまた、その想いを背負ってしまった人間だから。


「ワシの抱える天王寺道場が名を馳せられたのは、幾人もの女流棋士を輩出した功績によるものじゃ。かつて先代と瑞樹みずき家によって創られた『既存の定跡を破る戦術』。それが今の棋界、AIを基準に最善ばかりを追い求める現代将棋にも大きな対抗を見せている。……だからこそ、ワシは見たかったんじゃよ。この天王寺の棋風が天に届くところを。人類初の女性のプロ棋士を誕生させることで、その証左になるところまで含めてな」


 なるほど、そういうことだったのか。


 天王寺の棋風は確かに特徴的だ。今思い返せば、県大会で南地区の天王寺道場と戦った時、選手の何名かは葵に似た異様な指し回しをしていた気がする。


 逆に、天王寺魁人とその教え子である柚木ゆずき凪咲なぎさは、どこまでもひたすらに現代調な指し回しだった。


 子は親を超えるというが、天王寺玄水は定跡に固執しない指し回しを是とし、その息子である天王寺魁人は定跡に固執する指し回しを是としている。


 どちらが正解というわけでもない。道が違う、それだけだ。


 そして葵は玄水に育てられた。あのトリッキーな指し回しはその影響を大いに受けたのだろう。


 そして、俺もまたその一端を受け継いでいる。


 俺は天王寺道場に長い間いたわけではないが、俺が使う『自滅流』は、父や賢人以外にも天王寺の棋風特有の自由な指し回しが目立つ。


 つまりは色々な合作、まるでキメラだ。


 そして玄水は、そんな世代に渡る棋風を証明するべく、これまで長い間師範を務めていたというわけだ。


 その証明に初の女性プロ棋士誕生とあらば、説得力としては十分過ぎる。


「……まぁ、そんな言い訳はどうでもよくてな。本当はただ、あの娘が、葵玲奈が心の底から楽しく将棋を指し、なんのしがらみにも束縛されずに幸せに生きて欲しかったんじゃ。なんせワシの最後の教え子じゃ……あんな辛そうに駒を掴んでいては、ワシにも未練が残り続ける……」


 玄水は微かに震える声で語ると、そのしわだらけの手で目尻を拭った。


 そして、続けざまに語る。


「真才よ、これは内密にしてほしいのじゃがな。……東地区でエースを張っていた遊馬環多流を知っているな?」

「はい」


 瞬間、少しだけ嫌な思い出がフラッシュバックするも、俺はすぐに耳を傾けた。


「遊馬環多流の姉、遊馬たまきは10年前に山道で衝突事故を起こしてな。本人は今も意識が戻らぬまま病室のベッドに寝ておる」


 玄水が何を言いたいのか。その口を続ける前に、俺は過去の記憶から段々と事の繋がりを察し始めた。


「そして、その事故の相手側の被害者は一人を残して全員死亡したそうじゃ」

「まさか……」


 玄水はコクリと重く頷いた。


「──その事故で唯一生き残った子が、葵玲奈じゃ」


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