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第百八十七話 神童から自滅帝へと繋ぐバトン

 過去の天才達が開拓した道を『定跡』と称し、自分達はその道を歩んでいる。


 天才達と同じ道を進んでいくことで、間接的に自分もまた天才になれる。それが将棋における『最善手』の正体である。


 だが、定跡を踏襲することで得られる正しさは、本当の意味での正しさの真価を発揮しない。


「あれは……! あの、指し方は……っ!」


 席を立ち、震えた唇を噛み締めながら、葵玲奈は再びその腰を力無く下ろす。その一瞬だけ見せた反応は来崎たちの視線を集めた。


「ん? どうした?」

「今の手に何か見覚えがあるんですか?」

「……いや、その」


 隼人と来崎に尋ねられ、玲奈は一瞬何かを伝えようとしたが。


「気のせい、かもしれないっす……」


 寸前のところで言い淀み、その言葉を呑み込んだ。


(……どうして、青薔薇赤利が……)


 玲奈は赤利が指した手そのものには見覚えなど無かった。天上で行われる聖戦のようなものに、今の玲奈ではその手の価値すら想像することもできない。


 ただ、その"指し方"には確かな見覚えがあった。


 それは、葵玲奈がかつて憧れた棋界の女王、瑞樹夢野の幻想的な指し回し。


 ──盤上の遊戯者トリックスターそのものである。


 同じくその手を見ていた哲郎は、前列の席で驚き慌てふためいている凱旋道場の面々を見下ろしながら呟く。


「……なるほど、これが赤利君本来の資質というわけか」


 かつてその指し方は奇襲と隣り合わせであることから、一時はB級戦法だと卑下する者もいた。


 しかし、それでも彼女が出し続けている"勝利"という結果にねじ伏せられ、やがては瑞樹夢野が持つ固有の指し方なのだと認知されていった。


 盤上における正誤判定は実に単純なもの。正しい手を積み重ねていった先にのみ勝利の二文字は降ってくる。だが、定跡を倣うだけで得られる正しさというのは本人の力ではない、あくまでも先人達が築いてきた結晶を削って使う力である。


 己の才がその先人の結晶体をも越える力を持つのであれば、レールに乗ってただ踏襲するだけの力では意味を為さない。


 ──そう、赤利はただ、才能で殴ることを決めたのである。


 ※


「はぁぁ……」


 赤利の手を見て、片手で額を抑えながら大きなため息をつく沢谷。


 その心情は「やってしまった」の一言に集約された。


「あ、かり……? なんであなたが、そんな、手を、指してるの……?」


 半ば放心状態で画面に手をかざす翠。


 そんな翠を見て、沢谷は苦笑いを浮かべる。


「ご愁傷さまね。……私もだけど」


 沢谷にとってこの出来事は想定していたものではない。もとより真才の真意など読めるはずもなく、ある程度距離を置くことで予想の範疇に収めていた存在に過ぎなかった。


 青薔薇赤利という小さき存在の矯正。家系に縛られ、仲間を失い、師に置いていかれた彼女に残ったものは、ただ"目的"のために咲き続け、いずれ散るだけの運命を待つ哀しき花である。


 そんな赤利を少しずつでも良い方向に向かわせようとしていた沢谷の考えは、"途中まで"は真才の考えと同じものだった。


 問題はその荒治療の差異であり、少しずつ解決していこうと考えていた沢谷と、一気に全てを解決へと導いてしまった真才である。


 沢谷は善人ではない。あくまでも今の目的は、このボロボロとなった凱旋道場に再び天下を取り戻させることである。


 しかし、これはもはや枷そのものが外れてしまっている。留めておくことなどできない。飼いならしはできない。


「ほんっとうに、やってくれたわね、真才くん……」


 どこか嬉しそうに、そして憎たらしそうに、沢谷は大きなため息を吐くのだった。


 ※


 元々ボクは、玖水棋士竜人に憧れたよくいる少年少女と同じだった。


 青薔薇家の家系に産まれ、将棋の道を強制され、物心つく前から両親の指導を受けてきたことで、傀儡のような人生を送ってきた。


 別に不満は無かった。楽しくもなかったけれど、義務感に駆られて指す将棋で得られる称賛は子供なりに嬉しくもあった。


 そんな時に起きた出来事が、棋界の英雄『玖水棋士くなぎし竜人たつと』との一戦。


 青薔薇家のコネを存分にふるって直々に対局の場を設けてもらった際に見た両親の顔を、今でもよく覚えている。……あれは、欲に埋もれた者の顔だった。


 これは指導将棋ではない。これはVSではない。玖水棋士竜人という棋界の英雄と、青薔薇赤利という神童の名を懸けた戦いである。


 もしこの場でボクが勝てば、青薔薇赤利の将棋の実力があの玖水棋士竜人にも匹敵することの証左となる。まだ子供である青薔薇赤利がその歳で英雄に土を付けられるのであれば、いずれ大人に成長するにつれて棋界を席巻するのは確定事項に等しい。


 青薔薇家の悲願が達成される。この神童をもって、長年の願いが成就される。背後で口角を糸で釣られるように上げる両親を、ボクは哀れに思っていた。


 ──そして、そんな両親の期待を受けて挑んだ玖水棋士竜人との一戦は、たったの19手で頓挫した。


 あの時の衝撃は今でも忘れない。ボクが培ってきた将棋の全てを、指先ひとつ軽く曲げただけで全て吹き飛ばされた。


 悔しいだとか、憎らしいだとか、そんな感情を抱く間もなかった。ただ呆気に囚われている間に首は落とされていて、立ち向かう気概すら失われていた。


 後に新手として定跡に組み込まれることとなったその手を、ボクとの対局の場で披露したことが何よりも衝撃だった。


 ──尊敬した。凄いと思った。まだ将棋を楽しむことを知らないボクでも、これだけ完成された世界の開拓を未だ続けよとするその姿勢には、分不相応ながら惚れ惚れした。


 両親には彼の凄さは分からなかったようで、開始早々投了したボクに非難轟々。あのまま戦ってもただ棋譜思い出を穢すだけだと分からない凡夫の指先は、どこか色褪せて見えた。


 それでも、ボクはその凄さを確かに体験して、味わって……そして目指そうと思った。


 この道の果てにあの戦いをもう一度描けるのであれば悪くないと、再びスターとの対局が叶うのであれば文句はないと、そう思ってアマチュアの世界を勝ち進むことを決めたのだ。


 この頃になると世間でも『青薔薇赤利』の名が少しずつ噂されるようになって、アマチュア内では一躍有名人となっていた。


 次代の女王。史上初の女性プロ棋士の誕生。──気づけばそんな風に持ち上げられるようになって、青薔薇家の株は期待による相乗効果でうなぎのぼり。


 誰もが、ボク自身ですら、プロ棋士になることを信じて疑わなかった。


 それから1年あまりの時を経て、ボクは雨天に包まれたとある会館に赴いていた。


 ……そこで知ってしまったのだ。


「──ぁ」


 膝をついて絶望するなんて、絶望している最中にそんな器用なことができるのかと疑問を抱いたことがある。


 しかし現実は、崩れたことすら自覚できずにその膝を地面につけていた。


 ──玖水棋士竜人の死亡。


 直接何かで報じられたわけではないが、棋界の関係者の話では死因を巡って話し合いが交わされていたのを目撃してしまった。


 事実として、その日を以来に玖水棋士竜人が将棋界に現れることはなかった。


 英雄の消失。その名が世間一般にも轟くほどに認知されているのであれば、社会は声を大にして荒げるのだろう。だが実際には、玖水棋士竜人の消失に意識を向ける者は少なかった。


 何故なら、彼より強い棋士など巨万といたからだ。


 玖水棋士竜人の凄さを知っているのは、あくまでも将棋の世界に身を投じる者だけ。彼はタイトルを何期も獲得する時代の先導者でもなければ、永世称号を持っている冠の長でもない。ましてや九段ですらない。


 戦績を実力として判断する一般社会から見た玖水棋士竜人は、よくいるプロ棋士の一人でしかなかった。


 何故なら彼は、勝つことよりも楽しむことに重きを置いた人間だからだ。その感性によって創られる芸術をその身に抱いて死んだ男だからだ。


 ボクの憧れたスターは、ボクがその道に足を置く前に消えてしまった。


 ──最後の夢が、叶わなくなった。


 これが、ボクがプロの世界を目指さなかった理由である。


 所詮は道楽の地続き、目的をもって描く空ほど空虚なものはない。ただ真っ青に広がる世界を見続けている。


 そんな時だった。


 子供ながらに絶望していたボクに手を差し伸べたのが、凱旋道場の師範である沢谷由香里だった。


 由香里はボクに可能性という夢を見せてくれた。


 いつから芽生えていたのか。ボクの前に現れた数人の若き棋士達は、あの玖水棋士竜人を彷彿とさせるような輝きを放っていた。


 凱旋道場の英傑。香坂賢人、愛染拓海、瑞樹夢野、武林勉。この中でも特に瑞樹夢野は、落ち込んでいたボクを何度も励ましてくれた姉のような存在だった。


 彼らはまるで英雄の生まれ変わりとでも言わんばかり。そのプロ棋士に比肩した異質の強さはアマチュアでありながら多くの者を魅了する棋風を繰り出し、玖水棋士竜人の後継者足り得る将棋を世界に届けてくれるのだろうと、多くの者達の期待を背負っていた。


 その頃には、ボクも夢野と並んで再び注目されるような存在になっており、かつて諦めていたプロへの道を、もう一度だけ夢野と一緒に歩んでいこうと約束を結んでいた。


 ──しかし、その夢はまたしても叶わなかった。


 夢野は何を思ったのか突然凱旋道場を脱退。しかもプロ棋士への道を諦め、女流棋士の道へと歩んでいった。


 きっかけは分からない。原因も、心情も、その決断に至った経緯さえボクは分からなかった。


 ただ、その数ヶ月前に起こった香坂賢人の行方不明事件。これを引き金に凱旋道場の英傑たちは皆バラバラに散っていった。


 愛染拓海は我が道を突き進むかのようにプロの世界へ入っていき、武林勉は気づかぬ間に西地区へと移っていった。


 残されたのは、ボクとメアリーと天外の3人だけ。


 何も分からず、何も掴めず。ボクはその件以降、変なプライドを掲げたままアマチュア界で右往左往するだけの小物に落ちていた。


 夢野に裏切られたことでプロ棋士になる意欲も失せ、その夢野のいる女流界へ進む気も起きず、結果アマチュアの中で這い続ける醜い神童と化していた。





 ……正直、真相は未だに分からない。


 あの時、どうして夢野はボクの前からいなくなったのか。どうしてプロ棋士じゃなく女流棋士の道へ進んだのか。


 分からない。何も分からない。だってボクは、あの日あの時に転んだまま、最後まで起き上がることをしなかったから。今日この日までずっと下を向いて言い訳ばかりを並べていたから。


 ……でも、今は違う。分からないのなら直接聞きに行く。この舞台を皮切りにして、夢野に会いに行く。


 きっと口頭では説明してくれないだろうから、直接戦ってその真意を無理やりにでも聞き出す。


『かつて、ある男はいいました。心を読みたければ将棋を指せばいい、棋譜にはその人の全ての生き様が映ると』

『誰の言葉なのだー?』

『私の先生よ。赤利、アナタも自分の世界にばかり入らないでちゃんと相手の手を視る癖をつけなさい。手の意味ばかり考えてないで、その手を指した相手の思考も読むのよ。そうすれば──ふふっ、私の考えも丸裸にされちゃうかもね?』

『えー、眉唾ものなのだー』


 いつの日か言っていたその言葉を、ボクは一度たりとも疑ったことは無い。


 だから、ずっと練習してきた。


 相手の手を視る。考えが透けるまで試す。そのために組み立てる手の構想に善悪の種類は関係ない。その相手にとっての最善手を、その相手にとっての大悪手を見つけ出せばいい。


 ──『この力』は、夢野から学んだものだ。


 ボクは世界と戦っているわけではない。あくまでも目の前の相手と戦っているだけだ。だから、指す手はボクとジャックコイツの中で生まれる最善手であればいい。


 もう迷わない。もう止まらない。だからボクは、以前の赤利を崩してでも前に進むことを誓うよ。


 いつか台頭するその時まで。またライバルと認めてもらえるその時まで、もう少しだけ待っていてくれるかな。──夢野。



【『WTDT』ワールド・ザ・ドリーム・タッグ生配信板part17】


 名無しの114

 :『評価値』後手+99・互角


 名無しの115

 :このド終盤で互角なのキッツ……


 名無しの116

 :『評価値』後手+448 日本(Team:無敗)・有利


 名無しの117

 :あれ? 若干戻した?


 名無しの118

 :多分困惑してるだけかと


 名無しの119

 :まぁあんなタダの飛車捨てされたらジャックも慌てるわなw


 名無しの120

 :『評価値』後手+218・互角


 名無しの121

 :『評価値』後手+718 日本(Team:無敗)・優勢


 名無しの122

 :『評価値』後手+418 日本(Team:無敗)・有利


 名無しの123

 :ん……? なんかあらぶってる?


 名無しの124

 :『評価値』後手+1189 日本(Team:無敗)・優勢


 名無しの125

 :>>124 えっ


 名無しの126

 :『評価値』後手+381 日本(Team:無敗)・有利


 名無しの127

 :復活か!? と思ったけど青薔薇もミス連発してるな


 名無しの128

 :『評価値』後手+1489 日本(Team:無敗)・優勢


 名無しの129

 :>>128 ……ん?


 名無しの130

 :>>128 なんだ? ジャックもミスか……?


 名無しの131

 :『評価値』後手+822 日本(Team:無敗)・優勢


 名無しの130

 :>>131 また戻った……?


 名無しの132

 :>>131 上がったり落ちたり、ここに来て二人とも手が安定してないのか?


 名無しの133

 :>>131 終盤だから指し手が安定してない……?


 名無しの134

 :『評価値』後手+1719 日本(Team:無敗)・勝勢


 名無しの135

 :>>134 !?


 名無しの136

 :>>134 えっ


 名無しの137

 :>>134 え……?


 名無しの138

 :また上がった……!?


 名無しの139

 :え、てかさ……え? さっきまで互角じゃなかったの?


 名無しの140

 :『評価値』後手+1067 日本(Team:無敗)・優勢


 名無しの141

 :>>140 また下がった……?


 名無しの142

 :>>140 一体何が起きてるんだ……?


 名無しの143

 :>>140 まって、これ上がったり下がったりしてるけど、ジャックの手番だけ振れ幅大きくね?


 名無しの144

 :『評価値』後手+2561 日本(Team:無敗)・勝勢


 名無しの145

 :>>144 も、もどったぁぁぁぁああああ!!?


 名無しの146

 :>>144 なにこれキモ


 名無しの147

 :>>144 えええええええええええええええ!?!??


 名無しの148

 :>>144 な、なんなんだこれ……


 名無しの149

 :>>144 一瞬で全戻しして草


 名無しの150

 :>>144 ふぁあああああああああ!?


 名無しの151

 :>>144 え……? たった10手前後で形勢戻ったんだけど……???


 名無しの152

 :>>144 青薔薇の指し手が意味不明すぎて評価値落とすし、それを受けたジャックも釣られるように悪手連発して評価値落ちまくる。でも結果的に青薔薇の方が被害少なくて勝勢になる……ってこと?


 名無しの153

 :いや、いやいやいや……なんか簡単に戻してるけど、やってることおかしいだろこれ


 名無しの154

 :ジャックが悪手連発しまくってるな……


 名無しの155

 :局面ぐちゃぐちゃすぎる


 名無しの156

 :青薔薇が難解な局面に持っていって、ジャックが秒読みに追われて悪手を連発してるっぽい?


 名無しの157

 :三岳六段が解説してる▲6六香、頓死筋で草


 名無しの158

 :マジかよ、プロも騙してる局面ってことか……


 名無しの159

 :そんなバカなことあるかいな


 名無しの161

 :てか青薔薇ってこんな複雑な将棋指す子だったっけ?


 名無しの162

 :自滅帝の入れ知恵説


 名無しの163

 :この善悪しったこっちゃねぇ指し方めっちゃ好きだわw


 名無しの164

 :分かる俺も好き、この夢いっぱいに好きなもの詰め込んだ茶色の弁当食ってるみたいな指し方って感じがする


 名無しの165

 :確かにこんな将棋指してみたいわ

  自分の好きな手だけ選んで指して、相手がそのドツボにハマり続けるの快感やべーだろ青薔薇


 名無しの166

 :天才にしか許されない自由奔放な将棋過ぎる


 名無しの167

 :『評価値』後手+61 日本(Team:無敗)・互角


 名無しの168

 :>>167 次の展開読めた


 名無しの169

 :>>167 おい嘘だろ、まさか……


 名無しの170

 :>>167 このパターン、知ってる


 名無しの171

 :『評価値』後手+3982 日本(Team:無敗)・必勝


 名無しの172

 :>>171 あああああああああああああああああああああwwwww


 名無しの173

 :>>171 クッソワロタwww


 名無しの174

 :>>171 はいジャック君大悪手~!!


 名無しの175

 :>>171 うせやろ……?


 名無しの176

 :>>171 そんなことあるかいな……


 名無しの177

 :>>171 絶対▲同金だと思ったwwwだって俺がジャックの立場でも同じ手指してるもんwww


 名無しの178

 :>>171 どんなレべチな局面誘導してんだよ……

  まさか▲同金がこんな大悪手だとは思わねぇよ……w


 名無しの179

 :>>171 ここ最善手が手抜いて王様逃げるしかないの終わってるw

  もう青薔薇の魔術だろこれw


 名無しの180

 :ここはさすがの三岳六段も読み切ってたな

  しかし30秒しかないジャックには無理だったか……


 ※


 荒れ狂う盤面を注視しながら、それでも足元をすくわれるミスディレクションにジャックは冷や汗をかきっぱなしだった。


(な、なんだ、これ……!!)


 かつて自分は天才と、そう呼ばれていた。


 欧州において敵なし。生まれながらに得た才覚を振るう場として、生粋のボードゲーマーだったジャックの目には、全てが凡庸に映っていた。


 自分より実力があるアリスターですら、才能という面で見ればジャックのそれに勝る部分はない。


 才能とは常に理不尽だ。才能を持つ者は、才能を持たない者をいつだって理不尽に超えていく。


 今はその域に届かずとも、才能は勝手に階段を作ってくれる。時間と共に生成されていく。そうして出来上がった階段をあとは上っていくだけでいい。


 自分と対峙した者は皆揃って理不尽を嘆く。その資格だけが敗者に与えられている。


 将棋歴僅か数年。海外初となるプロへの道は余裕をもって達成される。それがジャックの目前に作られている階段だった。


 しかし、そんなジャックの前に現れたのは──それを遥かに超越した本物の『理不尽』である。


(冗談、だろ……! なんでこんな複雑な局面でそんな"良い手"が思いつくんだよ!)


 完全なる上位存在。天才をも越える神童。その突出した才能は、世に存在するあらゆる法則から外れて彼女の思考を手助けしている。


 秒読みという鎖に全身を縛られているはずなのに、目の前の神童は何にも縛られていないかのように動く。いや、彼女の動きに鎖の方が合わせている。


 ──あまりにも理不尽過ぎる。


(だ、ダメだ……どうなってるのか全く分からない……!)


 ジャックは混乱する。形勢判断すらできない難解な局面に、今自分が優勢なのか劣勢なのかすら分からない。


 ただ翻弄されている状況だけが残り続け、それが全身を蝕んでいくのを恐怖に包まれながら体感していくだけである。


 ジャックは甘く見ていた。プロでもない一端のアマチュアで、しかも子供で、女で、それでいて周りから自分と同じく天才扱いされている同類の存在に。


 同じ枠組みに入っている有象無象と比較して持ち上げられているだけだろうと、そう思っていた。


(……ハハ、冗談、きついって……)


 ジャックは完全に戦意を失っていた。


 目の前でずっと笑顔を浮かべて楽しそうに指している少女に、そのあまりに乖離した空間に、心が耐えられなかった。


(日本のアマチュア、全然強いじゃねぇか……)




『【ヤバい】自滅帝とかいう正体不明のアマ強豪www【十段おめでとう】Part57』


 名無しの137

 :青薔薇つええええw


 名無しの138

 :いい手を指すんじゃなくて悪手を指させる、まさに人心掌握だな


 名無しの139

 :これもしかしなくても県大会の時より強くなってね?


 名無しの140

 :>>139 今の青薔薇が県大会の自滅帝と戦ってたらワンチャン勝ってたかもな


 名無しの141

 :>>139 今までは自分の才能を適材適所で活かして指してたけど、これは才能全開で殴り散らかしてる感じだしな……


 名無しの142

 :こういう理不尽パワーで殴ってくる相手が一番怖い


 名無しの143

 :今形勢は?


 名無しの144

 :『評価値』後手+4016 日本(Team:無敗)・必勝


 名無しの145

 :>>144 oh……


 名無しの146

 :>>144 日本勝ちです


 名無しの147

 :>>144 本当に日本勝っちゃうぞこれ


 名無しの148

 :>>144 日本のアマチュア強すぎた……


 名無しの149

 :>>144 たいあり!


 名無しの150

 :でもどうせフラグになるんでしょ?


 名無しの151

 :まぁどんなに必勝形勢とはいえ逆転負けする可能性は0じゃないからな


 名無しの152

 :フラグかぁ嫌だなぁ


 名無しの153

 :って思うじゃん?


 名無しの154

 :【速報】チーム無敗・青薔薇赤利→渡辺真才へ交代


 名無しの155

 :>>154 あっ


 名無しの156

 :>>154 あっ


 名無しの157

 :>>154 あ


 名無しの158

 :>>154 あっ……


 名無しの159

 :>>154 あっ


 名無しの160

 :>>154 あ


 名無しの161

 :>>154 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!


 名無しの162

 :>>154 交代のタイミングやってる


 名無しの163

 :>>154 4000点叩き出してから交代すんの完全にやってて草


 名無しの164

 :>>154 まだ手数残ってるのにぶった切るような交代www


 名無しの165

 :>>154 このまま交代しないと思った? 残念! 普通にしますwww


 名無しの166

 :>>154 おいおいおい来ちゃったよw


 名無しの167

 :ついに我らが自滅帝が幕を下ろしにいくのか


 名無しの168

 :ここで自滅帝はフラグクラッシャー過ぎるってw


 名無しの169

 :自滅帝きたぁぁぁ!!


 名無しの170

 :我らが希望


 名無しの171

 :希望というか光が強すぎて何も見えん


 名無しの172

 :このまま青薔薇が手数使い切るまで指しててもよかったのにダメ押しと言わんばかりに自滅帝ぶん投げてくるの完全にやってるw


 名無しの173

 :勝ったな風呂入ってくる


 名無しの174

 :>>173 いや見ろよ



 ※



 カーテンから差し込む日の光にあてられ、彼女の持っていたタブレットは薄く見えづらくなっていった。


 時間は必ず守ること。用意は事前に済ませること。


 いつも小うるさく自分に言い聞かせていた言葉だったが、この時ばかりは破ってしまった。


様、まもなくお時間です」

「分かったわ」


 女流棋士、瑞樹夢野はベッドから立ち上がる。持っていたタブレットの電源を落とす間もなく、部屋に飾られていた時計を見て少しだけ慌てるように支度を済ませる。


 あの日から一切笑わなくなったその口元が、ほんの僅かに緩んでいた。それを感じ取った使用人は驚いたように尋ねる。


「今日は一段とご機嫌なご様子ですが、一体何を見ていらしたのですか?」

「んー? ただの棋譜だよ」


 支度を済ませ、外へ出て車に乗る夢野。いつもならつまらなそうにしている顔色は、どこか明るかった。


「棋譜……ですか。珍しいですね、夢野様が他人の棋譜を見るなんて。近々対局を予定している方の棋譜でしょうか?」


 直近で夢野に勝ちうる女流棋士は誰もいない。そもそも、そんな相手がいるのかすら定かではない。


 答えを知らない使用人の問いに、沈黙した夢野は窓の外を眺めると少しだけ楽しそうな顔を見せて呟いた。


「……そうだね。いつか対局するライバルの棋譜・・・・・・・だよ」


 そう答える夢野が持つタブレットには、WTDT杯の生放送が映っていた。


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