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第百五十五話 渡辺真才の思考

 泡沫の中で見る光景はいつも決まっていた。


 父の面影。記憶の中からうっすらと消えつつあるその顔が、この時だけは鮮明に思い出せる。


 記憶の片隅には刻まれている。まだ覚えている。顔だけじゃない。声、言葉、父と指した将棋の内容。


 目の前で泡が弾けても、俺の目には確かにその光景を記憶の断片として認識していた。


「……参ったな。本当に負けるとは思わなかった」


 白く靄のかかった顔が視界の上に現れる。それを俺は目を凝らして見つめるがハッキリとしない。見えないというより、覚えていないのだろう。


 白く靄のかかったその何者かは、満足そうな笑顔を見せて将棋盤に手を伸ばすと、自分の王様を掴んで盤上に投げ捨てた。


「世界で一番強い相手を倒したというのに随分と不満な顔だ。負けた私はこの勝負で沢山のものを得られたというのに、勝った君はまるで全てを失ったような顔をしている。そんなにこの勝ち方が気に入らなかったのか。……ならなぜ指した?」


 朗らかな表情と口調でそう尋ねる男に、それと対面した見覚えのある影はただ沈黙を貫いた。


「……そうか。それが君の幕引きか」


 白い靄が更に強くなる。


 乱雑に散らかった駒は、どうなっているのかよく分からない。そもそもその駒にはどんな文字が刻まれていたのか、どんな形をしていたのか。……どんな動きをするのか、分からない。


 俺はそれを知っているはずだ。でも、その光景を見ている瞬間は忘れてしまう。


 強い指し方だった。誰よりも強く、的確で、苛烈な一手。それが途方もない天上にいる存在の首を打ち取ったことなど、当時の俺には分からないだろう。


 記憶があった。断片的な記憶。


 ただその一時、その瞬間で何かを感じていたのだろう。


 俺には、『それ』が世界で一番強い指し方だと思った。


「勝利に意味なんて無い」

「……そっか。それが渡辺・・君の見解というのなら、私が何かを言う義理はないよ。それもまた、君の創る将棋の一端なのだろうからね」


 誰かに問うその言葉の響きは、いつしか俺が聞いた言葉と重なった。


 ただ、ただ……その何よりも暗い表情を見てしまって、俺はどうしても証明したくなったんだろう。


 ──俺の尊敬する人の将棋が、他の誰よりも強いのだと。


 ※


 小鳥のさえずりが聞こえてくる早朝。


 重たい瞼をあければ、そこには部活のみんなで撮った集合写真が置いてある。


 大会の時に一緒に撮れなかったから、部活で全員が集まった時に撮ったものだ。


「……夢か」


 ふと振り返ってしまう夢の光景に、俺は思わず拳を握りしめた。


 どんなに強い精神を持っていても、寝ている間は無防備になる。それが曝け出された夢の中で、俺はいつまでも過去に囚われているのだと理解してしまう。


 強くなくとも、強くあればいい。しかし、どれだけ強くあっても、それは力が増しているわけではない。結局は、強くなくてはならない。


 そして強さとは、強がりではない。努力と研鑽によって積み重ねられた経験のことだ。


 それを得たうえで強くあるべきだと、父は言っていた。


 今の俺は、あの頃と比べて強くなっただろうか。


 ──いや、それを今から確かめるんだ


「10時……そう言えばもう約束の時間か」


 俺はスマホを一瞥し、今日予定があったことを思い出す。


 現状、俺達が目指すべき場所は全国の頂点だ。


 俺を含めて各々の思惑はあれど、目指すべき場所そのものは全員同じだと信じている。


 しかし、全国には今までとは比にならない猛者がいるだろう。確証があるわけじゃないが、そんな予感がする。


 現に、今回の黄龍戦で銀譱委員会がなぜか大きな重きを置いている。たかが学生を貶めるためとはいえ、なぜあそこまで黄龍戦の出場を食い止めようとしているのか分からない。


 青薔薇赤利から全容を聞いたわけではないが、凱旋道場もまた今回の黄龍戦に絶対的な勝利を付随していた。そして、凱旋道場は第十六議会の傘下だ。これは偶然だろうか?


 組織立っての思惑とはフィクションのようにひとつの真実に繋がる道とはならないだろう。現実はもっと抽象的で婉曲えんきょく化された真実だ。


 だからこそ、確信が持てているわけではない。何かがある、というほど大きな思惑が動いているわけでもなければ、何もないというほど真っ白な戦場ではない気がする。


 ゆえに、日本トップクラスのアマチュア集団である凱旋道場を倒した俺達が、この黄龍戦で簡単に全国優勝を果たせるかというと、疑問が残るわけだ。


 それに、黄龍戦には──香坂賢乃が出る。油断なんて出来るわけがない。


 別に今全国を取らずとも、次回の大会で勝てばいいんじゃないか、これから大会は沢山あるのだし、焦って今切り詰めなくともいいんじゃないか。


 ……と、そういう妥協する考えはあるかもしれない。


 だけど、俺はその考えを採用するつもりはない。ここで勝たなければ、きっと俺はプロにはなれない。仮になれたとしても、そこにいる俺は弱い俺だ。無意味な俺だ。


 この黄龍戦を逃せば、俺は最悪な相手とまた相対することになる。


 "彼"は俺の想像をはるかに凌駕する存在だ。賢人とはまた違うベクトルの怪物、いわば相性の悪い相手。


 俺は奇跡的にその男に勝った。いや、勝たせてもらった。


 その奇跡を逃すほど、勝負の勘を鈍らせたつもりはない。


 だから、出来ることはすべてやる。今この瞬間にもだ。


「……」


 一通りの身支度を終えた俺は、家のドアを開けて外へと出た。


 鈴木会長を味方に引き入れたのは、もちろん降りかかる火の粉から守るための傘の役割を担ってもらうという理由もある。


 しかし、もう一つ重要なのは、俺がこうして自由に行動できる時間を確保するためだ。


 東城に関する布石は打った。他のメンバーに関しても俺からできるサポートは最大限行ったはずだ。


 後は各々が成長するための壁を破ってくれればいい。


 別に部長気取りをしているわけじゃない。こうやって部員のサポートをするのは武林先輩や鈴木会長の仕事だというのは理解している。


 だから、俺は俺にできる範疇のことをしたまでだし、俺もまたみんなの力を借りて色々と助けてもらっている。


 それに、武林先輩に頼るというのは、今後を見据えた時にあまり良くない気がしていた。


 ──不穏。というほど悪辣なものでもない。


 武林先輩は味方だ、それは間違いない。


 だけど、味方なりの不穏さというのも抱えている。そして、それは一種の有効な切り札になり得る。


 敵を騙すには味方からという言葉もあるように、その不穏さは直感に頼らずとも分かるほどのものだ。


 誰も知らない。武林先輩の影が段々と薄くなりつつあるのを。


 あれだけ大柄でありながら、あれだけ声を大にして反応を示しておきながら、段々とその存在感を消していっている。


 天賦の才とでもいうのだろうか。自然か意図的か、どちらにしろ俺は触れない。その刃が姿を見せるまでは。武林先輩に頼り切ってその手札を切らせるわけにはいかないから。


 味方ゆえに騙されてあげるというのも筋。信頼とは相手を疑うことではなく、相手を信じて己の道を進み続けることだ。


 人には人の人生がある。全てを自在に操ろうなんて、そんな傲慢な考えだけでは天下は取れない。


 ゆえに、俺自身にも成長が必要だ。絶対的な成長。あの来崎を上回るほどの成長が。


「暑っ……」


 ギラついた日差しが照りつく道端。何も持たず外に出た俺は、その足を迷わせることなく、ある者のいる方角へ向けて歩き出した。


「さて、行くか。──天竜一輝最悪の相手に会いに」




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