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第百八十二話 天衣無縫(中編)

「天竜……」


 何かを思いつめたような顔でじっと対局画面を凝視する赤利を横目に、真才は真面目な表情で周りの重い空気を感じ取る。


 待機室に雑音は響かない。あれだけ詭謀が渦巻いていた気配もまっさらに消え去り、今はただ祈りと覚悟を胸に秘めた者達が立ち尽くす場となっている。


 ジャックは冷や汗をかきながらも一切の瞬きをせず画面を注視する。これから回ってくるであろう自分の手番で、全てを決着させるべく読みを入れる。


 その隣、アリスターに至ってはもう順番が回ってこない可能性もある。


 だが、その僅かな可能性を逃さないために、アリスターは静かに瞑想をし遥か未来の局面を自分の中で読み進めていた。


 ──静寂の熱気。各々の余裕がなくなり、全員の目が背水に追い込まれた者の色へと変わる。


 衣擦れすら聞こえない部屋で、張り裂けそうな緊張感は絶頂に達している。


「失礼しまー……す」


 飲み物と軽食を運びに部屋に入ってきたスタッフが一瞬でその空気に飲まれ、頭を低くしながら飲食物を置いてそそくさと退場する。


 待機室は再び清閑のような雰囲気に包まれた。


 画面の向こう、天竜一輝の姿勢は棋士の風格を灯している。


 その後ろ姿から感じる想いは誇示にも似た自己主張であり、絶対の自信である。


 ──まるで、"俺を見ろ"と、そう訴えているようだ。


(……分かるよ、その気持ち。俺もカッコいい自分を見せたかった人がいたから)


 もう叶わない願いに想いを馳せるように、真才は少しだけ哀しい表情を浮かべる。


 ──そう、これは理屈なんかじゃない。


 誰かにカッコつけたいと思うのは、至極当然の感情だ。


 それがただの意地プライドだとしても、天竜一輝には退けない一線がある。


 全身全霊で戦い、舞う。そんな天竜の指し方に、赤利は感銘と動揺を同時に感じ取っていた。


「……なぁ真才、赤利は……」

「?」


 ※


 全ての相手が不倶戴天、向かい合う敵には全て勝ち続けなければならない。それが頂点に立つということ。


 ──そこで負ければただの凡人。


『カイン、お前がこの先の人生で何かを競い合う世界に身を投じたのであれば、これから言うことをよく心に刻め』


 それは学生時代に球技で大成し、引退後も事業関連で功績を残し続けた父親の言葉である。


『お前が心に決めた"唯一人ただひとり"以外には誰にも負けるな。これから出会う敵がどんなに強く、格上で、勝てないと思った相手でも、お前自身が心の底から1位を目指したいと思う世界なら、お前が決めたその一人以外には絶対に負けてはならない。……そして、お前が決めたその絶対的な王として君臨するその一人と最後まで高め合え。それが頂点に手を届かせる方法だ』


 そんな父の言葉は、いつしかカインの生きる指標になっていた。


 ──『唯一』。カインにとって、唯一の絶対的な存在はアリスターだった。


 王を見つけるのではない、王になる素質のある者を見つけることが慧眼への第一歩となる。


 カインにとって、未来にその玉座へ腰掛ける姿が明確に見えたのは、ただ真っ当な棋力という暴力で全てをねじ伏せるアリスターだけだった。


 知略、策略、計略、攻略。始まりから終わりに至るまで、アリスターはそれらすべてを常に兼ね備えている。


 向かうところ敵なし。このまま棋士の頂点へと成り上がる。その姿が容易に想像できる。


 故に、カインはアリスターに敗北することだけを自分の中で許容した。父の告げた言葉通り、自分の中で決めた唯一の存在、ライバルにだけは負けることを許容したのである。


 ──決して、今この瞬間対峙している目の前の男なんかに負けることを許容したわけではない。


「…………めるなよ」


 これは感情戦ではない、論理戦である。湧き上がる力も、火事場で得た集中力も、内に秘めた熱い想いも、ロジックの前では全てが無為むいになる。


 目の前の男がどう覚醒しようと関係ない。奮起から生まれる第六感など取るに足らない。


 誰にも見抜けない細工をもって、目の前の敵を打ち取る──ただそれだけでいい。


 秒読み限界ギリギリ、対局時計が残り1秒を告げてからの着手。


 それは、多くの者を騒然とさせた。


『三岳六段、これは同銀と取ると……?』

『同歩成、同桂で二枚替えですね。うーん……?』

『これはうっかり……とか、そういうアレですかね?』

『いや、それはないと思いますけど、ええ。ですが、意図はちょっとわからないですね』


 プロ棋士の三岳六段すら見抜けないカインの手の意味。当然である、このWTDT杯に至っては、三岳六段よりもカイン達の方が純粋に経験が多いのだから。


 今この瞬間も培われていく特殊ルールの壁は、将棋を生業とするプロ棋士にとっても異形の戦場に他ならない。


 これは将棋であって将棋ではない。通常ではありえない手であっても、それが相手を倒し得る切り札に書き換わることも往々にある。


 カインの指した手は、普通の将棋であれば悪手として扱われるような手だった。


 しかし、天竜は即座に返さない。


「……」


 その頃、別室で対局画面を注視していた沢谷もまた、カインの指した悪手に対し天竜と同じタイミングで静かに考え込んでいた。


「……そういうことだったのね」


 何かに気づいたようにそう呟く沢谷は、肩の力を抜いてため息を零した。


 それを傍から見ていた翠が微笑して言い返す。


「終わりね、こうなったカインはもう止められないわ」

「そうね。私も見くびっていた。あれだけ警戒して、きっとまだ上があるのだと予想を立てていたけれど、ここまで来るともう呆れてしまうわね……」


 沢谷は細い指で、画面に表示された選手の名前に触れる。


 それは翠が勝利を確信する材料となったカインでも、そのカインと真っ向から相対している天竜でもなく──。


(はぁ……これを倒すのにどれだけの策が必要なのかしら)


 沢谷は人差し指と親指で小さな輪っかを作ると、デコピンでもするかのようにディスプレイに表示された"渡辺真才"の名前を小さく弾いた。


 ※


 このルールの最大のポイントは『手数』にある。


 カインが指した一手が例え悪手であろうとも、その悪手を完璧に咎めるのにかかる手数を本来の将棋は考慮しない。


 しかし、このWTDT杯においては手数が15手を越えると強制的に交代になる。


 一手指すごとに残りの手数が減っていく中、相手の指した手が悪手であることに気づいても、それを後続の仲間が完璧に咎められる保証はない。


 ましてや最善を狙うのであれば、"自分の咎め方"と次に続く"仲間の咎め方"が必ず一致している必要がある。


 しかし、双子でもドッペルゲンガーでもない即席のチームでそれを為すなど不可能に近い。


 ならば行きつく結論はひとつ、カインの悪手は最善手としてまかり通る。──これが最初に真才が見せた『疑似頓死』のトリックの正体だ。


 真才の悪手をアリスターが完璧に見抜いていたとしても、後続のカインが同じ思考を持ち合わせていなければそのレールには乗れない。


 人の考えは千差万別、思考を完全一致させるなど達人の芸当。


 カインがその仕組みをこの短い対局の中で理解できたのは、何よりも自分がその術中に嵌った経験者だからである。


 そして、カインの指す悪手とは"妙手"に片足を突っ込んだ一手。相手を騙すなどと生温い策略の秘めた一手などではない。真上から叩き潰す『高段者』の一手である。


 そんなカインの放つ手に悪手と真っ向から異議を申し立てられるのは、それこそ全てを読み切れる機械くらいだろう。


 ──天竜の"勘"には、その手が悪手であることを告げている。


 しかし、その道を突き進むためには、自分がその悪手を完璧に咎められることと、次に託す仲間が自分と同じ思考、同じレールに乗って、天竜から受け継いだその手を一切のミスなく繋げられることが求められる。


 そんな高等戦術、普通ならできるはずがない。


 ましてやこの手をスルーしたところで数百点程度の形勢しか動かない。言ってしまえばただのかすり傷だ。


 やるメリットはない。否、そもそもやるはずがない。


 カインは天竜がそう判断するだろうというところまで読み切り、その数百点を稼ぐ悪手を延々と放ち続ける手を今のうちに考える。


 いくらかすり傷でも、小さな風穴でも、全身ハチの巣にされれば致命傷は避けられない。


 ──カインの術中に、嵌った。


 この土壇場の終盤、WTDT杯の終盤で浮かび上がる必勝の策。誰もが自分を一番だと思い込んでいる強豪同士のチームだからこそ生まれてしまう傷穴。


 対策を考える暇などない。なぜなら天竜の持ち時間は既に0で、最後の命綱となっている秒読みの針は今も刻々とその秒数を刻んでいるからだ。


 次の手を急かすように、秒読みの鐘が終戦への手招きを行う。



【『WTDT』ワールド・ザ・ドリーム・タッグ生配信板part16】


 名無しの812

 :まずいかこれ


 名無しの813

 :アカン気がする


 名無しの814

 :形勢は?


 名無しの815

 :>>814 『評価値』後手+213・互角


 名無しの816

 :互角……


 名無しの817

 :互角だけど互角じゃない


 名無しの818

 :カインが指す→日本優勢

  天竜が指す →海外優勢


  直近4手はこの繰り返しが起きてる


 名無しの819

 :>>818 後ろの交代気にしてヘタに咎められないのか


 名無しの820

 :まずいまずいまずい


 名無しの821

 :いや形勢結構揺れてない?


 名無しの822

 :形勢出すの早いぞ、天竜の手はまだ悪手と決まってない



 震えの止まった右手を膝の上で握りしめながら、天竜の思考は水底へと潜り続ける。


 その間にもカインの思考は次に指す天竜の手を確定させ、そこから派生する幾多もの読みを先んじて読み切り、再び咎め切れない悪魔的な悪手を1つ2つと創り出す。


 こうなればカインの独壇場である。あのアリスターがタッグの相手として選出したカインの本領とは、この対処しきれないほどの知略の殴打に他ならない。


 カインの弱点は強みと対比している。自分の流れに沿わない局面の才にミスが多発する傾向にあり、実際真才の『疑似頓死』に嵌められたりと、守勢にはあまり秀でていない。


 しかし、一度でも相手を穴に落とせば、カインの猛攻は灼熱の如き火を噴く。


 その実力は紛い物などではない。終局まで一直線に跳びぬける攻勢と一度掴んだ流れを絶対にものにするセンスが、対峙する相手を徹底的に追い詰める。


 残り5秒を切った。ここからは呼吸を忘れる時間である。


 天竜は考える。否、考えるフリをする。


 これは、天竜がカインの手を読み切れていないがための思考時間ではない。


 天竜の指す手は決まっている。カインの悪手はとりあえず見逃し、次に指すべき手を今のうちにギリギリまで考える。何とかこの攻勢を防ぎきってカインの手番を終わらせる。


 そう、この読み合いは今の悪手についての問題ではない。次の局面でどう指していくかの問題へとシフトしている。







 ──バカかと。


「……っ!?」


 音のない深海で波紋が広がった。


 かつての蟷螂の斧を振り回す自分を思い出すかのように、その片手に握った戦斧は大地に向けて一閃される。


 天竜は、迷わず最善を突き進んだ。


『まぁ、当然取りますよね』

『はい、ここまでは手順に──』


 それが当然のように解説する三岳六段の思考とは裏腹に、カインは天竜の手を受けて驚愕が止まらなかった。


(バカな!? なぜ……!?)


 天竜の予想だにしない選択に、それまで読んでいたカインのあらゆる作戦が全部崩壊する。


 巧妙な悪手に対して引き下がるのは当然の一手。後続への配慮は必須、カインの放った一手は一見美味しく見える毒饅頭なのだから。


 だが、天竜はそんなもの、知ったことではなかった。


 何故なら、天竜の後ろに控えているのは凱旋道場のエース、青薔薇赤利なのだから。


 ──継げないわけがない。どんなに荒ぶるパスだろうと、彼女は笑って取り切る女だ。


 それが天竜一輝の出した"結論"である。


(ブラフだ、強がりだ! お前達が即席で構成されたチームであることは知っている。なら自分だけの読みを他人に任せられるほど信頼も期待もしていないはずだ! 託せるはずがない、自分の手を他人に……!)


 カインのその理解は間違っていた。


 天竜は赤利に託したのではない。チームの連携など無視して、後続のことなど考えないで、ただがむしゃらに、ただ自分本意に、自分中心に、好き勝手大暴れすることこそが今この場における"天竜一輝"の在り方なのだと。そう思い出したからこそ、天竜は我が道を突き進むことを決意したのである。


 それが決して間違っていない、正しい選択肢の一つであると真才が身をもって証明した。そして求めていた。


 だから、天竜はここに決めたのだ。


 ──自分の最強の偶像を立てる。これが天竜一輝の"今"だと世界中に見せつける。


 それが舞蝶麗奈たった一人への、小さなメッセージになるのだと。






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 あけましておめでとうございます!

 今年もよろしくお願いします!


 次回は大サービスの9500文字でお届けです……!

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