「なら、作戦はこれで決まりだな」
WTDT杯の前日、わたしたち三人はそれぞれの役割を前もって決めていた。
相手は海外最強のチーム『ミリオス』。その強さは歴代の中でも屈指の実力を保持していると言われており、彼らのリーダー格であるアリスターを止めた者は、栄光と威厳を纏っていた当時の凱旋道場のみである。
彼らが未だにプロ棋士になれていないのは、実力というより運がなかっただけ。香坂賢人が導いていた凱旋道場に、史上最強の世代にぶつかっていたからに他ならない。
つまり、彼らミリオスの実力はもう、アマチュアという壁に阻める存在ではなくなっている。
そんな王の
でも、わたしは怯えなかった。恐怖も抱いていない。だってわたしも、彼らと同じような側の人間だったから──。
「どうした? 赤利」
考え込んでいるのがバレたのか、隣にいた天竜に声を掛けられる。
「……いや、なんでもないのだー」
「そうか? じゃあ続きを話すぞ。まず、順番がズレてアリスターと当たった時の対抗策だが──」
いつも通りのテンションでそう言い返すわたしに、天竜は納得して作戦の概要を話し始める。
WTDT杯の本番へ向けた作戦、それは前回の反省点を踏まえたものが大きい。
まず一つ目は、今回の戦い、必ずしも最短手数で交代する必要はないということだ。
練習試合ではわたしが一番強かったから、周りはわたしに合わせた形で手数の消費を考えていた。
しかし今回のチームは、わたしが考える限りの最強のメンバーだ。全員が全員の強みを活かせる状況であるのならば、各自が最長手数まで指すことも視野に入れて良くなる。
そして二つ目、『自滅流』の採用。
相手が格上だと断言付けたくはないが、このタッグ戦という特殊ルールにおいては一枚上手を行かれている可能性は低くない。
つまり、これまで通りの普遍的な戦い方をしていては、相手にペースを握られて作戦負けされる危険性がある。
そこでわたしたちは、真才が得意とする戦法である『自滅流』を採用することにした。
他者の得意とする戦法を、それもオリジナル戦法を短期間で習得するのは不可能に近いと言われている。単なる定跡系であればメアリーでも覚えられるだろうが、真才の使う自滅流は定跡の範疇に刻まれた手ではない。あれを常人に扱えるのなら、世界は自滅流の使い手で溢れているだろう。
しかし、わたしは一度その戦法をこの身で受けて知っている。それが仮に本質の一端だとしても、わたしは一度喰らった戦法の特異性を熟知しなかったことはない。
そして天竜もまた、自滅流を理解している者の一人。最近では真才をライバル視して対策に励んでいることからも、自滅流に関する知識は人一倍あるだろう。
そう、天竜は強い。第二世代の革命児と呼ばれた玖水棋士の弟子に隠れているだけで、この男の霧は今にも晴れそうになっている。
『これは"覚悟"じゃない。ペンを持ち、ただ綴るだけの"証明"だ』
黄龍の座に着くことができたその思想は、わたしを破るに相応しいものだった。
──唯一を破る。その気概と、それを為すに値するだけの実力を天竜一輝は持っている。彼は、わたしとは違う意味での天才だ。
そして、そんなわたしたち二人だからこそ、今回の自滅流は形を成せる。
誰もが驚く開幕と、誰もが予想だにしない逆転劇を見せるため、わたしたちはチームとなって手を取り合う。
「──以上だ。何か質問はあるか?」
作戦の概要を大方話し終えた天竜。その内容は単純ながらも充実したものであり、勝機は十分にあるものだった。
「うん、いいと思うよ。と言っても、俺はいつも通り指すだけなんだけど」
真才が弱気そうな表情で告げる。
対局の時とはまるで別人、芯も無さそうな砕けた雰囲気でいつも苦笑している。
「何言ってるんだ、自滅流はお前が要なんだぞ真才? 勝負所を見極めて、俺達にしっかり繋げてもらわないと」
「善処はするよ。でもそのアリスターって男がどのくらい強いのか、まだ分からないからさ」
そう、問題はアリスター戦だ。
カインとジャックの強さがアマチュアトップ帯なのは理解している。だが、アリスターだけは次元が違う。
あれはアマチュアの壁を越えている"棋士"だ。その猛威は直接戦ったわたしが一番理解している。
「赤利はあんまりあの男とは戦いたくないぞー」
「青薔薇は1番手だ。恐らく3番手になるであろうアリスターとはかなり離れているわけだから、そこまで心配することはない」
……だと、いいけど。
※
──そうして迎えたWTDT杯当日。短期間ながらもしっかりと作戦を練って挑んだわたしたちの対局内容は、驚くほどに凄惨なものだった。
「何が、起きてるのだ……」
開幕から気を衒って常道を崩し、自滅流の土台を築き上げたわたしのパスに、真才は完璧な形で入ったはずだった。
自滅流を受けても冷静に指し継いだジャックの柔軟な対応には一瞬ひやりとしたが、由香里の舌戦に焦った"アイツ"がすぐにアリスターに交代させてきた。
戦果としては十分どころか十二分だ。このままアリスターを抑えながら天竜に回すことができれば、中盤までの作戦勝ちは確実。
いや、真才が使う自滅流ならば、あのアリスターですら上回れるはずだと思っていた。
──あれは
しかし、あのとき真才が繰り出した一手は、光沢のひとつも浮かび上がってこないほどに乾いた一手だった。
頓死。
それは将棋の終幕を意味する言葉のひとつ。優勢だとか、劣勢だとか、そんな勝負が続いているかのような単語とはわけが違う。
──終わったのだ、この試合は。
悪手に反応する時間はそう多く用意されていなかった。なぜなら、対峙しているアリスターは真才の悪手にノータイムで切り返したからだ。
背水の名の元、薄氷の上でも確かに保っていたはずの拮抗が崩れた。アリスターはその瞬間を捉えて軽く突き飛ばしたに過ぎない。
世界から音が消えたような気がした。
交代を知らせる音が鳴り、絶望に浸る間もなく戦線の交代が始まる。
上の空で呆然としている天竜をなんとか呼び覚まし、わたしは何が起こっているのかを頭の中で必死に考える。
──考え、考え、考え続け。やがてそれが、何かを意図したものではない、単純な凡ミスである結論に行きついた。
数十秒後、疲労を纏ったおぼつかない足取りで待機室に帰ってくる真才。
たった数手、指しただけだ。
確かにアリスターと対峙することは、それなりの恐怖と緊張感が伴うだろう。それは分かる、分かるけど……。
「……おい、真才。話が違っ──」
そう告げようと伸ばした手は虚空を彷徨い、やがて膝の上に落ち着いた。
相手はアリスターと戦った功労者だ。それを批判する資格は、少なくとも今の赤利にはない。
後ろで勝ち誇ったような顔で嘲笑っているカインとジャックは、その視線を上に向けている。
画面を見ると、既に対局を再開している天竜がいた。
どれほど残酷だろう。勝敗が決まったも同然の試合に希望を見出すこともできず、それでも敗北に納得がいかないのか、天竜は最長手数で逃げ回ろうとしている。
頓死といっても数手詰みじゃない。自滅流によって多少散らばった小駒たちが功を奏して、その手数は30手前後に伸びている。しかも難解だ。
わたしやアリスターはそれが詰んでいるとすぐに分かるが、普通は分からない。何せ真才ですら分からなかったほどの難易度だ。アリスターに切り返されて初めて頓死していると感じただろう。
そう、直感と実際に指せるかはまた別の話。
今の評価値が相手に限界まで振り切れているのは理解しているが、将棋ではそれを完璧に咎め切って初めて勝利の二文字が手に入る。
アリスターであればその隙を見逃すことはないだろう。だが、カインとジャックはどうなんだ? それを完璧に咎め切るほどの読みが二人には備わっているのだろうか。
「あー、クソ。惜しいな……」
「チッ」
後ろの方で、二人の悔やむ声が聞こえた。
同時に、アリスターの手数が満了となって強制的に交代するブザーが鳴り響く。
──そして、それは天竜の方もまた、同じである。
「……由香里?」
思わず見つめた虚空の先から返ってくる返事はない。
まだ天竜の手数は残っている。わざわざわたしに交代させずとも、このまま継続してやればいい。どうせ勝敗は変わらないのだから。
──本当にそうだろうか?
乱雑に動く盤上の駒達。
かいつまんだ空の下で、誰もが項垂れるように思考の海へと入っている。
敗北は許容されない。敗北から逃れることもままならない。一度踏み入れた戦場は、二度とその逃げ道を開けることはないだろう。
誰かが戦況を打開しなければならない。逆転に
心臓に風穴を開けられた状況で、血を流し込むことはできるのか。頭を吹き飛ばされた状況で、何かを考えることはできるのか。
『これは"覚悟"じゃない。ペンを持ち、ただ綴るだけの"証明"だ』
ふと、天竜の言葉が脳裏を過ぎる。
不可能への証明を成し遂げたその言葉は、諦めたい気持ちを何度も何度も殴りつける。
アリスターと同様に盤上から離れた天竜。その表情は暗く、深層心理をあらわす目には影が落ちている。
──そうだ、これは頓死だ。
こちらは負けることが決まっている。どうやってもその事実から逃れることはできない。
だが、それは相手の
「おい、ジャック。お前この詰み読めねぇのかよ……?」
「んなこといわれても……あ、そうだ! アリスターさんに聞けばよくないか?」
「バカ、お前ルール忘れたのか? 俺は次の選手になるからアリスターとは会話できねーんだよ」
後ろの方で会話しているカインたち。その話の詳細は聞き取れないが、わたしは不意に気づいてしまう。
この勝敗を決するには、相手の最善が求められる。
どこまで行っても敗勢に立たされた事実から逃れられない。変わらない戦場に足踏みする余裕もなく、ただ前を向いて死に行く時間。
そんな中で、そんな状況で、そんな状態で──。
──なぜ、
「……オマエ、やっぱり何かしたな?」
そう問いかけるも、真才から返事が返ってくることはない。
一度始まった勝負に、この男は容赦を示さない。待機室、わたしと唯一会話できるこの状況下で、助言のひとつすら発さない。
なんて酷い態度だろうかと、そう思いもした。
……だが、わたしはこの勝負を捨てきれる覚悟がない。どこまでも追いすがるその勝負強さは、首を跳ねられても動き続けようとする、そんなくだらない意志に等しいものだと思っている。
だから、わたしはまだ活路を見出している。
敗北の中にある勝機に、空っぽの袋から取り出せる何かに、不可能に対してペンを持った愚者のように。
──この状況を覆せるのは、