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第百六十六話 傑物

 弱い。あまりにも弱い。


 初めて対峙した凱旋道場の実力を垣間見た時、カインは思わず呆れと嘲笑を心の中で吐き捨てた。


 かつて、凱旋道場は日本のトップに位置する道場だったらしい。


 世界を巡ってもこれほどの傑物けつぶつはそういない。そんな評価を受けたアリスターが唯一恐れた日本の道場。それが凱旋道場だった。


 ゆえに、カインたちは気を引き締めてWTDT杯の練習試合に臨んだ。


 練習試合と銘打っていても、これは単なるリハーサルなどではない。会場が無観客で公式に棋譜が残らないだけで、勝敗は明記され、ネットには本番の事前確認としてリアルタイムで棋譜が公開される。


 それは日本の多くの者が目にするだろう。多くの者が目にし、その中には自分達をプロに押し上げるために要となる存在もきっと混ざっている。


 それに、凱旋道場は敗北を良しとしない、その名の通り凱旋だけを掲げる無敗道場。


 そんな道場を本番前に潰すことができれば、これ以上のアピールはないだろう。


 ──そして実際、そうなった。


 将棋に興味を持つ多くの日本人が自分達に注目し、今のアマチュアの世代は日本にあらず、海外にあり。そう伝える結果となった。


 上々。アリスターがそう呟いたことで、カインは自分達の夢が目前まで迫っていることを確信する。


 そして今、舞台は整った。


 向かい合って入場してくる凱旋道場、いや──『無敗』チームの面々たち。


「すげぇ……こんなところで指すのか……!」


 その中の一人、見たこともない平凡な顔付きをしている男が緊張感のない態度で会場の風景に感服している。


「なんだアイツ。おい、ジャック。あの日本人知ってるか?」

「知らねーな、オケツって奴じゃねーの?」

「ホケツな、お前これからプロになるんだからもう少し日本語勉強しとけよ」

「わりーわりー」


 カインとジャックは冗談交じりに笑い合う。


 実際、急に目の前に現れた男のことなどカインは知らない。練習試合の時と同じメンバーで来るものだと思っていたが、青薔薇赤利を除いて一新されていることにカインは鼻が高くなる。


「クククッ、それにしてもあれだけ意気揚々と向かってきたくせに、本番になったらメンバー入れ替えかよ。自分達では敵いませーんって言ってるようなものじゃねーか」


 心底、期待外れな連中である。


 カインは過去にアリスターから聞いていた。


 初めて日本に来て凱旋道場へと挑んだ時に、自分はまるで格下のようにあしらわれたと。プロはおろか、アマチュアの席にすら座る資格がないと指し手で分からされたと。


 普段から豪腕の如き知略と度胸で物事を打ち破ってきたアリスターが、あれだけ弱々しく自分の情けなさを語ったのは初めてだった。


 カインはその衝撃を今でも覚えている。あのアリスターがあそこまで弱った顔が今でも脳内に焼き付いている。


 だからこそ、カインはこのWTDT杯に挑むために3年もの時を見送った。


 あのアリスターがあそこまでされる場所、そんな場所に今の自分が挑んでも敵うはずがない。そう踏んで3年もの間を棋力の上昇に費やした。


 その途中で海外支部最強と名を馳せるようになったジャックを誘い、アリスターの完全復帰を機にこのWTDT杯に臨んだのである。


 これはただの遠征ではない。


 カインたちはプロ棋士になりに来たのである。このWTDT杯で勝利を刻み、編入試験の資格を貰い、プロ棋士になる。そして名だたるタイトルを制覇し、将棋が日本だけの取り柄でないことを証明する。


 これは海外の意地だ。チェスでは決してなし得ない。国が、他国だけが、自分達の中で極めた文化を全く別の国の選手が凌駕する。これこそ知に相応しき王座への着席である。


 カインたちにとって、この勝負はその始まりに過ぎなかった。


「さて、やるか」


 そう言って、カインとジャックの背後からアリスターが姿を現す。


「ああ」

「今度は2分で決着付けてやるよ、日本人」


 カインとジャックもそれに続いて首や手首を鳴らす。


 激しい照明。目の前には輝いた盤、無数に設置されたカメラと対局時計。それを監視する棋譜取り係。


 周りには誰もいない。観客は全員別室で生中継での視聴。これは観客の声に助言となる言葉が一言でも紛れないようにするためである。


 この場には誰もいないが、日本中から注目されている緊張感は空気となって会場を支配している。


 ──準備は整った。


 いよいよ始まる。アマチュアだけの世界大会。日本と海外のプライドをかけたぶつかり合いが。


「それでは、両者先鋒の方、着席ください」


 そう言われて一歩踏み出したのは青薔薇赤利とカインの二人。


「始まるな」

「……ああ」


 それを遠目から待機席に座って見守る真才と天竜。


「ふふっ、それにしても大胆なことを考えたな、真才」


 天竜は口元に手を添えると、策士の顔で笑みを浮かべた。


 WTDT杯開催までの数日、真才たちは当然無策で挑むことはなく、いくつもの作戦を用意していた。


 しかし、そのどれもが真才の発案ということもあって、常軌を逸するようなことばかり。天竜にも理解しがたいものも含まれていた。


「勝つだけなら目を瞑ってでもできる。問題なのは"どう勝つか"だ」


 誰もが勝利を目的とするこの戦いにおいて、真才はその先を行っている。


「……恐ろしいよ、お前のその考え方」

「……そう? よくある考えだと思うけど」

「これだけ注目された戦いでその発想を出してるのが恐ろしいんだよ」


 何を考え付いたのか、どんな作戦があるのか、アリスターを含む海外陣営は何も予想していない。出来てすらいない。


 所詮やっていることはただの将棋、それ以上でもそれ以下でもない。作戦なんて立派なものが早々生まれ出るはずもなく、多くの人間は棋力や実力といった大雑把な感覚でしか物事を判別しない。


 誰であっても、考えるという行為はめんどくさいものだ。ある程度は読んでも、先の先まで読むのは疲れる、神経を使う。そんなものは将棋の盤面でだけ行えばいい。


 だが、真才はそれを苦にしない。真の傑物は必ず傑物たる所以を持つ。


「──連中、ぶったまげるぞ」


 そんな天竜の呟きと共に、WTDT杯の対局はスタートした。


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