それは将棋を覚えてまだ数年、19歳になったアリスターが生まれて初めてのWTDT杯に参戦し、敗北した翌日のことだった。
【将棋界に激震!! 史上最年少のプロ棋士の誕生なるか?】
一面にそんな内容が書かれた新聞紙を手に取ったアリスターは、その詳細を見ることもなくクシャクシャに握り潰してゴミ箱へと捨てる。
それは、気を紛らわすために詰将棋を解こうと手に取ったはずの新聞紙だった。
アリスターはイラついた様子で椅子から立ち上がるが、目の前の壁に貼ってある小さな張り紙を見てさらに気分が悪くなった。
【日本チーム優勝!! 凱旋道場若手の精鋭陣による──】
続く文章を脳内で翻訳する気にもなれず、アリスターは舌打ちをしながらその場を後にする。
──最年少だの、若手だの、どこも数字が小さいことに拘っている。
さきほどの新聞紙に載っていた少年は4歳から将棋を始めていた。それから月日が経ち14歳、プロ棋士を目指すにはあまりに早い年代と世間では騒がれているが、その歴は10年にも及んでいる。
今回のWTDT杯の相手も同じくらいの年数だった。10年から15年、大体2桁前後の時間を将棋に費やしている。
まだ将棋歴が4年ほどのアリスターにとって、その数字はあまりにも大きかった。
「おい、帰るぞアリスター」
「……ああ」
当時指揮役を務めていた『銀譱委員会』海外支部役員の男は、がっかりした表情でアリスターを先導する。
男はため息をつきながらもアリスターに声をかけた。
「お前はまだ将棋を覚えて数年だ。これから時間をかけて強くなればいい」
「……」
この時アリスターは、その言葉に口を開かなかった。
本当はふざけるなと反論したかった。
だが、敗者に弁明の余地はない。
「今回は運が悪かっただけだ。まさか相手があの3人だとはな。つい先日まで全国バラバラに散っていたのをかき集めよってからに……直近の大会をいくつも控えているのを承知の上で引っ張り上げてくるとは、本当にあの女は能率しか考えていない」
ぐちぐちと呟き始めた男に、アリスターは途中から話を聞かずにポケットに入っていた愛用のガムを口に放り込む。
どんな競技においても、個々の実力は鍛えた時間に比例する。
二十歳前後でピークを迎えるほどの実力を携えていなければ、この世界で頂点に挑む資格すら与えられない。
もっと早くやっていれば、もっと早く覚えていれば。……そんな後悔はすること自体が無意味である。何故なら誰もそのことを教えてはくれなかったから、知った時には手遅れだったから。
瞬きの中で過ぎていく人生に、一体どれだけの時間を浪費しなければならないのか。
たった数回の思考回数、たった数秒の思考時間。勝敗を決する間に決まる刹那の間合いに、どれほどの努力を無駄にしなければならないのか。
15歳で将棋を覚えたアリスターは、その時点でプロになれない事実を突きつけられた。
あまりにも手遅れ。4歳や5歳で将棋を始め、その中から天才的な才能を持った者だけが選ばれる世界に、その年齢はあまりにも手遅れだった。
しかし、アリスターはそんな程度では折れなかった。
金のために役員という座に着き傀儡となっていく父を見捨て、日本で活躍するプロ棋士の書籍を日々読み進め、疾風よりも早く成長する。
そして、持ち前の知略を活かした独自の指し回しを身に着け、あっという間に海外支部の頂点に君臨した。
この男を前にして費やした時間など関係ない。たかだが数年、されどその数年で、これまで十数年と努力した者達を次々と負かしていく。
これほどの快感は無かった。
「おいアリスター、お前まだそんな暗い顔してるのか?」
「……」
敗戦後の帰り道、空港に到着するまで一言も発さなかったアリスターに指揮役の男は締まりのない表情で告げる。
「安心しろ。今回は相手が悪かっただけだ、お前の実力なら次回のWTDT杯で優勝は間違いないだろう。それに、わざわざ奨励会など経ずとも編入試験で合格すればいい。いずれにしろお前がプロ棋士になる道は確約されているようなものだ」
それは、アリスターがこのまま同じようなスピードで比例するように成長していければの話である。
……だが、アリスターは理解していた。現実はそんなに甘くないことを。
無償で得られる天賦の才などあるはずもなく、それを享受し続ける時間が無限にあるわけでもない。
アリスターの成長は止まっていた。──どころではなく、少しずつ落ちていた。
それは物事を覚える量などといった努力の限界値から来るものではない。単純な脳の劣化、年齢からくるピークである。
まだ20歳すら迎えていないその体でピークを語るなど
そう、単純にな話である。単純に、アリスターが成長しようとするために詰め込んでいく膨大な知識や知恵に、アリスター自身の体がついていけなくなっていた。
あと1年早く将棋を覚えていたら、プロ棋士への道へ届いていたかもしれない
あと2年早く将棋を覚えていたら、きっと編入試験で合格できていただろう。
あと3年早く将棋を覚えていたら、今日のWTDT杯で負けることはなかった。
果てしない速度で成長する20年というアリスターの人生の枠の中で、将棋はたったの4年しか入り込めなかった。
この先は凡夫である。覚えた知識は抜け落ちていき、苦痛なく読む思考力は錆びついていき、勝手に見えていた最善手は掠れていく。
若人のアドバンテージを失い始めた瞬間である。
──アリスターは許せなかった。
自分よりも努力に時間をかけることができた、環境に恵まれた者達を。
※
──ほら見ろと、開き直った声が木霊した。
影を落としたアリスターの笑みが磨かれた駒にのみ反射する。
WTDT杯の最終盤、疑似頓死を咎められたアリスターは勝敗を悟って考えることを諦めていた。
残り60秒。あれだけ短く感じていた秒読みが、思考を放棄する事で異様に長く感じてしまう。
「渡辺真才」
アリスターは項垂れるように力なく猫背になると、真才に問いかけた。
「……オレの努力は、無駄だったか?」
その疑問の裏に隠されたアリスターの本音は、どうしてこの状況を実現できたのかという問いも含まれていた。
あれだけの大勝負、博打どころの騒ぎではない。目の前の男は最初から最後までずっと確実性のない戦いをしていたのだ。
最初の疑似頓死をカインが見破っていたら? 青薔薇赤利が悟らせていたら? 後続の天竜一輝がトラウマに呑み込まれて戦意を喪失していたら? アリスターが途中で考えを変えて手番の操作を企んでいなかったら?
もし1つでも欠けていたら、こうはなっていなかったはずである。
アリスターの問いかけから数秒後。盤上を見つめたままの真才は、アリスターと目を合わせることなくその問いに答えた。
「……もし、俺が負けていたら。──そこで俺は終わるのか?」
逆に質問を返してきた真才に、アリスターは硬直する。
……終わる。少なくとも、アリスターは終わると思っていた。WTDT杯で二度目の敗北、それは今の自分がこの先の境地に立てないことを証明してしまっているから。
渡辺真才だってそうだ。これだけの大立ち回り、失敗したらタダでは済まない。多くの批判と多くの失望を受け、周りからも信頼されなくなる。
何より、自分自身に絶望してしまう。
「……いいよ、もう。答えを教えてあげる」
真才の言葉に、アリスターは勢いよく顔を上げた。
目の前の男は決して心理を語るような人間ではない。常に自分の考えを内側に秘め、他者に真意を見透かされないよう隠し続けるタイプである。
事実、真才はそれを今まで誰にも話したことはなかった。
「俺はね、負けてもいいと思ってる」
「……!?」
それは、紛い物の主人公が出すような結論。理想を追い続ける夢想家が告げるような言葉である。
そんな極論が真才の口からあっさりと出たことに、アリスターは一瞬信じられなかった。
「……負けても、また1からやり直せばいいと?」
真才は首を縦に振る。
「現実はそんな甘くねぇ……!」
「そうだね」
静かに切れるアリスターに、それを上回る気迫で真才が言い返した。
「土台が崩れて、何もかも失敗して、考え方の根底すら否定されて、自分の非才さに打ちひしがれて、どうにもならないと嘆いて……それでも、もう一度最初から頑張ればいいだなんて…………」
その後に続く言葉を真才は口にするまでもなく、静かに溜め息を吐いて一蹴した。
アリスターの額から冷や汗が出る。
「……だから、ずっと時間が掛かった」
それは、一種の狂気である。
真才の考えは何かを超越して生まれ出たものではない。ただ考えついた策を実行するという、シンプルな行為に他ならない。
だから、失敗することも想定している。
成功と失敗は常に同じ比率ではない。妥協した結果も成功と捉えることで、人は失敗という二文字を出来る限り遠ざけている。
もしも真才が完璧にこなせる人間であったのなら、自分から全てを開示し、宣言し、堂々とした立ち振る舞いでありとあらゆる物事を解決していただろう。
真才にはそれができないから、自信をもって口を開くことに抵抗がある。どこまでも奥手で内気で、行動を起こす前から格好良くはなれない。
それでも賽を振るのは、最も重要な要素をそこに置いていないからである。
「失敗することが、怖くねぇのか……?」
「怖い。たった一度の失敗で誰からも期待されなくなって、夢が砕かれる道に繋がる」
ゲームと違って、現実はやり直すということが簡単には行えない。
かつては居たはずの仲間も失って、身近な友達も失って、約束を結んだ相手すら失って、小さな電子の海でだけ活躍する人生へと落ちていった。
特に父の死は、もう取り返せない失敗の最たる例だ。
たった一度の失敗が柔い人生の終わりへと繋がっている。だから人は複数の選択肢を常に残し、妥協案を受け入れ、リスクを軽減しながら着実に前へと進んでいく。
「……でも、それだけだ」
もし、失敗に終わっていたら、この対局で負けていたら。
──その問答は、真才の中でもう何年も前に決着がついている。
成功、失敗、その二択はさして重要な結果ではない。勝ちに行くことは、勝たなければいけないことではないのだから。
重要なのは、失敗した先にある『
落ちていくのが自分なのであれば、這い上がっていくのも自分である。ならばそこに立ちはだかってくるのは、決して自分を倒した相手ではなく、自分を立ち上がらせまいと絶望を押し付けてくる"自分自身"である。
だから真才は、アリスターの問いに既に答えている。心の底にある言葉を口に出している。
──"自分"に負けないと思っている、と。
「何もかもが失敗して、先行く道が無くなって、この場でアンタに負けたとしても、俺の人生は続いていく」
それは"無常"に、という文言が前についている。
絶望しようが大成しようが、時は勝手に過ぎ、環境も変化していく。
疑似頓死に失敗し、仲間を危険にさらし、自分のせいで凄惨な内容となり、環多流の意志は汲めず、世間から罵詈雑言の批判を浴び続け、周りから馬鹿にされるような嘲笑と失望の眼差しを向けられたとして。
──それで、ここまで積み上げてきた自分の努力の何を失うというのか?
お前には才能がないから諦めろと、 お前には時間が無いから諦めろと、そんな正論をかざして心を折にくる自分に放った一言は至極単純なもの。
将棋が好きだからと、ただそれだけのものだった。
「……スケールをもっと大きくして考えろ、これは人生を懸けてやるものだぞ……」
「当然、人生を懸けているつもりだけど」
「蛮勇が過ぎるっていってんだ、その考え方はいつか身を滅ぼすぞ……!」
「はははっ、何を今さら。──
成功を前提に置いているわけでもなければ、失敗をリカバリーする策があるわけでもない。
だがそれは、すべて失った後で問われるものである。
絶望が立ちはだかった時に、再起はもう無理だと諦める自分に、ため息ひとつで『もう一度頑張ろう』と口に出して立ち直れるかが、本当の勝ち負けの場面である。
それができるのなら、これまで努力してきた時間は無駄にならない。真才の13年間の努力は無駄にはならない。
──それは、アリスターも同じである。
この敗北を得て、その先に立ちふさがる自分に立ち向かえるのか。その結果こそが、アリスターのこれまでの努力を無駄とするか否かの解答に繋がるのではないだろうか。
「……………………」
沈黙するアリスターは、その長い沈黙の果てに、真才が伝えたかった内容を理解した。
(……そうか、どうりで……)
アリスターは、その既視感の正体にようやく気付く。
──同じだった。
その眼、その表情、そこから漂う異質な雰囲気。それはテレビの前で一部の者だけが勘付けた英雄、玖水棋士竜人が放っていた見えない
カリスマなのか、魅力なのか、それとも畏怖や敬意の類なのか。
分からない、分からないが、それはアリスターが将棋を始めたきっかけでもあった。
盤上に芸術を描き、奇跡を演出する。勝敗の先に意味を見出す『将棋の解答者』にこれ以上ないほどの魅力を感じた。
そして、それを実際に体感したのが以前のWTDT杯、香坂賢人らとの一戦である。
彼らもまた、同じようなモノを持っていた。
(もう戦うことはないと思っていたが、まさかこんな数奇な巡り合わせで同じ光景を見ることになるとはな……。やはり、オレはあれから成長してなかったか)
今さらすぎる遅い気付きだと、アリスターは後悔する。
残り数秒。手順に指したアリスターの手は無情にもノータイムで返され、それを見たスタッフたちは事の顛末を察してこの後の表彰式の準備へと取り掛かり始める。
決着はついた。これ以上指すことに意味はないと、多くの者が心の中でそう呟く。
スッ──と、伸ばした手が次の秒数を稼ぎにいった。
「……あの時は答えられなかったが、言い忘れていたことがひとつある」
それは、『最期』にして『最初』のアリスターからの吐露。
もし、もっと早くに気づけていたら。もし、もっと早くに知っていたら。この惨めな結果は少しくらい変わっていたかもしれない。
同じ舞台に立てなかった。それだけが心残りで、それだけを後悔している。
今さら始めることなんてできはしない。既に勝負はついているのだから。
ただ、アリスターはどうしても戦いたかった。
万夫不当、掴めているつもりで届いてすらいなかった目の前の男に、ほんのひとかけらでもいいから正しく勝負をしたかった。
叶わない願いに焦がれることがこんなにも悔しいものだとは思わず、アリスターは初めて"そんな表情"をしてしまう。
それでも読みに使ったこの数分、投了が目の前まで来た残り1手、アリスターはどうしても真才に伝えたかった。
「……!?」
最後に伸ばしたその手は、駒台に触れて──何かを掴んだ。
その時真才が
それは、アリスターから放たれた最期の一手である。
「渡辺真才、お前との対局。──本当は楽しかったぜ」
アリスターは、真才に『王手』を掛けた。