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第百八十八話 【どこにでもいる高校生】

 本当は、もっと別なやり方があった。


 狙いや目的というのは案外不明瞭で、その通りに事が進むことは少ない。だから、結果的に色々と都合がよくなればそれでもいいと思っていた。


 本当は……そう、本当は誰かの頼みを聞くような性格ではなかった。


 ※


 WTDT杯が開催される前日、俺は同じチームのメンバーである天竜と赤利との作戦会議を終え、WTDT杯を開催する大会の会場へと赴いていた。


「いやでっか……」


 凱旋道場から歩いて10分ほど、同じ中央地区にある大会の会場は西地区のものとは比較にならないほど大きい。


 何百人も入れそうな圧巻の観戦席に、大盤が小さく見えてしまうほどの巨大なステージ。そして上から降りてくる巨大な幕、盤上を映すスクリーン。


 まるで劇でも行わんとする会場の広さに、俺は思わず委縮してしまった。


「明日はこんな広いところで大勢に見られながら指すのか……ヤバい、お腹痛くなってきた」


 目立ちたがりの陰キャにもこの広さは流石に堪える。もし本番で変な手を指そうものなら、この会場全体から罵詈雑言が飛ぶのだろう。いや、もちろんそんなことにはならないと心の底で分かってはいる。分かってはいるが、怖いものは怖い。


「はぁ……明日は慎重に指そ……」


 これがこの時の本心だった。


 もちろん、勝ちにはいく。相手が誰であろうと手は抜かず、全力をもって勝つために指す。その意志自体は変わらない。


 しかし、俺はそんな大志をどんな状況でも抱けるほど大きな男ではない。志は小さく、願望は大きいダメ人間。元からもっと優秀であれば、子供の頃から大成していたに違いない。


 俺はそんな自虐を心の中で吐き捨てながら、背後に感じる視線にゆっくりと振り返る。


「……」

「……」


 俺とその男の目は交わったが、会話が始まることはなかった。


 紺のジャケットに黒い帽子、その男には似合わない真面目な格好に表情だけが噛み合っている。


 その男は──遊馬あすま環多流わたるだった。


「……」

「……なんかいったらどうだ?」


 沈黙する俺に、環多流が口を開いた。


「別に。俺は用がないし、見られていたから振り返っただけ」

「後ろに目ェついてんのかよ……。まぁいい……」


 環多流はそう言いながら目元を隠していた帽子を取る。


 すると、青紫色に腫れ上がった右目が見えた。


「……!」

「気にすんな、自分でやったものだ。イラついてちょっとな」


 それにしては大きな痕だった。


 こんな状態で包帯もまかずに外を出歩いているのが信じられない。仮に帽子をかぶっていなければ、周囲から多くの視線を集めていただろう。


「……それで、今度はこっちから聞くけど、一体何の用?」


 俺は本題に入るように急かす。


 すると、環多流は苦笑しながら吐き捨てた。


「……聞かないんだな」


 しんとした会場の中で、木霊することもない小さな声が耳に伝う。


 それは、今俺に見せている顔の怪我のことだろうか。それとも、そんな風に今にも泣きそうになっている表情のことだろうか。


「聞いてほしければ聞くけど」

「……いや、いい」


 環多流は鼻をすすって滲んだ涙を手で拭きとると、俺の問いに答えるように本題へと入った。


「なぁ、渡辺真才……いや、自滅帝。お前にとっての『将棋』ってなんだ?」

「それはまた随分と抽象的な質問だね。……さぁ? 考えたこともない」

「ふざけずに答えろ」


 環多流の視線がこちらを射抜く。


 別にふざけているつもりはない。今までそんな質問をされてこなかったから、考えたことがないだけだ。


 赤利の『なぜ将棋を指すのか?』という問いには答えた。しかし、その将棋が自分にとってどういう存在なのかは答えていない。


「……」


 俺はしばらく目を瞑ると、将棋それと邂逅した"あの日"から紡がれてきた全てを走馬灯のように駆け巡って思い出す。


 思い出にしては美しくない。つらく、苦しく、それでいて満足もしない。ひたすら味わい続ける飢餓に苛まれ、それは今も終わらずに続いている。


 あぁ、これを言葉にするのは少し恥ずかしいな。


 目を開けると、そこにはずっと答えを待ち続けている環多流がいた。もう十数秒は閉じていた空間だったが、邪魔する声は入ってこなかった。


 俺は環多流の目を見てこう答えた。


「──初恋のろい、かな」


 何気ない一幕から感じてしまったもの。相手と同調しない一方的な感情。それはまさしく、そう呼ぶものではないだろうか。


「……意外な答えだな。てっきり人生だとか、なくてはならないものだとか、そんな風に答えるのかと思っていた」

「その回答でも別に間違ってはいない。きっと何を答えても、当てはまるから」


 抽象的な質問に具体性はない。ただ、今の自分にとって包含する言葉がそれだった。


「そうか。やっぱり、成るべき人間には相応の意思があるんだな」

「……何のこと?」


 どこまでも婉曲な喋り方をする環多流に、俺は眉をひそめた。


 それでも、環多流は続けざまに問う。


「なぁ、自滅帝。俺はバカな奴だと思うか?」

「思う」

「はっ、即答かよ。……まぁそうだろうな。お前にとって俺は仇みたいなもんだ。謂れのない不正の罪を被せ、盤上の外から小突いた挙句、惨めに落とされたバカな奴。それが今の俺だ」


 思い出したくもない記憶を引っ張り上げ、形容しがたいくらいに歪んだ顔はようやくその男の本心を映し出した。


「…………だから、俺は負けたのか?」


 環多流が、俺の顔を見上げる。


「だから勝てなかったのか? だからこんな結果になったのか? ……俺が、俺が、道を誤り続けたから、将棋を道具として使い続けたから。だからあの時、俺は負けるしかなかったのか……?」


 環多流は拳を震わせる。そして、その感情を乗せた声で足を一歩、また一歩と前に進めた。


「……県大会での話なら──」

「うるせぇ!! とぼけるなよ! どうせ分かってんだろ!? 俺がアイツに! アリスターに『六枚ろくまいち』で負けたことをッ!!」


 環多流は声を荒げるように叫んだ。


「先日行われた東地区での『銀譱杯』。俺はそこでアイツに大敗して、なのにアイツ自ら棄権して俺は優勝を与えられた。──そんな結果、納得できるわけがない。誰だってそう思うだろう!? そう思うのは自然なことだろう!?」

「……」

「だから挑んだんだよ! 負けると分かっていても、負ける勝負であったとしても、あんな大敗の仕方は俺のプライドが許せねぇ! 再戦に当たってどんな条件でも飲むから、だからもう一度戦ってくれって頼み込んだんだ……!」


 そういう噂を耳にしてはいた。だが、事実の取れない噂を俺は信じない。いつも真実は、本人の口から語られるものだから。


 ──曰く、先日行われた『銀譱杯』は海外からやってきたミリオスの長、アリスターに"前菜"として食い荒らされたらしい。


 環多流もこの大会には県大会以来の復帰戦として参戦していたようだったが、そんな通り魔のようなアリスターと決勝でぶつかって大敗。


 そこで事が終わったのならひとつの悲劇として幕を閉じたのだろうが、問題はその先だった。


 環多流は、アリスターに再戦を申し込んだらしい。


「その結果どうなったか知ってるだろ……? ……あぁ、アイツは言ったんだ。どうしようもなく楽しそうなニヤケ面で、俺をバカにするような顔で、『"六枚落ち"なら対局してやってもいい』ってな……」


 俺の目の前まで迫ってきた環多流は、俺の両肩を掴んで項垂れる。


「舐めてやがった……俺以上に将棋を舐め腐ってやがった……! でも、チャンスだとも思ったんだ。提示された条件はその鼻っ柱をへし折るのに十分な舐めプだ。だって六枚、六枚だぞ? 飛車ひしゃかくけいきょうの六枚落ち、プロにだって余裕で勝てるハンデだ。絶対に勝てる勝負を受けることは決して間違いじゃねぇ。テメェがそんな条件を提示するなら乗ってやる、乗った上で圧勝して勝てばいい、そう思って挑んだんだ……!」


 ──だが、その結果……環多流は六枚落ちでアリスターに敗北した。


 勝敗が覆られないレベルのハンデ、それも六枚落ちというあり得ないハンデ戦において、アリスターはこの男を翻弄して勝利を掴み取った。


 それは、絶対はないとされる盤上だからこそ描けるシナリオだ。


「……」


 俺は、環多流の叫びに何かを答えることは無かった。


 それを見て環多流は俺の肩から手を放し、少しだけ足を後退させて尋ねてきた。


「…………お前なら、挑んだか……?」

「……挑んでない。そこで勝負を仕掛けることは最悪中の最悪だ。どれだけ条件が良くても、どれだけ勝つ自信があっても、その条件を向こうから提示してきている以上は当然相手にも勝算があるということになる。その狙いを見破れないのなら挑むべきじゃない。……特に、外野がいる中では」

「……っ」


 環多流は苦虫を噛み潰したような表情で俯く。


 外野から受ける醜態。それを環多流は誰よりも理解している。そして、そこからあびせられる罵詈雑言の類は聞くまでもない。


 ──今の環多流は東地区でも腫れもの扱い。県大会での俺との一件が影響して、この男をよく思っている人間は誰一人として存在しない。


 日陰から攻撃してきた当の実行犯である明日香とは違い、環多流は大勢のいる前で俺を不正者だと罵った。その影響は大きいものだろう。


 ……そんな男が詰まされる直前で相手に投了され、優勝を譲られた挙句、納得がいかないからと再戦を申し込んで"六枚落ち"で負けたとなればいい気味だ。誰もが遊馬環多流という男の失脚を心の底で嗤うだろう。


「……対局前、アイツに、アリスターに、『お前の将棋歴は何年だ?』と訊かれた。俺は馬鹿正直に『13年だ』と答えたよ。そしたらアイツは『ならこんな誰でも勝てるハンデで負けたら、お前の13年間は無駄になるな』って言ってきたんだ」


 ……悪くない挑発。いや、楔だ。引くに引けない絶妙なラインをアリスターは知っている。もし仮に今の俺が環多流と同じ立場で同じような言葉を受けたら、きっと同じように挑発に乗っていたかもしれない。


「負けることなんて考えもしなかった。あの時の俺が考えていたことなんて、コイツがどうやってこの場を切り抜けようとしてくるのか、どうやってこの対局をうやむやにしてくるのか、どんな反則手を使って来るのかと、そんな"対局外"のことばかり考えていた」


 それはまた、環多流らしい。


「……でも、負けた。負けたんだよ。実力で。六枚も落とされて、あんな挑発を喰らって。それであっという間に死角から13手詰で頓死だ。途中まで形勢は"4000点"だったんだぞ? ありえるか? 俺が躍起になって攻めたせいで、それまで0だったアイツの勝率が上がったんだ。居玉の傷を抉られても平気なフリして攻めたんだ。絶対に仕留めてやるって息巻いたせいで何回も悪手を指しちまったんだ! その結果がコレだよ。…………ははっ、……っざけんなっ!!」


 環多流は全力で腕を払うと、涙を流しながら叫ぶ。


「13年!! 13年だッ!! 俺が将棋こんなものに費やした時間! ちょっと得意だからって馬鹿みたいに注力して、金のためだからって道具として使い続けて、意地もプライドも無くなった"お前との一戦"の後だって!! 俺は……俺はっ……」


 そのまま膝から崩れ落ちる環多流に、俺は冷たい視線を送った。


「……で? 結局何が言いたいの?」


 その言葉にビクッと震えた環多流は、その崩れた体勢のまま俺の足にしがみついた。


「頼む……! 明日のWTDT杯でアリスターを倒してくれ……っ!」

「言っている意味が分からない。明日の対局は勝ちに行くし、負けるつもりもない」

「違う! そうじゃない! アンタの手で直接やってほしいんだ、あのアリスターに投了させてほしいんだ……!」


 それは随分と"無理な頼み"である。


 明日行われるWTDT杯は3対3のチーム戦、誰がトドメを刺し、誰が投了するかなんて完全にランダムだ。予想することすらできない。


 しかも、俺は順番的には2番手。対するアリスターは最後の3番手だ。最初から当たる順番がズレている。互いが限界まで着手する王道のパターンに入れば俺がアリスターと戦うことはない。


「断る」

「うっ……!」

「そもそも、俺がお前の頼みを聞いてやる筋合いがない。アリスターの挑発に乗ったのも、それで負けたのも自分だろう? その仇をどうして俺が討たなきゃならない?」

「それは……」


 環多流は言いづらそうに言い淀む。


 ……さっきから話の整合性が取れていない。


 先の件で落ち込む環多流の気持ち自体は分かる。アリスターに六枚落ちで負けたことのショックが大きのも、観衆からの視線にトラウマを植え付けられたのも、この男の感情を揺さぶる要因にはなっているのだろう。


 だが、それでここまで激情を吐露しているのは異常だ。


 そして、その理由を俺は何となく感じ取ってしまっている。最もシンプルで単純な、言葉にしたくない理由だ。


「……というか、頼む相手ならわざわざ俺でなくても、他にもいるでしょ?」


 天竜一輝や青薔薇赤利。正直いってこの二人の方が俺よりもずっと才能がある。


 そんな無理難題を頼み込むなら、平凡に指している俺よりも圧倒的な格があるその二人の方がいいだろう。


「アンタじゃなきゃダメなんだ!」


 それでも、環多流は否定した。


 もう取り繕うこともしなくなり、そのぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けて必死に訴えてきている。


「だって、アンタは……俺と『同じ』──……っ。……悪い、今のは……」


 環多流の言葉に、俺は眉をピクリと反応させる。


 あぁ、そういえば自分で目ざといって言ってたっけ。どうせ俺のこともよく調べ上げてきたんだろう。


 だが、それでもやはり、俺がこの男の頼みを聞く理由にはならない。


「量も質も違うのに、それを『同じ』というのか」

「そりゃ、俺なんかが自滅帝と同じなわけはねぇ……。でも、俺は俺なりに頑張ってきたつもりだ! それを否定されることの気持ちは……アンタなら分かるだろ!」


 分かる。痛いほど分かる。それをかつてのお前が俺にやってきたのだから。


「自分でやればいい」

絶対に勝てない相手・・・・・・・・・にどうやって!?」

「……」


 絶対。そこまで断言してしまうほどの差を、感じているのか。


「なぁ、どうやって勝てばいいんだよ……教えてくれよ……頼むから、俺に将棋を教えてくれ……。どうすればあの大差を抜け出せる……? どうすればあの『全部読まれる感覚』から抜け出せる? 教えてくれよ自滅帝……俺は、俺の"13年間"は、本当に無駄だったのか……?」


 ……あぁ、胸糞悪い。その眼、過去の自分とそっくりだ。


 絶対に勝てない相手にぶつかって、その境地を知って、容易く心が折れる。人は意外と判断がよくて、抵抗の術を考える前に心のどこかで悟ってしまう。もう無理だと諦めてしまう。


 奨励会に落ちた時、俺はあの境地にどうやってもたどり着けないことを悟って、ただ拳を握ることしかできなかった。


 どれだけ悩んでも答えが見つからず、どれだけ苦悩しても答えが生まれない。


 同じ境地に立つ者達は少し考えれば勝手に強くなり、少し苦悩すれば簡単にアマチュアの枠を飛び出ている。


 かかった時間は比例しない。結果は所詮、才能との掛け算で伸びていくだけだ。


「──無駄なわけ、ないだろ……っ」


 何かに重ねるように、俺は小さくそう呟いた。


 この男が俺にすがっているのは、理解できない壁に直面してしまったからだ。絶対に勝てると思っていた戦いで負けたことで、今まで築き上げてきた自分の全てが消え去っているように感じている。


 なぜ負けたのかを理解できていない。環多流にとってアリスターは絶対的な存在になってしまった。いうなれば神のようなものだ。


 そんな存在から対局前に言われた言葉に、敗北というあまりにも説得力のある力が付随してしまって心を折られた。──つくづくいい性格した挑発だ。


 そんなトラウマを克服するための解決策は、まぁいくつかはあるのだろう。そのひとつが、こうして俺にすがっているという現状なのだが──。


「はぁ……。一対一のVSならともかく、こんな特殊ルール満載の将棋で俺がアリスターに投了させるなんて狙ってできることじゃない。それに再三言うけど、俺がお前の頼みを聞いてやる筋合いはない」

「そんな……!」


 環多流の制止を無視して、俺は会場の階段を上って出口に向かう。


「まっ、待ってくれ……!? 自滅帝っ……!!」


 儚げな声色に虫唾が走って、項垂れる環多流に俺は思わず告げてしまう。


「金とプライドが混ざって破滅するのはよくあることだ」

「……は? おまっ!? それ……なんで……!?」


 地雷を踏み抜いて、それでも俺は長い階段を一段ずつ上がっていく。


「やっぱり……! 知ってたのかよ……!!」

「知らない、俺は無知だ」

「──っ!!」


 出口へ向かうための階段を上っていく俺に急かされ、今にも慟哭しそうな勢いだった環多流は、そんな俺の言葉にようやく本音をぶちまけた。


「しょうがないだろッ!! 元は金のためだったんだ! だから将棋これにも愛着なんてなかった! 話を持ち掛けられたのだって今のお前よりもずっとガキの頃だ! でも俺が将棋これうまく指せるものだから、銀譱アイツらは大金をチラつかせてまだガキだった俺に救いの手を差し伸べてきたんだ!」


 ──今度は会場にも響く声量で、環多流は喉を枯らすほどに叫ぶ。


「姉貴を救うための金が、事故で意識を失ったままのあのバカを救うための金が必要だった……! 両親は金をむさぼるクズばっか、医者は最善を施してくれたが、それでも昏睡状態から変わることはないと告げられた。これ以上を望むならもっと高い金が必要だったんだ! だからやってきた! 今の俺に何も失うものはねぇ、負けようが罵倒されようがどうだっていいんだ! だから、お前が、お前が……俺の頼みを叶えなくたって、俺は……! クソッ──!!」


 ひとつ追うだけでも厄介だというのに、ふたつも追えば無理筋だ。


 結局、何かを為すためにしてきたことが、いつの間にか自分の人生を支える生きがいになってしまっていた。それは俺と同じ、一種の呪いだろう。


 でも、環多流は俺とのやり取りで最後までそのことを口にしなかった。姉という免罪符があるにもかかわらず、それを最後まで使わずに俺に頼み込んでいた。


 だから、ずっとチグハグだった。


「……10年前の交通事故、誰も責任を取れない不幸な事故だ」

「なんで知ってんだよ。……俺は、このことだけは誰にも話しちゃいねぇぞ……!」


 そりゃあ、誰も知らないだろう。当時者の大半が消えてるのだから。ある意味で全員が被害者とも言えるそれは、不幸だけが残った事故だった。


 きっと環多流は相手側の唯一の被害者にあっていない。顔も知らないだろう。だってその被害者はまだ当時まだ幼く、誰かの注目を浴びるべき存在ではなかったから。


 環多流の両親は真実を知っているのかもしれないが、環多流のその口ぶりからして重要な何かを聞かされることはなかったのだろう。


「……はぁ、こっちは明日のために考えることが多いってのに」

「真才……?」


 希望を持った眼差しを向けてくる環多流に、俺は冷たい眼差しで返した。


「俺は俺のやり方で戦う、それだけだ。お前の頼みは聞かない」

「っ……!」


 一瞬、ぐしゃぐしゃになりそうな顔を浮かべた環多流だったが、すぐに俺の意思が固いことを悟って全てを諦めたような顔になった。


「……そうか。……まぁ、そう、だよな……。悪かった……。無駄な時間、過ごさせちまったな……」


 環多流は薄ら笑いで静かに項垂れる。もう、夢も希望もないような顔で。


 俺にとって、この男の人生がどうなろうと知ったことではない。元は宿敵のようなもの、わざわざ頼みを聞く必要も義理もない。


 俺はそのまま出入り口まで上がり、会場の外へと出ようとした時──。


「真才!」


 再び環多流の声が響いた。


「……すまなかった。県大会でのこと。許されないことをした自覚はある。だから許してくれとは言わない。……ただ、本当に……すまなかった」


 それが環多流の本心から出た言葉であることは確かだった。全てを諦めたような瞳の色がそれを証拠付けていたから。


 ──俺は、その言葉に返事をしなかった。


 ※


 WTDT杯もいよいよ最終盤。一体誰が決めるのか、そして勝敗はどうなるのか。


 そんな誰もが胸を躍らせる状況で、待機室の中にその音は鳴り響いた。


 ──青薔薇赤利から渡辺真才への交代を知らせる、最後のブザーである。


「……ふぅ、なんとか上手くいった」


 俺はそれだけ呟いて、その場から立ち上がる。


「おい、上手くいったってなんのことだ?」

「なんでもないよ、こっちの話」

「……」


 怪訝な視線を向ける天竜を無視して、俺は背後から迫ってくるアリスターに振り向いて視線を合わせる。


「あぶねぇあぶねぇ。このまま終わったらどうなるかと思ったぜ」


 形勢的には完全に負けているはずだが、アリスターはまるで勝ち誇るかのような表情を浮かべる。


「なんだ、まだ分からないのか? この決着方法シナリオはオレが作り出したものだ」

「なんだと……?」


 驚く天竜に、アリスターは視線を移し。


「本当はお前を狙い撃ちするつもりだったんだよ、天竜一輝。……だが、状況が変わった。もっと面白い獲物がいたからな」


 そう言ってアリスターは俺の方へと視線を戻した。


「出来ねぇと思ってるだろ? 指揮役とのコンタクトが取れないこのルールじゃ、終局までの手番を操るなんて不可能だと。……甘いな、オレならそのくらいの芸当できるさ。もっとも、将棋の才にしか特化していないお前には無理だろうがな」


 アリスターは額に冷や汗を掻きながらそう告げる。


 追い詰められている側とは思えない、猛獣の気迫を背に抱いて。


「お前は今、絶対に勝ちを確信している状況だ。そして、これだけの形勢差があれば"勝って当然"の状況だ。そうだろう?」


 含みのある言い方をして、アリスターはその眼光を俺に向ける。


「──ところでお前、将棋歴はいくつだ?」


 アリスターはニヤケた顔で俺に尋ねてくる。


「知りたいのか?」

「あぁ、それがお前の将棋に懸けた時間だからな」


 将棋歴、将棋歴か。そうだな……俺は今16歳だから、あの日父から将棋を教わった歳から数えると、ちょうどピッタリ──。









「──『13年』だ」

「……そうか、13年か。………………──は?」


 それまで覇気を放っていたアリスターの呆けた声が漏れた。


 奇遇──などでは片付けられない何かを察して、虎のように鋭いその眼を右往左往させる。


「い、いや、まて……待てよお前……」

「何か?」

「……いや、ただの勘違いだ。そんなのあり得るわけがねぇ」


 そう、あり得ない。


 手番を操って、最後の決戦を俺とアリスターに定める。そんな神業、俺一人でできるわけがない。


 でも、俺とアリスターとの"合作"ならどうだろうか? 彼の意図を汲んで、こちらの狙いとマッチさせれば、二人で創り上げれば、その局面は自分達の思い描いたシナリオへと向かっていけるとは思わないか?


 アリスターは最初、俺を見てすらいなかった。当然だ、俺はこの男にとって、いや、多くの人間にとって無名の選手だ。


 無名の選手が注目を浴びるには、それ相応の"大胆さ"が必要になる。無名の俺が、元から注目されている二人を押しのけて目立つほどの"材料"が必要だ。


 天才二人に隠れる謎の三番手男、名前も知られていないのに妙に自信に満ち溢れている男。


 何かあるに違いない。そんな疑問をチラつかせながら迎えた本番で、誰も想像しないような派手な立ち回りを見せる。


 考察の余地は残す。答えも告げない。勝手に想像して、勝手に解釈して、行動するように促した。


 やがて注目すべき視線はズレる。対象は変化する。


 俺がこれまでアリスターに対して挑発した態度を取っていたことに、アリスター自身は何の疑問も持たなかったのだろうか?


 元々狙っていた天竜一輝の株を奪うように、こちらに注目しろと言わんばかりの派手な動きをしてきた俺に、違和感は覚えなかったのだろうか?


 俺の知る"王者"というのは、あらゆるもの全てを見極める才を持ち合わせていた。感動すら覚えるカリスマ性があった。……それに比べたら、今の俺は本当にどこにでもいるただの高校生だ。


 さて、アリスター。アンタは"王者"足り得るか?


「……おい、今ここで答えろ。その年数は意図したものじゃねぇだろ? お前は俺の質問にただ答えただけだ、そうだろう? あんな小物と──いや、お前は何か明確な意思をもってオレに挑んできたわけじゃない。……そうだろ?」

「何を言ってるのか分からないな。俺は俺のやるべき戦いをしに来ただけだ。あぁ、そういえばひとつ言い忘れていた。──『銀譱杯』優勝おめでとう」


 小さな拍手をしつつ、俺はアリスターに迫る。


「なんで、お前がそれを──」


 俺を見下ろしていたはずのその眼は、足の後退と共に同じ高さまで上がっていき、ガタン! と音を立てて待機室の扉の前へと背をぶつけてしまう。


 そんな訳も分からず混乱するアリスターに、俺は環多流の代わりにその言葉を告げた。


死神知り合いから託された鎌がある。それになぜか・・・形勢は『六枚落ちあのとき』と同じ4000点だ」

「は、は、は……?」

「──さて、続きを指そうか海外王者。……逆転は得意なんだろう?」




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