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第百四十一話 誰よりも強い一歩を・中編

 ここが自分の家だと認識するまで、数秒はかかった。


 朧げな悪夢から逸らし続けた数分、いや、数十分ほどか。


 目が覚めたと同時に視界に広がっていたのは、逆行した時間と同じ部活の仲間の姿だった。


「…………東城、さん……?」


 寝ぼけているのだと思いながら、夢か現実かの区別もつかないまま呟きだけが先走った。


 時計の針は17時を指している。確かさっき家に着いたのは18時だったはずだ。時間が逆行している。


 ……いや、これはつまり、丸一日寝ていたということか。


「大、丈夫……?」

「……えーと……なんで、家に……?」


 現状を整理しようとしても、今ある状況が受け止めきれずに上手く言葉が紡げない。


 そもそもなんで東城たちが俺の家に来てるんだ? 玄関の鍵は?


 ──あぁ、そっか……俺あのとき、気が動転したまま締め忘れて……。


「うーむ。そこに関しては弁解の余地もなく謝罪させてほしい。急を要する理由で勝手に入ってしまったんだ。すまない」


 武林先輩が俺の前に出て頭を下げる。


「何度もインターホン鳴らしたんだがな。……まぁ、今のお前にとやかく言うべきじゃないか。悪いな渡辺、俺達はお前が心配で来たんだ」

「俺が……?」


 隼人が首肯すると、葵がバツの悪そうな顔で封筒に入った紙を俺の前に見せる。


「あの……ミカドっち……これなんすけど……」


 封筒の中から出てきたのは、俺の名前が書かれた退部届だった。


「これは……っ!」

「ご、ごめんなさいっす! あ、アオイたちが何かしちゃったからですよね? 原因があれば直しますから! だからせめて話すくらいは……!」

「いや……まって……え?」


 驚いた顔でそれを手にする俺に、佐久間兄弟と武林先輩以外は怪訝な顔を浮かべた


「真才くん……?」

「俺はこんなもの、書いた覚えはないけど」

「……え?」


 よく分からない現状に視線を右往左往させる俺と、目を大きく見開いて固まる東城達。


 重い空気の中、葵がおどおどしながらその退部届を手に取る。


「だ、だってこれ、ミカドっちの名前が……」

「確かに俺の名前が書かれてるけど、字の書き方が少し違うし、そもそも俺はまだ学校に行ってないよ……」


 その言葉に東城たちは驚いた顔で目を丸くしていた。


 その退部届に書かれていた筆跡は俺が普段書く字によく似ている。だが、似ているだけだ。俺から見れば自分で書いた文字出ないことくらいは判別がつく。


 しかし、一体誰が俺の退部届を偽造したんだ? 誰が何のためにこんなことを? いたずらにしてはあまりにも稚拙というか、それをするメリットが無くないか?


 いや、それを考えるのは今はよそう。とにかく東城たちが俺の家に来た理由は分かった。


 恐らく、誰かがいたずらで提出した退部届が俺のものだったから、東城たちは心配になってきたということか。


 なんだ、てっきり……。


「じゃ、じゃあミカドっちは退部することはないんすね……!」

「う、うん。なんか心配かけたみたいでごめん」

「よかったす~……! アオイ、ひとまず安心しました……!」


 葵はほっと胸をなでおろしたように息を吐いて安堵した。


 しかし、その横でそれまで黙っていた来崎が怒りの籠った声で呟く。


「いや、全然よくないです」


 それは、声量の小さな怒号に近かった。


 俺に向けて、というよりは全方位に対する放射状の矛先。向くべき怒りの先を知らないまま怒っているような、そんな感じの声色だった。


 そしてそれに同調するように、東城が俺の前にかがむ。


「真才くん、何があったの?」

「……何、って?」


 俺は誤魔化すようにそう答える。


 すると、東城はその小さな指先を俺の目元に寄せて、僅かに触れた。


「目元、赤い」

「……っ」


 いきなりの行動に、俺は思わず顔を背ける。


「た、退部の件で来たんだよね? 俺のことは大丈夫だから、これはただ疲れていただけで──」

「真才先輩」


 来崎が割って入り、俺の言葉を遮った。


「退部届を見た時、少し違う驚き方をしてましたよね?」

「え?」

「ど、どういうことっすか?」


 疑問符を浮かべる二人に、来崎は容赦なく言葉を続ける。


「まるで先の景色でも見ているかのような、別な視点から物事を見た時の驚き方というか。──そう、あえて言うなら、かのような驚き方です」


 勘だったはずだ。あてずっぽうだったはずだ。だってその情報は俺の頭の中だけで完結している。


 ──だが来崎の放ったその言葉は、俺の考えを的中させるものだった。


「……真才先輩、本当は一瞬、自分のものなんじゃないかと疑いましたよね?」

「……」

「そして真才先輩がそう思ったのは、まさに自分も退部しようとしていたからじゃないですか?」


 心を見透かされるとはこういうことを言うのだろう。


 来崎が成長したからなのか、俺が寝ぼけてそんな分かりやすい反応をしてしまったのか。どちらにしろ、それは"正しい見解"だった。


 あまりにも婉曲でありながら、その言葉は真っ当に正鵠を貫く。


 ──来崎の言う通り、俺はこのままいけば退部を考えていた。そういう考えに陥ろうとしていた。


 だが、それはまとまった結論ではない。あくまで感情を優先した結論だ。


 だからこそ、退部届を見た時に驚いたし、それを見抜いた来崎に対して反論できない。


「……真才くん、本当なの?」

「ウソ……じゃあこの退部届は一体なんなんすか……?」

「葵玲奈、今の論点はそこじゃないだろ」

「そ、そうっすね……ミカドっち、ライカっちの言ったことは本当なんすか?」

「……」


 俺はただ目をそらして沈黙した。


 正直、そこで頷く恐怖が身を包んでいた。自分の弱さや罪悪感を見られたような気分で、首を下に振ることすら怖かった。


 膠着状態が続きそうな空気感がその場に流れ始める。


 俺の沈黙から場は動かない。


 武林先輩が何かを決したように一瞬だけ前に出ようとした。


 しかし、それより先に東城が動いた。


「アタシはね。学業や運動の成績は良くても、きっと素の賢さではアンタたちに敵わないわ。……だから、どうして来崎が真才くんの真意を当てたのかとか、どうして真才くんがそんな状況に陥っているのだとか全然察せられないし、分かんない。……何も分かんなくて、ずっと真才くんに頼りっぱなしで、さっきもそれで来崎に怒られた」


 東城の声は淡々としていたが、少し悔しさが滲み出ているような気がした。


 俺は黙ったまま話を聞くしかない。今この場では、どんな言葉も発する権利がないと感じたからだ。


 だが、東城は続けてこう言った。


「アタシね、前に真才くんが落ち込んでいるところ見たことがあったんだ。その時は真才くん、日本中から罵声を浴びせられてて、誰も助けに入れなくて、たった一人で頑張っていた真才くんが落ち込んでいるところを見たの」


 ……そういえば、そんな時もあったな。


「……でも、それでもあの時の真才くんは泣かなかった。あれだけつらい思いをしているのに、泣かなかったんだよ? ……それなのに、今はそんなにも……っ」


 それは、言ってしまえば同情なのだろう。


 だが、決して軽くはない同情にさすがの俺も表情が強張る。


 東城は今にも泣きそうな声で俺の両手を手に取ると、頭を下げながら懇願するように告げた。


「ねぇ、お願い……何か悩みがあるなら教えて……アタシにもそのつらさを背負わせて……。あの時、真才くんに手を貸せなかったこと、アタシ今でもずっと後悔してるんだよ……?」

「東城さん……」


 既に溢れ出ている涙を拭こうともせず、ずっと俺の手を握り続ける東城。


 そこに二人も言葉を乗せた。


「ア、アオイも……! アオイが退部しないでなんて、虫のいいことを言ってるのは分かってるっす! でもっ……!」

「私からもお願いします。少しでいいんです。……あの日の後、何かあったんですよね?」


 そう、来崎は俺と別れてから1日しか経っていないから、原因の時間帯は予想出来る。


 だけど、その原因はあまりに身勝手で、あまりに些細で、俺にとっての価値観と他のみんなにとっての価値観は全然違うものだ。


 だから、きっと酷いことを聞かせるだけで何の解決にもいたりはしない。


 だって、この悩みは俺自身にしか解決できなくて、俺自身の納得と妥協でしか答えを見つけ出せないから。


「──そのゴタゴタした悩みと言い訳を口にする。まずはそこから始めるべきじゃないのかな?」

「……!」


 武林先輩の笑顔が俺に向けられる。


「何を躊躇ってんだ? 悩みがあるなら話すのが仲間ってもんだろう? それとも、天下の自滅帝サマには俺ら程度の人間じゃ力不足か?」


 隼人が煽るように、しかしどこか腐れ縁を感じさせる友好的な視線を俺に向けた。


「…………」


 俺の沈黙は長かった。


 だって、いつも悩みは自分の中で解決してきたし、それを賢人以外の誰かに話したことはなかったから。


 誰とも喋らないボッチであり、誰ともコミュニケーションを取ろうとしない陰キャであり、誰にも相談しない子供のような閉じた心を持った典型例。


 そんな男が重い口を開いたかと思えば、誰かとしていた約束が叶わなくなったから、もう何もかもどうでもよくなって人生投げ捨てようとしている。


 ──そんなバカなこと、笑わずして聞ける者がいるだろうか。


 俺ですら笑ってしまいそうな理由だ。俯瞰している自分が恥ずかしくなる。


 だから、期待はしていなかった。


「──馬鹿みたいだって、思うかもしれないけど……」





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