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第百八十五話 【蒼い紅】

 天から見下ろす巨大なピラミッドは、ピラミッドのままでなければいけなかった。


 誰もが崇める金字塔の頂点、多くの者が目指すべき英雄の後姿。しかし、その男の名が棋界に轟くころには既にその席は空白で、そこに座るべき価値のある男はもうこの世界にはいなかった。


 頂点の失脚、あるいは空席を賭けた椅子取りゲーム。


 才ある者ほど眩暈を起こし、身の丈を知らない者ほど奮起した。


 革命を経た十数年、第二世代の終わりを告げる鐘が鳴る。


「……ゆ、夢野ゆめの……?」


 幼き瞳を煌めかせる神童。当時9歳だった青薔薇赤利が、初めてその美しく煌めく瞳に影を落として曇らせた。


 ──赤利が握るその手には、凱旋道場準エース『瑞樹みずき夢野ゆめの』の退会を申し出る書類が握られていた。


「ごめんね、赤利。……どうしてもやることができたの」


 そう告げるのは第二世代の先導者、あの無敗伝説を残した凱旋道場の一員、瑞樹夢野その人である。


 夢野は赤利に向けてバツの悪そうな顔を浮かべるものの、その信念はどこか固く、譲る気のない姿勢で目尻だけを向けて赤利との距離をとっていた。


 突然の退会。否応なく凱旋道場からいなくなろうとする夢野に、赤利はただただ困惑する。


「え、え……? な、なんでなのだ……? だって夢野は、赤利と一緒に……」

「……」


 予兆はあった。雰囲気もどことなく出ていた。


 以来どこか上の空で、気付けば口数も少なくなってきた夢野に、赤利はたびたび嫌な予感を感じ取っていた。


 だけど、それでも夢野は将棋を指していた。歩み自体は続けていたのだ。


 直近の戦績は黒星のひとつもなく連戦連勝。迷いのない艶美な指し回しにプロ棋士ですら感嘆するほどの出来栄え。威風堂々と鬼神の如く勝利を重ねていくものだから、どれだけ不穏な空気が漂っていても彼女の絶好調だけは信じて疑わなかった。


 ──その結果がこれである。


「まって!! まつのだ! まってよ……! あのときにした赤利との約束は? 約束はどうなったのだ? まだなにも果たしていないじゃないか!?」


 余計な問答をせずその場を去ろうとする夢野に、赤利は叫ぶ。


 そしてその後ろ、あまりの衝撃に言葉を発することもできずに唖然としているメアリーは、その足を階段に固定されたかのように動けずにいた。


「夢野、いってたじゃないか! 赤利が夢野に追いつくまで一緒に戦ってくれるって! 赤利のライバルになってくれるって!」

「……」

「あれは嘘だったのか……? あの言葉は赤利を騙すためのものだったのか? 赤利は……だって、香坂も、香坂も……っ!」


 何か重要なことを口走ろうとする赤利。しかし、その先を聞きたくなかったのか、それとも言わせたくなかったのか。


 夢野はゆっくりと振り返ると、冷たい眼差しで赤利を睨みつけた。


「──勘違いしないでくれる?」

「っ!?」


 それはまるで氷のような、背筋をゾッとさせる声色だった。


「ミズキ、先生……?」


 赤利の後ろにいたメアリーが、涙混じりに絶望の表情を浮かべる。


 あれだけ優しくしてくれた"姉弟子"からの、突き放すような一言。


 知らない、あまりにも知らない冷たい顔がそこにはあった。


「アナタが私とライバル? 冗談でしょう?」


 グサリと突き刺さる。大量の棘を口の中に押し込まれているかのような事実を、夢野はさらりと口にする。


「ゆ、夢野……っ!」


 その言葉に怒りがこみ上げてきた赤利は、憤怒を態度で示そうとするが。


「赤利、アナタいつまでそんな正道を歩む指し方をしているの?」


 唐突に告げられた夢野の指摘に、赤利は思わず口を閉ざしてしまう。


「私、以前にも言ったわよね。自分で外せるかせくらいさっさと外しなさいと。アナタ、そんなに賢いのにどうして都合の悪い部分は見て見ぬフリをしているの? 子供だからと言い訳をして逃げてるの? そんな生温い生き方じゃいずれ負けるわよ?」


 その言葉に赤利の眉がピクッと反応する。


「赤利が、誰に……っ!」

「アナタと違って、誰よりも将棋を愛している者に」

「そんな人間、この世に玖水棋士竜人しかいないのだ」

「彼は将棋を愛してなんていないわ、将棋に愛された男だもの」


 理不尽の権化とも言える者の名を出したところで、赤利は睨むことしかできなくなっていた。


 その間に夢野はメアリーの方へ眼を向けると、赤利に対して告げた言葉と同じように叱責する。


「メアリー、アナタもよ」

「……!」

「アナタはまるで池を制した魚ね、川を知らない」

「先生、お言葉ですがワタシは……!」

「そうね、アナタは川をも知る努力をしたわ。でも海を知らない」

「いいえ、知っています! ワタシの記憶している知識は大海原にも劣らない自信があります……!」


 必死に弁論するメアリーに、夢野は軽く問いかける。


「それは凄いわ。──で? その先は?」

「そ、その先……?」

「アナタは大海を知った。それで? その次は?」

「…………」

「そう、アナタはそうやって自分の手の届く範疇に限界を作る。その限界にたどり着いただけで誰よりも才覚がまさっていると自惚れている。一つの極致にたどり着いた先で満足している。──随分とあわい天才ね」

「なぁっ……!」


 天才を主張するメアリーの前にいるのは、将棋界に革命を起こした第二世代の先導者である。


 比べる才のケタが違う。その事実がある以上、メアリーの反論は意味を為さない。


「アナタの思考は凡人の頂点で止まっているのよ。凡人の中では天才と呼ばれているでしょうけど、天才の中では烏合の衆の一羽でしかない。だからいつまで経ってもアナタは自分より年下の赤利にすら勝てないのよ」

「っ……」


 突き刺さる正論にメアリーは言葉を言い淀む。


「あー、言いたいことも言えてスッキリした。それじゃ、私はもう行くわね」

「待って!!」


 赤利の叫び声が道場の玄関口に響き渡る。


 その声に夢野の足は一瞬止まるものの、決して振り返ることはなかった。ただその背中は小さく、けれど冷たく、どこか絶対的な孤独を漂わせていた。


「夢野……赤利を見捨てるのか……?」


 歯を食いしばり、拳を握り締める赤利。震えるその声には、怒りと哀しみ、そして何よりも強烈な悔しさが混じっていた。


 だが夢野は前を向きながら静かに首を横に振った。


「いいえ。…………私は進むの。そう決めたのよ」


 その声には、彼女なりの覚悟が込められていた。


「──だから、私の隣に立ちたいのならちゃんと追いついてきなさい」


 それが彼女の、瑞樹夢野が凱旋道場の者達に送る最後の言葉だった。


 ※


 英雄は死に、豪傑は振り返らず、明哲は寡黙に消え、女王は去った。


 残された側の気持ちなど考えもせず、積み上げられた数多の屍の頂点に突き刺さった旗に背を向け、彼らは別々の方向を向いて降りて行った。


 今思えば、凱旋道場の覇が消えるのも時間の問題だったのだろう。


「……」


 WTDT杯の対局場に着いた赤利は、天竜が繋いでくれたその盤面をまじまじと見つめる。


 ──形勢にして2000点強。駒台にはカインから奪い取った最強の駒飛車が輝いている。


 ここから勝つのは容易と、そう取れる者もいる。しかし、それは指し手に制限がなく、相手がジャックからずっと変わらないことが条件だ。


 この戦いはWTDT。後ろにアリスターが控えている以上、下手な勝負手は仕掛けられない。天竜が赤利に対して無法にやりたい放題するのと、今の赤利が真才に対してやりたい放題するのとでは意味が違う。


 もっとも、真才であれば赤利の指す手の意図を把握できるだろう。だがそれは、同時に対抗するアリスターも同じであり、その策を横からかすめ取られて逆利用される可能性も無くはない。


 真才が無限の策を講じるように、アリスターもただ黙って終わることはあり得ないだろう。今の赤利にとって、真才とアリスターの危険性は同レベル。両者とも何をしでかすか分からない状態だ。


 そんな状態で始まる二人の戦いは、この勝勢をどう繋げていくかが重要となる。


「クッソ……こんなめちゃくちゃな盤面から始めるのかよ……」


 ジャックは片手で額をおさえながら席に着く。


 事前にアリスターからヒントを貰えたわけでもなく、カインが何を考えてこの局面に至ったのかも把握できていない。


 全ては当事者の心の中にしか答えが無く、その答えをどう繋いでいけるかがこの戦いの肝になっている。


「あのー……そろそろ席に着いていただきたいのですが……?」

「あぁ、すまないのだ」


 盤面を見つめているようで、実はその場でぼーっとしていただけの赤利は、スタッフに声を掛けられて席に座る。


 そのまま対局時計が押され、ジャックの手番から勝負は再開された。


(とりあえず30手、局面的にギリギリだがなんとか粘るしかねぇ。……つっても、形勢は完全に負けてるだろーが、所詮は飛車損だ。手数を稼ぐくらいならワケはねぇ。後はどうアリスターさんに繋ぐか。……起点は、ここかッ)


 ジャックは天竜が築いた完璧な陣形の外側を攻め、重箱の隅をつつくように端を絡めてねちっこい攻めの起点を作り出す。


 盲点とも言えるその起点は、放っておくと火移りして業火となりかねない。かといって丁寧に対処してしまうと余計な手数稼ぎに付き合わされることになる。


 初手から上手い発想を繰り出してきたジャック。そんなジャックに対し、赤利はただ虚ろな目でぼーっとしていた。


「……」


 言霊の泡が浮かんでは弾ける。


 長考の雰囲気を感じ取ったジャックは、対局時計の残り時間を一瞥しながら中止する。


(仕掛けてくるか? いや、ここからの選択肢はそれほど多くない。先を読むにしても俺が指すまではフツーに一本道のはずだ。……コイツ、今何考えてるんだ?)


 どこか自分の世界に入っているかのような赤利のそれは、先程の天竜が見せたゾーンとは違う。


 なんの負荷も、補正も掛かっていない。フラットな状態で何かを想う赤利は、今指すべき指し手の読みすら考えていなかった。


 それは、懐かしい過去の思い出と、忘れたい過去の最後。


(……なんでこんな時に思い出すんだろうな。……もしかして、真才に言われたからかな)


 ──残り20秒。見えない秒針が首元に近づいてくる。


(夢野、赤利は……オマエのライバルになりたかった。どんなに才を尽くしても本気を出してくれなかったオマエに、"私"を見て欲しかった)


 ──残り10秒。


(なのに"私"は、そんなオマエを見ていなかった。オマエの羅列する言葉の真意を本能的に避けていた、認めたくなかった。……子供だったんだな、"私"は)


 生まれながらに正道を示され、その道を堂々と闊歩するだけの人生。


 誰よりも我が強く、自分の芯を持っていたのに、その指先から放たれるものはあまりにも正しく、ゆえにその正しさが生み出す強さだけで勝ってきた。


 我流を極め、なのに定跡を放つ。その名前に相応しい、バカみたいに矛盾した愚行。


 なぜ天才が天才の道を歩もうとしないのか。自分の信念に基づいた生き方ができないのか。……それは青薔薇家という家系に縛られた娘だから、自分の意志で将棋を指してきたわけではなかったから。


(でも、知ったんだ。教えてくれたんだ。……あの日、"私"を負かしてくれた人に、将棋を指すのがこんなにも楽しいことだったんだって。オマエの言う通り、正道を歩むだけの"自分"に、枷を外すことすらしない"自分"に、ようやく決別できた)


 ──5秒。


(……だから)


 ──4秒。


(夢野、"私"は、"自分"は、────『』は)


 晴天に輝く太陽のように、蒼天に照らされる紅一点のように。


 その想いは確かに蒼く、紅いのだ。矛盾などないのだ。


 ──3秒。


 ──2秒。


(──)


 ──1秒。


 ジャックの顔色が明るくなる。


(……! か、勝った! その位置からじゃ指し手が間に合わない! 指せても時間切れだ!!)


 そんな風に考えるジャックを前に、赤利は駒台に置いてあった飛車を掴むと、ジャックの陣地周辺まで持っていくことなく、放り投げるように空中で手を離した。


「要らない」


 そして、瞬時に対局時計のボタンを叩く。ギリギリ1秒と表示されたその数字は、既にコンマの域に入っていた。


 その間、主人の手を離れ目的地を見失った飛車はジャックの陣地周辺の4つのマス目の中心で踊り、やがて綺麗に右斜め上のマス目の中に納まった。


 ──それはまるでタダ捨て。いや……。


「は……?」


 ──"本当の意味でのタダ捨て"をしたのである。




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