WTDT杯当日、環多流は部屋の中で重い瞼を開けた。
あれだけ重くのしかかっていた感情も、1日寝ることで大分マシにはなっていた。
……それでも、喉奥に突っかかった骨は未だ取れない。
「もしかしたらって、思ったんだけどな……。そんな都合の良い話、今の俺にあるわけないよな……はぁ……」
どれだけ優しい男でも、あれだけ非道に傷つけてしまえば頼みなんて聞いてくれるはずもない。むしろまともに話してくれているだけ温情のようなもの。
これは報いである。金のために好き勝手やって、多くの者の恨みを買って、受けるべき制裁を受けているだけ。
そんな状況であまつさえ仇を打ってくれなどと、そんな一方的な願望はあまりにも他力本願過ぎる。
将棋を道具として使い続けてきた末に、将棋で負けたことをトラウマとして抱えるだなんてあまりにも滑稽。
「……バカ過ぎて言葉もでねぇ。惨めすぎるだろ、今の俺」
環多流は乾いた目元をこすりもせずにベッドから起き上がると、いつの間にか来ていたメールの通知を開く。
銀譱委員会からの仕事の依頼だろうか。それとも銀譱杯で無様な姿を晒してしまったことに対する罰則だろうか。
この時の環多流は、とにかくネガティブな考えしか浮かばなくなっていた。
しかし、メールを開いた環多流は目を見開く。
「……!」
それは渡辺真才からのものだった。
『もし、10年前の事故で相手側が生きていると知ったらどうする?』
突然の真才からの内容に顔が強張る。
環多流は銀譱委員会との一件のために、真才と連絡先を交換している。しかし、環多流はあくまでジョーカーとしての立ち位置にいるため、基本的に真才とメールのやりとりをすることはない。
そんな薄皮一枚の関係性の中で、真才から何かを尋ねてきたのは初めてだった。
質問の意図は分からなかったが、環多流は特に悩むこともなくすぐに返信をした。
『それが本当なら、今すぐにでも面会したい』
環多流がそう一言送ると、すぐに返信が来た。
『会ってどうする?』
『謝る』
『なぜ?』
本当に真意の分からない質問に、環多流は疑問を抱きながらも本心を綴った。
今さらこの男に嘘をついても意味がない。
『あの事故は濃霧の細い山道で起きた衝突事故だった。誰も悪くない、全員が目を覚ますことのない地獄みたいな事故だ。もしあの事故で相手の誰かが生きてるってんなら、それはきっと家族もみんな失ったただの可哀想な被害者のはずだ』
すぐに既読が付くが、環多流は構わずに続けた。
『俺はそんな相手を叱りつけることも、ましてや恨む権利すらない。できることがあるとすれば、そのことに気づけず今までのうのうと生きてきた自分に猛省するだけだ。だからその話が本当なら、あの事故で生きている人がいるってんなら、俺は会って謝りたい。いや、言葉だけでも交わしたい。……もちろん、その話が本当ならだけどな』
どうせそんなことはあり得ないと分かっていながらも、もしかしたらの妄想で環多流は語る。
目を覚まさない姉をずっと見てきた環多流にとって、そのいるはずもない同じ境遇の被害者は憎むべき対象からは程遠いものだった。
環多流の送信からしばらく、真才からは何も返ってこなかった。
しかし、10分ほど経った後に返信が来る。
『今日来い』
ただ一言、命令口調で告げられたその言葉に環多流は困惑を示す。
「いや来いって……」
どこに? という質問に意味はない。来いというのは
『行く意味あるのかよ?』
環多流はすぐにそう返すも、それ以上真才から返信が来ることは無かった。
「……あー! くっそ、なんだよ。勝手なこと言いやがって……」
環多流は顔をぐしゃぐしゃと手で拭いながら愚痴をこぼす。
今回のWTDT杯はどうせアリスターの独壇場になる。天竜一輝や青薔薇赤利はもちろんのこと、下手したら真才すら手も足も出なくて、自滅帝の名前が粉々に砕ける可能性すらある。
そんな光景を見てしまったら、今の環多流は本当に立ち直れない。
だから、WTDT杯には行きたくなかった。
あの時、仮に真才から一言でも言質を取ることができていたなら、環多流も覚悟を決めて向かっていた。
でも、その願いは聞き届けられなかった。真才は自分のやり方で戦うと告げ、その場を去っていったのだから。
環多流の願いは叶わない。そもそもとして、真才に渡るの願いを叶える義理はなく、今回のWTDT杯を勝つ義務もない。
真才の主戦場はあくまで黄龍戦。そのことを知っている環多流は、このWTDT杯を想像だにしない方法で利用し、そのまま全国大会へと繋げていくのだろうと真才の策をあらかた見抜いていた。
そんな戦場を観戦しにいって、一体何が見れるというのか。
「はぁ……行きたくねぇ」
いつの間に小心者になってしまった環多流は、何とも言えない顔付きのまま中央地区へと向かっていくのだった。
※
──環多流はその時、目を見開いた。
割れんばかりの拍手の中始まった小さき世界大会。実質的なアマチュアの頂上決戦ともいえる大舞台にて、外野の期待は真才以外の全てに向けられていた。
それは環多流も例外ではなく、多くの者達が作り出す雰囲気という名の扇動にただただ不安を募らせていくばかりだった。
期待はしていなかった。緩やかに下降していく消化試合になるのだと、心のどこかで悟っていた。
──今、最終決戦は二人のカードをその場に立たせた。
「……え?」
その局面は今まさに命運の分かれ道。あと数手で勝敗が決する。霧が晴れ閃光が周りを包んでいる瞬間、視界が晴れる刹那の絵画。
睨んだような顔色で対局場に入っていくアリスター。音は聞こえずとも、映像はスクリーンに映し出されている。
ざわめく観戦席。慄く観戦者。この大会が、WTDT杯が始まったころは気にも留めていなかった冴えない男。活躍するはずもないと思われていた男。
──そんな男が、渡辺真才が対局場へと入場した。
「ね、ねぇ。もしかしてあの渡辺って男、強いんじゃない……?」
「なんかSNSで凄い名前上がってるよね。自滅帝……? とかなんとか」
一般席に座る『観る将』の女子たちが口ずさむ。
「なぁ、さっき後ろで聞こえたんだけどさ。あの渡辺って男、自滅帝らしい」
「マジかよ……!?」
同じく一般席に座る級位者の男子たちが囁くように言葉を交わす。
そんな彼らとは打って変わって向かい側の席、県内の選手達が座っている場所では一般席ほどのざわめきは起こっておらず、代わりに口をあけっぱなしで驚倒する。
「なんで……」
環多流の声は掠れていた。驚きと、期待と。……いや、もはや何の感情が心の中で渦巻いているのか自覚することすらできないほどの熱気を肌に感じ──。
「ワタルさん……?」
隣に座る西田の声も届かず、環多流は盤上の世界へ
ただその舞台を用意してくれただけでも、環多流はきっと驚嘆していた。叶うはずもない願いを聞き届けてくれただけでも、その心臓は強く高鳴っていたことだろう。
「────っ。……──、……──っ」
環多流は静かに嗚咽し、その行き場のない感情を顔を歪ませることだけで何とか耐え抜き、それでも溢れてくる何かは涙となって零れ落ちた。
『あらゆる駒を
いつの日か、真才に言われた言葉を環多流は思い出す。
トドメに使われた一本の釘は、その心へと確かに響いていた。
乱雑に放置せず、無駄を余すことなく使い続け、全ての駒に意味を持たせる。だが言うは易し、環多流は迎合しながらもその変化についていくことはできなかった。
だから、環多流は六枚落ちという必勝の条件でアリスターに敗北を喫したのだ。
変化とは強くなることではない、変わることである。その道中で起きる大幅な棋力の減少は必然の弊害と言ってもいい。それを自覚できなければ、自分が以前の自分よりも弱くなってしまったと、相手が自分よりも強い存在であるのだと認識が歪んでしまう。
──なら、環多流の本当の願いは真才がアリスターを打ち負かすことなのか? ただ勝つだけで、投了させるだけで、その願いは叶うのか?
真才が環多流に見せるべき光景は、ただの環多流の肩代わりではない。環多流が同じ考えの元たどり着くべき答えを、同じ思考の元から生み出す可能性を、現実の手として見せてあげることである。
これは自分と同じ13年間の努力を積み重ねた男が、自分が勝てなかった難敵を打ち倒すことで解決する話などではない。
自分が使う戦い方を、自分と同じ状況で再現し、同じやり方で勝つシナリオである。全ての駒を使い、全ての駒を輝かせ、耀龍の名のもと振り下ろす鉄槌である。
「自滅帝……お前……最初、から……っ」
ただ勝つだけで何を証明できるというのか。他者から託された想いを振るうだけで何を達成した気になっているのか。
勝負に負けるようなら三流だが、ただ相手に勝つだけなら二流でしかない。それが真才の信念である。
その先を描くのならば、一流に届かせる手法を取るのならば、その男は必ずふざけた答えを持ってくる。
そう、真才は環多流の想いを汲んだのではない。ただ、環多流のやり方が正しかったと肯定し、それを証明しただけである。
終始200手を超える長手数の大勝負。タッグ戦でこんなにも長い戦いになると誰が予想しただろうか。
「そりゃあ、長くなるだろう……だって、ぜんぶ、使ってんだから……っ」
──それは耀龍。耀龍の輝きである。
真才は、チーム『無敗』は、ここに至るまでの戦いで盤上にある全ての駒を使っていた。余すことなく全ての駒を活躍させ、その全てに意味を見出す『耀龍』を体現していた。
耀龍の戦い方はこうするものだとでも言わんばかりに、環多流に『本当の勝ち方』を魅せ続けていた。
元の頼んだ内容と全然違う。こんな、世界を巻き込んだ『授業』を頼んだ覚えはない。
──真才が環多流の懇願に返事をしなかったのは、そういうことである。
「……やっぱり、不正してんだろ、あんなのっ……」
溢れ出る涙を拭きもせず、顔を俯かせた環多流は嬉しそうにそう呟くのだった。
※
WTDT杯もいよいよ大詰め、真才とアリスター、ネット将棋トップランカーと海外王者のプライドを賭けた最後の戦いが始まる。
二人が入場したことで対局室の空気は異様に張り詰めていた。
……日本中の視線が、この二人の対局を見つめている。
WTDT杯が始まった最初の頃とはまるで緊迫感が違う。初めは腕を組み、余裕の笑みを浮かべていたアリスターも、今やその姿勢は低く睨むような瞳で目の前の男を見上げている。
対する真才は驕りも慢心もしない普遍的な表情で席に着き、向かう姿勢は初めの頃からほとんど変わっていない。
「……何者なんだよ、テメェは」
これまで圧倒的な実力差を見せつけて連勝してきたアリスターにとって、この対局もまた"消化試合"のひとつに過ぎない……はずだった。
自分を上回るアマチュアはこの世にいない。いるとすればそう、あの時自分を下した3人の英雄だけである。
彼らはもういない。先に進むべきステージへ足を進めていったのだから。
なのに、目の前の男から感じる気迫はアリスターの既視感を刺激する。
「俺は何者でもない」
「そんなわけあるか……!」
「勝手に格を上げないでくれ、勝手に格を下げておいて」
「っ……!」
容易く本心に風穴を開けられ、アリスターは短時間で何度も動揺の表情を見せる。
これほどの看破を味わったことはない。
「本気で、オレに勝てると思ってるのか」
「いや、自分に負けないと思っている」
言っている意味が分からない。そう思うアリスターだが、駒に触れる利き手の拳を握りしめ気合を入れ直す。
「……いいだろう。決着をつけてやる。どれだけ盤面を想定していようが、どれだけ事の先を読み進めようが、結局は盤上での読み合いが全てだ」
そう、目の前の男がどれほどの技量を持っていようと、結局のところは棋力勝負である。
形勢は崖際、死のスレスレ。アリスターが見下ろした先にある盤面に勝機はない。現状詰めろが掛かっていないのが唯一の救いだが、それでも大差なのは確実である。
だが、アリスターはそんな状況でも覆せる"天賦の才"を持っていた。
(勝ち目がなけりゃあ作ればいい。オレが勝ちに行くんじゃない、テメェが勝手に自滅するんだよ──)
──ピッ。
対局時計のボタンを押して再開するラストバトル。そこから55秒もの思考時間を使って着手する真才の一手を見て、アリスターは全力全開で脳をフル回転させる。
真才の指した手は、戦場から空ぶるような不確実性の高い一手だった。
(この大会のルールでは交代してから対局を再開するまである程度のロスタイムが生じる。当然オレ達はそれを有効活用するのだから、再開直後に指した一手は最善手になりやすい。……なのにコイツはわざと最善手を外している)
アリスターは真才の手が最善手でないことを即座に見抜いた。
(コイツの狙いはオレと同じだ。最善手を指せば手の流れが分かりやすくなり、相手から仕掛ける猶予を与えてしまう。だがコイツは策士だ、あえて最善手を指さないことで相手に攻守の選択を選ばせない。それで自分の舞台を常に形成し他者を操っている。だからこれだけ差があっても油断しないってワケだ)
真才の思考、その細部まで的確に言い当てるアリスターは、それすら計算に入れて勝機を見出す。
(……だが、それはオレに対する恐怖の表れだ。本当にオレの『
残り20秒、アリスターは当然如く盤面の内容も読み切る。
(△7六金に▲6七銀打が正着か。いや、△6九角があるな。▲5七玉△8七龍▲3五桂△7八角成に▲5八銀上は愚策。△6六金▲同玉△7七龍▲5五玉△7五龍▲6五金△7七馬▲6六桂△5四歩▲4五玉△2七角▲3六桂△6五龍▲同銀△5五金で詰みか)
僅かな秒読みで即座に自身の負け筋を読み切り、素早く思考を切り替えて分岐するすべてのパターンを短い時間の中で読み切っていく。
その間にも当然真才は考えており、アリスターの考える時間を利用して膨大な手数を読み始めている。
そんな真才の状態すら、アリスターは見落とさずに策の枠組みに入れていく。
(気丈に振舞ってはいるが、体力がもう既に限界を迎えているのがバレバレだ。だが、お前はそれでも戦う意思を見せ続ける。そうやって、オレとの完全決着をつけるつもりで全力の戦いを行う"フリ"をするんだろう?)
何かを察知したアリスターは残り1秒ギリギリで手を返し、再び真才の手番になる。
そして真才は先程と同じ55秒考えた後に、また最善手から遠い手を指した。
(……まぁ、当然気づいてるよな。いや、お前ほどの人間が気づかないわけがねぇ)
それは、『指揮役とのコンタクト』のことである。
この大会のルール上、代表選手が交代を指示する指揮役とのコンタクトを取ることは禁止されている。その対策として指揮役は選手の映像を見ることができず、リアルタイムで反映されるデジタル盤面の映像のみが映し出されている。
これによりアイコンタクトやハンドサインなど、間接的に合図を伝えることも不可能となっている。
しかし、アリスターにとってそのルールは無意味に等しいものだった。
(厳重に規制され、盤面しか見ることのできない指揮役に交代の合図を伝えるには『指し手の時間』を調整すればいい。例えば『秒読み残り7秒ジャストで着手』したら交代の合図──とかな。数字は何でもいい。指揮役が見ているのは最新式のデジタル画面だ。対局者の指し手はリアルタイムで反映され、残り何秒で着手したかも正確に映し出される。それを逆手に取れば、ある程度のコンタクトは可能になるわけだ)
無論、それは自身の持ち時間が無くなり秒読みに陥った時にのみ使える限定的な作戦である。
しかし、交代の合図は別に時間で示さずとも良い。例えば指し手の癖や違和感のある消費時間などを事前に決め、その差異を指揮役が見抜くことで交代を宣言すれば、事実上選手達とのコンタクトが取れた交代宣言となる。
(さっきコイツは二度も55秒で手を指した。この最終盤、それまで全く意図していなかったことで作られる"信頼"を逆手に取った手法。──鬼手だな。他の奴が相手なら悉く罠にハマって終始この男の手のひらの上だ。……だが、オレは違う)
対局再開してまだ数分、今にも倒れそうなほどに疲労困憊の表情を浮かべる真才にアリスターが嗤う。
それが"演技"ではないことは、これまで多くの戦場を見てきたアリスター自身の眼が保証している。
──真才の表情は、今にも倒れそうなほどだった。
一体どれだけの膨大な思考力を費やせば、こんな短時間でそれほどの汗をかけるのか。さすがのアリスターもその点においては驚きを隠せない。
しかし、それでも地力の差は別個である。
(ここまでの雰囲気作り、ここまでの完璧なシナリオ。オレを下すために創り上げた1から100までのストーリーにおいて、お前はそれすら『利用』する)
誰もが深層心理で抱いてしまう理想的な結末。WTDT杯という大きな祭り、そういう終わり方が綺麗だと、そう感じてしまう背景すら利用して──。
(渡辺真才、お前は最短手数で『交代』する気だろ──!)
さきほどの着手した秒数。55秒、これは残り時間に当てはめると"5秒"である。
交代を宣言する最短手数は"5手"。本人は疲労困憊でこれ以上体力が持たない。そこから導き出される答えはひとつ。
(後続の天竜一輝に繋げる"最高の状況"を作るため、初めから全力疾走して残った体力を全て費やす。短時間に全力を費やした読みならばオレの地力すら越えられると踏み、秒読みの限界ギリギリかつ沢谷に交代を示唆できる55秒を選択した……!)
恐るべき知略、恐るべき胆力。
真才はアリスターとの勝負をつける。──という状況すら利用して、まだ体力が残されている天竜一輝へのバトンを託す。
(最後の最後までオレを出し抜く気でコイツ──本当にアマチュア詐欺もいいところだなぁッ!)
限界を超えてフル回転させる脳に、興奮を抑えぬままアリスターが駒を打ち付ける。
異常な血流の上昇によって片方の鼻から少量の血が流れ出るが、目の前の男がそれ以上の思考を巡らせている状況下で妥協など無い。
アリスターは"今"を楽しんでいた。この圧倒的不利な状況から逆転できる"今"を。
(読めてんだよ、テメェの次の手はよ──ッ!)
アリスターが心の中で叫んだ瞬間、真才は王様を掴んで持ち上げた。それを見てアリスターの口角が上がる。
──自滅流。
序盤からの作戦とは違い、終盤で繰り出せばそれを見ている第三者に研究の余地はない。そこから先はあくまで棋力勝負なのだから。
しかし、自滅流は渡辺真才が持つ特異的な──。
(ただの個人が"極限"まで"研究"し尽くした『究極たる戦法』。大げさでも何でもなく、ひとつの極めた戦法ならばオレにも通用すると思っていやがるな──!)
真才が最後にその手を指すことまで、アリスターは読みきっていた。
ここでちょうど、互いの指し手は既に10手目に突入している。
(既に5手を指したな? ここでオレが指せば計10手だ。自滅流を指した今、誰もがお前の戦いに注目するはずだ。だが、オレが手を指した瞬間、お前は『交代』の宣言によって後ろに下がる。最後に決めるのは
額に浮かぶ青筋すら嬉々に変わる勢いで、アリスターは後続の天竜に刺さる楔を打ち付ける。
(同じチームである青薔薇赤利が指せて天竜一輝が指せないわけがねぇ。お前は自分という最も効果を発揮できる存在を囮にして、その戦法を仲間に託したんだ。誰よりも極めた戦法を、自滅流をな──!)
11手目、ついに真才の手番となった。……ここから先は交代可能な時間である。
(さぁ、交代しろよ沢谷由香里。──既に楔は打ち付けた。これを解けたらオレは負けるが、今の天竜一輝では絶対に不可能だ。賭けてやってもいい。何故ならアイツはこの戦いで覚醒した"弊害"で最善に固執する指し回しに変わっちまってるからなぁ! ──盤上の外に目を向けてねぇ、灯台下暗しってヤツだ!)
席に座って運動しているわけでもないのに、既に息切れを起こしている真才を見下ろしてアリスターが勝ちを確信する。
この絶望的な状況からの逆転。誰もが日本の勝利を確信した状況からの転落。その瞬間まで読み終えたアリスターの下克上である。
(残念だったなぁ? ──オレにその
再三告げた言葉の反芻。アリスターに、その"
──静かな時が過ぎる。
カチ、カチ、と対局場の裏にある時計の音が聞こえてくるほどの静寂。それは沈黙にも等しく、二人の熱気だけが残り続け、周りは息を呑むことすら許されない時間。
──静かな時が過ぎる。
既に30秒が経過するが、交代を宣言するブザー音はどこからも聞こえてこない。
(……? ──おいまて、なんで交代のブザーが鳴らない……!?)
アリスターの背が浮き、上半身が前に押し出される。
(ウソだろ……?)
真才はそれまでずっと盤上を見つめており、疲労よって生み出された雫が膝に落ちても気にせず読みを続けている。
(コイツ──ッ!?)
それが正気の沙汰でないことは、誰よりもアリスターが分かっていた。
限界を超えた体力、ピークを過ぎれば切れていく集中力。気合や感情だけで乗り越えられるほど盤上の世界は甘くない。それを誰よりもアリスターは理解していた。
だからこそ、分かる。そして見抜ける。
「その『
思わず口にしたその言葉に真才は顔を上げると、その状況からでは絶対にありえない表情をする。
真才は優しい顔で笑った。微笑むように、今感じているものとは真逆の行為であることを自覚していながら。
「──戦法?」
アリスターの見開いた目が、目の前の男に天敵の面影を重ねてしまった。
『──戦法?』
そう、あれは同じ顔、同じセリフだった。圧倒的なまでの実力で、かすり傷さえ負わせることができずに、完膚なきまでにしてやられた。そんな男が放ったセリフと被ってしまった。
アリスターは一度も読み間違えていない。この対局が始まってから一度も。真才に奇想天外な策で翻弄されることはあっても、読みそのものを間違えたことはなかった。
しかし、そんなアリスターでも唯一間違っていたことがある。
真才はこの対局で、否──
──自滅流を、"戦法"と口にしていない。
「──!?」
アリスターは思い出す。あの短い瞬間で告げられた、短い日本語。
今でこそ理解できる、今だからこそ理解してしまうその言葉の意味。
──あの時、香坂賢人が告げた答えを。
『
投了後、対局場から去っていく振り向きざまに賢人は告げていた。
──戦法とは戦うための武器であり、技術であり、方法である。
局所的な観点から見れば、自滅流は真才が扱う武器のように思える。しかし、その本質は全く違う。
真才にとって、自滅流とは"考え方"である。どうやって攻め、どうやって守り、どうやって戦っていくのか、それ自体を包含する大枠である。
──だからこそ、戦法と違って万人が扱うことができない。
『──
「──
その言葉は重なってアリスターの脳裏に植え付ける。
過去の英雄とこれからの英雄が紡ぐ言葉が、色ズレの中で木霊する。
そう、それは
「──『"
交代のブザーが鳴ることはなく、真才は11手目の自滅流を盤上に繰り出す。
アリスターは瞠目する。それが戦法であるからこそ、アリスターは真才が後続の天竜にバトンを託せるのだと思っていた。
だが、戦術は違う。戦術とは勝負全体をどう勝ち切るのか、その策の集合体である。
──ゆえに、交代はしない。
その額から流れる大量の汗は自滅流という"戦術"を酷使した影響であり、膨大な思考力を費やすからこそ出てしまう疲労である。それは『県大会』での青薔薇赤利との対局で浮き彫りになっている。
それでも体力が持つのは、限界を迎えた状態で戦った来崎との『ライ帝聖戦』があったから。疲労した先にある力の開放を、集中力の持続を、その身で確かに経験しているからである。
地力で差が出ているはずなのに形勢が一向に変化しないのは、真才が将棋戦争のトップランカー、早指しの住民だからである。長時間の読み合いで出てしまう差を、短時間の勝負にすることで互角に引きずり込んでいるからである。
──ここに至るまでの
(──ク、クククククハハハッ!!)
切り札は最後に切るからこそ切り札として成立する。真才が見せた最後の切り札にアリスターは心の中で笑った。
(なるほど、それがテメェの切り札か。どこまでも想定を超えてきてやがる。だが、オレはこの
信じられないほどの策。だからこそ、アリスターはそこを突いて勝負を仕掛ける。
すべてを出し切った、今だからこそ見える隙を突いて。
「──受け取れよ」
垂れる鼻血を指でふき取り、アリスターが着手した。
全身全霊を費やし、その果てに新たな偉業を成し遂げる。全てを読み終えたアリスターによる最後の抵抗。
「──!」
──疑似頓死である。
それはまさしく、この大会の序盤で真才が繰り出した『疑似頓死』への明確な意趣返し。自らの死を認め、真才へ勝敗を突きつける、アリスターからの最後の挑戦状。
詰んでいるが、とてつもなく難解。それは人の感性を捻じ曲げるかのような局面への誘惑。
されど、一手でも間違えたら最後──。
(読み切れねぇだろ? 何せ
見下ろす先にある盤面が詰んでいるかどうかすら分からない。アリスターは詰んでいるという雰囲気を醸し出しているが、それ自体がブラフかもしれない。
考えることが一気に増える。読み切る分岐が多すぎる。
しかし、時計の針は着々とその秒数を刻んでいる。
この残り時間では絶対に読み切れない。
これは、ここまで戦ったうえで『渡辺真才』という人物を細部まで理解できたアリスターだからこそ放てる、最後の弾丸である。
評価値9999点、それは幻の点数。詰みを読みきれれば現実のものとなるが、一手でも間違えれば逆転する。
そんな神業とまで評された真才の疑似頓死を、この土壇場の場面で繰り出したアリスターはようやく本当の勝利を確信する。
【『WTDT』ワールド・ザ・ドリーム・タッグ生配信板part18】
名無しの359
:評価値は!?
名無しの360
:『評価値』後手+9999 日本(Team:無敗)・必勝
名無しの361
:>>360 きたあああああああああああああ!!
名無しの362
:>>360 よしよしよしよし!!!
名無しの364
:>>360 頼む自滅帝押し切ってくれ!!
名無しの365
:>>360 詰ませええええええええええええ!!
名無しの366
:9999点でもまだ安心できないでしょ、相手アリスターだよ
名無しの367
:9999点は詰みの判定出してるだけだからな
渡辺真才が間違う可能性は普通にある
名無しの368
:勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て
名無しの369
:マジで勝ってくれ頼む!!
名無しの370
:いけええええええええええええええ!!!
名無しの371
:アリスターのこれこれ最初に自滅帝がやったのと同じ疑似頓死じゃね!?
自滅帝やばいのでは……?
名無しの372
:ほんと読み切ってくれ頼む自滅帝
名無しの373
:27手詰みらしい、自滅帝むりっしょ
名無しの374
:疑似頓死こえええええええええ!!
名無しの375
:ほんとお願い読み切ってくれ、ここ最後の正念場なんだから!
名無しの376
:自滅帝が読み切れるか、アリスターが逆転するか
名無しの377
:勝勢だったのにこんなことしてくるのヤバすぎでしょ……
名無しの378
:アリスターの勝負術怖すぎ
名無しの379
:9999点、自滅帝読み切れるかの大勝負……どうなるんだ
名無しの380
:……そういや、自滅帝ってこれまで詰み見逃したことあったっけ?
『【ヤバい】自滅帝とかいう正体不明のアマ強豪www【十段おめでとう】Part58』
名無しの223
:あ
名無しの224
:あっ
名無しの225
:あ
名無しの226
:あ……
名無しの227
:あ
名無しの228
:あっ
名無しの229
:あっ
名無しの230
:あっ
名無しの231
:あ
名無しの232
:あ……
名無しの233
:あっ……
過去、ネット上で自滅帝の考察がなされた際に、過去の戦歴を参照して自滅帝の様々な特徴が挙げられたことがある。
来崎と激闘を繰り広げた『ライ帝聖戦』において、真才は来崎の詰みを読み切っていたものの、時間切れで敗北となった。
そう、来崎との戦いで負けた要因は"時間"のみである。
アリスターは知らない。目の前の男の特異性を。その傲慢な性格から誰もが知りえる自滅帝の情報を一切得ていなかった。
いや、得ている者すら忘れかけていた。
──曰く、自滅帝は詰みを見逃したことが一度もなかった。
そんな状況下でアリスターは何をした?
……評価値9999点、即詰みの『疑似頓死』である。
「バカな……っ!?」
真才の手が進む、すべて正解で、すべてが最善手。イチミリたりとも外さずにノータイムで指していくその様子に、アリスターが絶句する。
アリスターは、真才のすべてを知ったつもりだった。読みを間違えたことだけはなかったはずだった。
終始。そう、それは終始である。初めから終わりまで、このWTDT杯が始まる前から現在に至るまで。
アリスターは、真才に対する