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第百六十九話 神格がそこに

 WTDT杯が開催される会場にて、来崎は同じ部活メンバーの佐久間兄弟たちと顔を合わせていた。


「……なんだかんだ、考えることは同じなんですね」

「まぁな」

「俺は別に興味なかったんだけど、隼人がどうしてもっていうからよ」


 弟の佐久間隼人と兄の佐久間魁人は、近場のジャンクフード店で買ったコーラをストローで飲みながらそう答える。


 同じ学校に通い、同じ部活に所属している。しかし、今は黄龍戦の全国大会に向けた時間ということもあって顔を合わせる機会が少ない。


 鈴木会長が用意した各々の特訓メニューをこなすため、来崎たちは部活の時間を各自で消費しつつ棋力向上に励んでいた。


 そして今回は久々の休息日、東城を除くすべての部員は鈴木会長によって休暇を与えられ、自宅で休むことを推奨されていた。


 しかし、西ヶ崎将棋部の部員は根っからの将棋指し。休みと言えど、その過ごし方は将棋に起因するのだろう。


 来崎は立ち上がり、気付けばWTDT杯の会場に足を運んでいた。


 理由は簡単だ。──真才先輩が出るから。ただそれだけだった。


「今回の話、どこまで知ってます?」

「大体は知ってる。渡辺が凱旋道場のエースと手を組んで出るんだろ?」

「そうです。そしてもう一人は天竜一輝、西地区の元王者です」

「そうそうたる面子だな」

「自滅帝を知る俺達からすると特にな」

「……」

「……」


 魁人の言葉に二人とも沈黙する。


 そう、恐らく今回の大会は大きな波乱が呼び起される。


 自滅帝、渡辺真才の存在はそこまで公になっていない。それこそ、前回の黄龍戦県大会や来崎と直接戦ったライ帝聖戦は所詮、身内の争いに過ぎない。


 どれだけ対局が凄くとも、その枠はどこまで行ってもアマチュア同士の戦いだ。そこに注目を集めるほど、世の中の一般人は暇を持て余していない。


 ……しかし、WTDT杯は違う。これはアマチュア大会における数少ない公式戦であり、リアルタイムで全国配信される大型スケールの大会だ。


 そこに参加するともなれば、これまで無名だった渡辺真才の指し手が轟くかもしれない。いや、間違いなく轟かせるだろう。


 自滅帝の名が、本当の意味で広まる瞬間だ。


「何考えてるんだろうな、アイツ」


 隼人は観戦席に座りながら、カップの飲み手の蓋を取り、ジャラジャラと氷が混ざる音を鳴らす。


 常に先を読んできた男の初めての先手。いつも後手に回って火の粉を払うように対処してきた彼が、初めて自分から動き、大胆な行動に打って出た。


 ただ単純に大会に出たいから出場した。なんて理由じゃないことは、将棋部の部員ならみんなもう理解している。


(真才先輩の考えることなんて、私達に分かるわけがない。……でも)


 来崎は隼人の隣に座り、思考を巡らせる。


「あ、おい。俺の座る場所……まぁいいか」


 隼人の隣に座るつもりだった魁人は、奪われた来崎の隣に諦めて座る。


(真才先輩はゴールを決めていた。……ゴールは黄龍戦の全国優勝、ひいては"あの人"に勝つこと。つまり、今はそのための布石を打っている)


 全国大会で勝つための布石。言葉で言うのは簡単だが、このWTDT杯に出ることが一体何の布石になるというのか。


 そもそも、どうして彼はWTDT杯のメンバーに青薔薇赤利と天竜一輝を選んだのか。その選出に意味はあるのか。


 もし誰でも良かったのなら、貴方を倒すことのできた自分ではダメだったのか。


 ──そんな邪念が来崎の脳裏を過ぎる。


(……いえ、きっと真才先輩には考えがあるのでしょう。むしろ、こういう単純な考えに行きついてしまっているからこそ、私は選ばれなかったのかもしれませんね)


 強さとは、勝敗で決するものではない。勝った者が正義などというのは、その一瞬だけ効力を発揮する大義名分でしかなく、未来永劫は続かない。


 来崎が今もなお成長し続けているのは、真才に勝ったという事実に満足せず、ただ黙々と強くなることをやめていないからである。


 もし仮に、今回のWTDT杯に自身が選ばれていたら、きっと自らが選ばれたことに満足し、油断という圧倒的な敗因を持ち込んでしまっていたかもしれない。


 それを来崎自身もうすうす感じ取っていた。


 真才の口から述べない以上、実際の真相は分からない。だが、来崎は自分の中で様々な理由を検討した結果、合理的な理由を見つけられた。


 だからこそ、来崎は今回の大会に自ら名乗り出ることはなかった。


(東城先輩だったら、無理言ってでも参加したいって言ってたかもしれませんが……)


 今、東城美香は天竜の師匠でもあり弟子でもある舞蝶麗奈まいちれいなと特訓中である。


 大会は明日に迫っており、WTDT杯を見る暇など無い。気の毒だと思いながらも、彼女のことだから心配はいらないだろうと来崎は思う。


 それよりも、今はこのWTDT杯の行く末が気になる──。


「うわ、ライカっちもいるっすよ!」

「そのようだな!」

「あ、部長。来てたんですね」

「うおっ? なんだ、全員集合か?」


 入口から続々と観客が入場していき、その中に紛れた葵玲奈と武林勉が来崎たちを発見する。


「東城先輩以外は全員集まっちゃいましたね」

「ライカっちまで来るとは思ってなかったすけど、みんな考えることは同じなんすね」


 葵は魁人に手をこまねいて"どけろ"と合図を送る。そして元々魁人が座っていた席に葵が座り込んだ。


「なんで俺、隼人からどんどん離れて行くんだよ……」


 そんな魁人の隣にドスンと大きな腰を下ろす勉は、いつもと少しだけ雰囲気が違う童心のような眼差しを、ステージの中心にあるスクリーンに向けていた。


「まさか部長まで足を運ぶとは思いませんでしたよ。いつもは結構放任主義なのに」

「ハッハッハッハ! 当然だろう! タッグ戦とはいえ、渡辺君の晴れ舞台なんだ。大事な部員の成長くらいは見届けねばな!」


 結局東城を除く全員が集合することになったWTDT杯。その注目度はかなりの影響を及ぼすようで、来崎が後ろの席を一瞥すると、かつて北地区や東地区で猛威を振るっていた選手達が観客席に座っていた。


 前の席では中央地区の面々も座っており、その中には凱旋道場のメンバーもいたりする。


 まさに県内のオールスターに見守られる大きな大会。それは今回日本代表として名を連ねる選手達の実力を測りたい、という理由も大きいのだろう。


 しかし、来崎は左の一般席に座る観客たちの話声を耳に入れると、少しだけ眉をひそめた。


「ねぇ、今回のメンバーみた?」

「見た、なんか今回凱旋道場だけじゃないよね。てかこの渡辺って人、誰?」

「さぁ……? でもこの天竜って人は確か前に黄龍戦で活躍してたよね」

「どうだったっけ……覚えてないや。てかこれって日本で一番強い人が代表になるんでしょ? ワタシてっきり琉帝さんが指すと思ってたんだけどな~」

「えー? アタシは鴻巣さんかなぁ、あの人絶対プロ棋士になるし!」

「わかるー」


 これが一般的な反応なのだろうと、来崎はため息を零す。


 そもそもとして、今回会場に来ている観客達は何もWTDT杯だけを目的にしているわけではない。


 今日は年に一度行われる『将棋まつり』の開催日である。


 中央地区は毎年、この『将棋まつり』とWTDT杯を掛け合わせての同時開催を行うことにしているのだ。


 WTDT杯はメインイベントとして大きな枠を取ってあるものの、後ろの小さな会場では小中学生の大会や団体戦など、色々な将棋関係の催しが開かれている。


 以前の黄龍戦のように、真才や赤利達が覇を競い合う代表戦とは違い、一般戦やシニア戦、子供の部などに出場している選手達にとっては、上の戦いなど興味がない。


 中には凱旋道場の名前すら知らない者もいるほどで、真才の存在はあくまで一部の者にしか認知されていないというのが現状だった。


(……それも今日で終いになるだろうが)


 勉は肘掛けに腕を乗せ、今後の行く末を想像する。


(天竜君のようにあえて隙を見せてそれを逆手に取る選手や、青薔薇君のような全能感のある指し回しをする選手ならともかく、渡辺君の得意とする自滅流は、初見相手にこそ最も有用性を発揮できる技。それをこんな大きな大会で、しかも全国配信されるWTDT杯で披露するとなると、そのリスクは計り知れない。……一体何を考えてこの大会に出る決意をしたのかね、渡辺君)


 勉が内心そんなことを呟く中、会場の視線は目の前の巨大なスクリーンに注目されていた。


 会場の空気が次第に緊張感を増していき、観客のざわめきが少しずつ静まり、次第に焦点が同じ場所へと向けられていく。


 すると、キーン──とハウリングしたマイクの反響音が会場内に響き、全員の喋り声が一斉に止まった。


 やがて司会のスタッフがステージの壇上に上がり、その軽快な声と共に会場内にいる全ての者に告げる。


「お待たせしました! これより『将棋まつり』最後のメインイベント、WTDT杯開幕です!」


 大きな拍手が会場に内に巻き起こる。


 司会のスタッフは各選手のプロフィールや軽い経歴紹介を行い、日本vs海外という演出を際立たせるために、プロレス顔負けの煽り文句を入れたりなど会場内は大いに盛り上がりをみせつつあった。


 そして、この会場ではスクリーンでの対局様子を映すだけで、真才達が戦う場所は別な会場であることを説明される。


「あー……選手達が対局する会場は別なんですね、初めて来たので分かりませんでした」


 最近学校でも顔を合わせず、ご無沙汰だった真才の素顔を久々に生で見れると思っていた来崎は、この事実に少しばかり落ち込む。


「アオイは以前も来たことあるから大体分かるっすけど、観客が助言を口にする危険性を考慮して会場は別にしてあるっぽいっすねー。まぁ、これまでのWTDT杯は毎回凱旋道場ばかりが勝っててイマイチ盛り上がりに欠けてたっすけど」

「今回はそうじゃないっぽいけどな。アリスター、だっけ? 海外勢の中でもトップクラスのメンバーが出るらしい」

「あの凱旋道場のエースが負けるくらいっすからね、相当強いって話っすよ」


 そんな風に葵と魁人が話していると、いよいよ司会の挨拶も終わり、WTDT杯開始の合図とともに対局がスタートした。


 本人達には聞こえることのない大きな拍手が会場を包み、一番手となる青薔薇赤利と海外陣営のカイン・ディールの対局が映し出される。


 ※


「常道、と言ったところね」


 翠は対局映像が映し出されたディスプレイを眺めてそう呟く。


 対局が始まって数手、どちらも目立った動きを見せることはない。赤利もカインも、序盤で派手に動けば後続に負担がかかるため、最小限の動きで次の選手に繋げなければならない。


 ゆえに定跡、ゆえに常道。代り映えのしない序盤戦は、翠の口からあくびを出させるに足るほどつまらない戦いだった。


 青薔薇赤利、6手。


 カイン・ディール、7手。


 両者の手数は交代の権利が発生する5手を越え、沢谷と翠の手元にある交代のボタンが赤く点滅する。


 しかし、両者ともそのボタンを押す気配はない。


「由香里、アンタは赤利の使い方を全く理解していないわ。あの子は終盤の正確さに長けているのよ? 序盤はあのよく分からない渡辺真才とかいう新人を使って、中盤は現代の指し方に多少慣れている天竜一輝を出させる、そして終盤になってから温存していた赤利を出せば"多少"は勝負になっていたかもしれない。なのにそれを放棄して、しかも赤利を序盤から使うなんて愚鈍にもほどがあるわ」


 その構想は確かに定石である。


 今回のWTDT杯は5手以上、15手以内で交代できるルール。限界まで理想を敷き詰めるのであれば、交代を最小限にとどめて1周で決める方が理にかなっている。


 形勢が動きづらい序盤で一番弱い選手を使い、15手消費させる。その後、大局観に秀でた選手を中盤に使って、15手消費させる。


 この時点で片方の手数は30手、相手と合わせれば60手となり、局面によっては終盤に入っていることも多い状況だ。


 そこで、残り15手を青薔薇赤利に使わせることで形勢を一気に確定させ、合計90手以内に戦局をこちらのものにする。そして、素人でも分かるほど勝敗が決した状況になってからまた次の選手へと繋げば、大きな不安要素を残すことなく勝利をものにできる。


 実に合理的な戦術、文句の付け所がない。


 しかし──。


「先の練習試合ではそれをやって負けたのよ」

「あははははっ! そう言えばそうだったわね? あの時はアリスターに全部任せて見ていなかったけど、アンタは一番強い戦術を駆使してアリスターにボロ負けしたんだったわね!」

「そうよ」


 嘲笑するような口調で指さして笑う翠に、沢谷は怒り返すことなく冷静に答える。


「今回の順番決めは本人達の意向よ。赤利がたまには序盤を指してみたいって言うもんだから、私はそうしたまでよ」

「それを世間ではヤケクソって言うのよ。常道しか指せない神童が序盤に何を見せれるっていうの? 赤利はアンタのチームのエースでしょ? そのエースが持つ貴重な15手を消費してまで、序盤で定跡を指してハイ交代? お笑いね。由香里、アンタ黄龍戦で敗北を刻まれたからって自暴自棄になってるんじゃない?」


 真を突く、翠の正論に沢谷は意表を突かれたかのような表情をする。


 しかし、『ぷっ』と我慢できなくなった笑いを口から漏らすと、翠の発言に初めて辛辣な言葉で反論した。


「──バカじゃないの?」


 瞬間、翠の持つ金色の瞳がガンを飛ばすように沢谷を睨んだ。


「赤利が常道? ……ふふっ。翠、アンタ──いにしえに生きてるわよ」

「は? ……なんだと?」


 赤利のような口調になる翠に、沢谷は告げる。


「私は凱旋道場の師範よ? これまで見逃した勝利は一度もないし、全てにおいて勝ち続けてきたわ。だから私のチームは『無敗』なのよ」


 何を根拠に言っているのか、沢谷から詭弁以下の暴論が繰り出され、思わず翠は固まってしまう。


「……何言ってるの? とうとうネジが飛んだの? アンタはもう何回も──」


 ──負けている。そう思う翠は、ふとディスプレイに映った画面に目を奪われた。


 沢谷由香里が小物であるということは、翠の中で確定された情報である。


 凱旋道場の師範でありながら、黄龍戦で敗北を喫し、青薔薇赤利を全国に連れていけなかった負け犬。


 概ね、大半の支部や道場からの意見も似たようなものだろう。調子に乗っていた者の辿る結末としてはよくある光景だ。


 しかし、翠はひとつだけ誤解している点があった。


 凱旋道場は第十六議会に属する組織的な道場でありながら、その一切の責任と権利を沢谷由香里に託している。


 そして、選手が常に脚光を浴びている中で忘れがちだが、凱旋道場の生徒に課せられるノルマは非常に重い。絶対に勝つことを強制され、それを破れば即破門という常識を逸した厳しさで運営されていた。


 つまり、その責任は何も選手だけに課せられるものではない。沢谷由香里も同様である。


 采配を間違い、負けるようなことがあれば、沢谷の首は速攻で飛ぶ。むしろ現場で活躍する選手よりも、沢谷の責任の方が重いまであった。


 だが、沢谷はこうして未だに凱旋道場の師範として生きている。WTDT杯の練習試合で敗北してもなお、沢谷は未だに凱旋道場の師範で在り続けている。


 これに疑問を抱けたのは、赤利を除いては全く関係性を持っていない真才のみであり、沢谷がなぜ『負けていない』と誇示するかを理解している者は誰もいない。


 凱旋道場はその名を崩してはいない。──負けた者は、二度とその道場の敷居を跨ぐことは許されない。


 ではなぜ、黄龍戦で負けた赤利達が破門になっていないのか。


 なぜ、その采配を命じた沢谷由香里は一切の責任を取ることなく、未だに凱旋道場の師範として立っていられるのか。


 なぜ、WTDT杯の練習試合であれだけの大敗を喫してもなお、上は咎めようとしないのか。


 ボロボロになった凱旋道場の旗を、上層部は決して許さないはずである。それをゆる寛容さがあるのであれば、あれだけ厳格なノルマなど課してはいないはずである。


 答えは、沢谷が何度も告げている。


 凱旋道場は、勝って帰るのが原則である。


 ──勝って、帰るのである。


 ■


『これが西ヶ崎高校の新しいエース? …………へぇ、私の知る限りだと、この棋風を描けるのはネット将棋最強の自滅帝だけなんだけど、もしかして本人? 指し手がそっくりよ。……真偽が知りたい? なら地区大会で天竜君をぶつけてみましょうか。彼を倒せるのなら間違いなく本物のはずだから』


 ■


『凄いわね。あの逆境から勝つ指し回し、期待通りの、いや……期待を越えた強さだった。……これなら、赤利の荒療治に対応できそうね。さっそく黄龍戦でぶつけるわよ』


 ■


『そこの二人組。えーと、佐久間君だっけ、ちょっといいかしら?』


『誰だ?』


『アンタ、確か凱旋の……何か用か? 俺達、今大会に向かってるんだが……』


『これから初戦の東地区と戦うんでしょう? でも、その前に少し厄介なことが起きててね、付いてきてくれる?』


『その前にその厄介事について説明してくれ、このままじゃ遅刻しちまう』


『そうだ、俺達の対局時計はもう動いてるんだぞ? それとも中央地区の謀略か?』


『ごめんなさい、別に他意はないのよ。ただ、アナタのところの勉……部長さんが立花徹と揉めていてね。このままだと大会の進行に悪影響が出るから何とかしたいんだけど』


『……』


『……』


『できそう?』


『……分かった、多分"アイツ"を呼んで来れば片付くと思うから、一旦戻る』


『えー、大丈夫なのかよ兄貴? 今から戻ったんじゃ時間ギリギリになるだろ……』


『大会が失格になるよりマシだろ』


『そうだけどさ……はぁ、分かったよ、戻るよ。俺が先に走っていくから、兄貴はタクシーでも捕まえててくれ』


『分かった』


『あー、あと言い忘れていたけど、アナタのとこにいた渡辺真才君だっけ。彼、どうやら自滅帝本人らしいわよ?』


『は!?』


『マジかよ!?』


『証拠ならSNSに挙がっているから、よく見ておくことね』


 ■


『これで大会中に知って情緒を乱すことは無いと。仲間の問題とはいえ、随分と慎重な根回しだこと。……さて、戻りましょうか』


 ■


『これで私の仕事は終わり、今度はアナタの番ね。──真才君』


『はい』


『うちの赤利を、よろしくね』


『……言われるまでもありません。楽しませて頂きます』


『それじゃ短いけど、私達の関係はこれで終わりね。次会う時は"初めまして"よ?』


『分かりました』


『じゃ、頑張ってね。……あ、最後にアドバイスってほどじゃないけど』


『?』


『──ラムネくらい食べてもいいと思うわよ? アナタには万全を期して欲しいからね』


 ■


『──"西ヶ崎をやる。報酬は青薔薇赤利に支払った"……だそうなのだー』


『……本気?』


『本気。赤利は受け取った。……やられっぱなしなんて、凱旋の名が立たないだろ?』


『もう折れてる名よ』


『倒れた旗を立ち上げるには誰かが持ち上げる必要がある』


『……分かったわ、会長のところに行ってちょうだい』


『これで議会は渡辺真才に足を向けて寝られなくなるのだ、あははーっ』


『ほんと、権力を動かす学生なんて聞いたことないわよ』


『にゃはは~、それじゃあ行ってくるのだー!』


『……事は順調、か。また会える日を楽しみにしているわ、真才君』


 ■


『初めまして、沢谷さん。渡辺真才と言います』


『あー……アナタの噂はかねがね聞いているわ、真才君。私は沢谷由香里、凱旋道場の師範で、今回のWTDT杯におけるアナタ達の指揮を任されている者よ』


『よろしくお願いします』


 ■


 翠は沢谷の経歴を知っていながら、その本質を理解していなかった。


 玖水棋士竜人という伝説が唯一認めた弟子、香坂賢人を作り出した存在が誰なのか。


 愛染、瑞樹、武林。かつて凱旋道場を天下の道場へと導いた彼らが、一体誰に教えを乞うていたのか。



 全て。そう、全てにおいて沢谷は失敗していない。



 無名だった凱旋道場を天に昇らせたのも、王者の座に着いた凱旋道場を地に落としたのも、沢谷由香里である。これまでの全ての結果に、先回りして答えを出し続けてきたのは、まごうことなき彼女の手腕である。


 その沢谷が今回のWTDT杯に勝利の烙印を押そうとしている。


 その意味が、その一端が、今──翠の見つめるディスプレイで片鱗を見せ始めた。


「は……?」


 常道──赤利がそれしかさせないのは確かな事実である。確かに、黄龍戦の県大会までは、赤利の手は常道に則ったものだった。


 しかし、人は成長する。敗北を得たからこそ成長するものがある。


 沢谷にとって、重要なのは黄龍戦で勝つことなどではない。誰もが注目する大きな大会で負けてしまうこと、負けて帰ってしまうこと、これを避けることだけが最も重要なのである。


 沢谷にとって、アリスターの来日は想定内だった。今や日本よりも力を付けている海外支部が後々の脅威になることくらい、沢谷はとうの昔に理解していた。


 だからこそ、あのまま赤利を黄龍戦で優勝させていては、このWTDT杯で大敗を喫する羽目になってしまうと危惧していた。


 天狗の鼻は折らなければならない。しかし、正しい折り方をしなければ尾を引いてしまう。


 真才には自ら接触を行い、その思慮深さに感服して互いの正当な交渉を成立させた。


 二人しか知らない、完全な秘密裏による短い契約である。


 そのおかげもあってか、赤利は黄龍戦でボロボロに負けて帰ることなく、真才との戦いで確かに得られたものとともに帰ってきた。


 ──勝って帰ってきたのだ。


 赤利が"楽しかった"と口にした時、沢谷はそれまでの苦労が全て報われた気がした。


「は……? は……っ?」


 そう、彼女こそ全てにおいて勝ち続けてきた女。凱旋道場における、本当の魔女。神格とも呼ばれる天才の中の天才は──今、そこに。


「なに……あれ……何なの、あの戦法……!?」


 自滅流を見て驚く翠。見たことも聞いたこともない戦術の姿がその目に焼き付く。


 しかも、指しているのは真才ではない。赤利である。


 常道と罵られた、赤利が指したのである。


「赤利が定跡を外す……? あの子が、邪道に走ったの……? 由香里っ!」


 向けられた視線は既にこちらを射抜く視線と交わるだけ。


 鋭い眼光を飛ばして睨みつけようとする翠は、先んじて向けられていたその眼に敵意を消滅させられる。


 無敗道場という旗印も消え、負け続けることに慣れてしまった道場の師範。


 勝つ気はないと思っていた。


 負けることに怒りがないのだと思っていた。


 だが、その眼は、その信念は、一切変わらずそこにあり──。


「私、凱旋道場の師範なのよ? ────じゃない」


 小さく吐き捨てられた言葉は、翠の耳を貫通する。


 ■


『──全く、あの魔女を凱旋から降ろすことはできんのかね?』


『無駄だ。今彼女を失ったら凱旋の瓦解は時間の問題になる。あの女はそれを分かっててわざと凱旋を地に落としたんだ。自らの手が無ければ歩くことさえ叶わないと、そう我々に突きつけるためにな』


『恐ろしいものだ。銀譱を真っ向から退けたの少年もそうだが、我々がただこうして椅子に座る愚かさを咎められている気分だよ。……一体今年の棋界はどうなっているのやら』


 ■


 それは、凱旋道場に無敗の冠を被せた魔女であり、プロを食い散らかす怪物の卵を産ませ続けた真の鬼才である。


「なに、言って……」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった翠は、自身に向けられた単語の意味を紐解こうと聞き返す。


 しかし、再び紡ごうとする沢谷の笑みに、翠は今まで感じたこともないほどの恐怖を抱く。


 翠はこれまで、恐れられることはあっても、恐れることはなかった。


 凱旋が勝利を持って帰ると言うのなら、翠は勝利が初めから用意されている。


 青薔薇赤利を越える天性の才に、多くの者は膝をつき、あのアリスターですら服従した。


 敗北とは相手に突きつける言葉であり、勝利とは自分にのみ与えられる言葉。それが翠の中で決められた鉄則だった。


 しかし、目の前の女はそれを真っ向から、真正面から否定した。


「──アンタごときに」


 悪寒がした。目を見開いた。


「 私 が 負 け る わ け 無 い じ ゃ な い ? 」


 圧巻の宣言に、翠の耳はその言葉を受け入れられないまま硬直する。


 代わりに聞こえたのは、鉄が地面を抉る音。ボロボロになって倒れたはずの凱旋道場の旗を持ち上げ、その先端を誰よりも力強く地面に突き刺した音。


 ただそれだけが、翠の耳に響き渡るのだった。


「13手。そろそろ交代の時間ね。まぁ、画面越しだから聞こえていないだろうけど」


 沢谷は点滅したボタンを押して、翠よりも先に交代を宣言した。


「──さて、真才君。後は頼んだわよ」









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 今回は新作『トバリの三月』連載記念ということで、4話分の約1万文字という大ボリュームでお届けしました。楽しんで貰えたなら嬉しいです。

 でも、さすがに疲れたので2週間ほど休ませてください…



『トバリの三月』

 https://www.neopage.com/book/30048696720023700


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