視界が白に染まるほどの明滅から、数秒の沈黙。紙を破り捨てたような爆音が耳元へと鳴り響く。
「賢人が……死んだ……?」
降り荒ぶ雨に身を打たれながら、俺はただただ唇を震わせる。
「交通事故だ」
「そんなの……俺は一度も……!」
「過去にニュースで報じられたが、名前は伏せられている。それも普遍的で誰の興味も惹かないものとして、だ。それに……まぁいい。とにかく、兄の死について言及された記事はほとんどない」
ダメだ、頭が混乱する。話が入ってこない。
賢人が死んだ? あり得ない。アイツは易々と死ぬような男じゃない。死ぬはずがない。
例え事故だったとしても、運が悪かったとしても、アイツは死なない男なんだ、そういうヤツなんだ。
ダメだ、それはダメだ。あり得ない。あり得てはいけない。ダメだろ、それは。そんなことが起こっていいはずがないだろ。
賢人は、俺と──約束を……。
「兄はわたしのことをほとんど知らない。面識がないと言った方が正しいか。現に生前、兄はわたしが海外に留学中だと思っていたらしい」
「留学……?」
「当たらずと
それはつまり、病院に入院していたということだろうか。
しかも余命付き……その堂々な立ち振る舞いは、死を間近に控えていた者が生に固執しなくなったもののそれだ。死生観に肝が据わっている。
「……まて、じゃあ今こうして生きているのは……」
「そうだ、ドナーが見つかった。……兄の、心臓だ」
「……っ!」
「当たり所が良かったのか、悪かったのか、悪運のせいで心臓は無事だったようだ」
「それで、君は兄のために今も生きていると、いうことか……」
「そういうことだ」
俺は混乱する頭の中で、その少女──賢乃の顔を見る。
彼女は出会った時から一切の感情が揺れ動いていない。冷静で肝の座った言動を繰り返していた。
「……なぜ、俺のことを知っている風な言い方をした」
俺はまだ、この少女が香坂賢人本人なのではないかという感覚を捨てきれていない。
それが一縷の望みだとしても、あり得ない話だとしても、可能性としてあるんじゃないかと希望を抱く。
しかし、次の少女の口から告げられた"真実"によって、それが偽りの希望であると証明される。
「事実知っているからだ。記憶も、その感情も、体験として」
「は……?」
少女は人差し指で自身の頭を軽くつつく。
雨に濡れた前髪が崩れ落ちて右目を少しばかり覆い、不気味なまでに美しいもう片方の目が強調された。
「心臓移植した際の出来事だ。……兄の心臓を貰い受けたわたしの脳には、断片的な兄の記憶と、体験したことのない感覚が流れ込んできた」
「なっ……」
「無論、心臓に記憶なんてものは保存されない。兄の死でショックを受け、自己同一性を喪失したのか。それとも手術の影響で記憶障害を負ったのか。どちらにしろ、普通では考えられないはずの記憶の継承が現実に起こっていた。それも"重度"だ。自分の存在を忘れて、自分が兄の香坂賢人だと誤認するくらいには重度のな」
突拍子もない出来事をつらつらと語る少女に、俺の思考はぐちゃぐちゃになる。
絶句だ。何も言えない。ただただの絶句。
──言葉が出ない。
そして、そんな俺の様子を知ってか知らずか、少女は単純な結論を述べ始めた。
「……まぁ、スピリチュアルな話はこの際どうでもいい。わたしがお前に言いたいことはひとつだけだ」
雨粒が耳に当たり、くぐもった音が聞こえる中、少女は告げた。
「──わたしは、香坂賢人ではない」
それは紛れもなく、事実を述べる言い方だった。
「そんな……そんな、簡単に……ッ!」
俺は小さく呟きながら、自分の髪をぐしゃりと掴んで頭を抱える。
賢人が死んだことすら受け入れられていないというのに、その賢人の心臓を持った少女が俺の前に立っている。
それも賢人の記憶を持った、賢人の妹だ……っ!
「約束が……あったんだ……約束が……」
「……」
霞むような声は少女に届く前に消え去り、雨音に包まれて体を打つ。
「──『全国で会おう』だったか。……残念ながら、その約束は叶わない」
「……っ!」
その言葉が引き金となって、俺の足は突き動かされた。
まだ問答する理由が山ほどあったはずなのに、その場にいることが耐えられなくなって、俺は少女から一目散に逃げて行った。
ただ、冷たさで感覚の無くなった体をできる限り振り絞って──。
※
真才が立ち去る姿を見つめながら、賢乃は未だに雨に打たれていた。
途中から真才の表情は見えなかったが、賢乃には彼がどんな表情をしていたのか、どんな感情を抱いていたのか、容易に想像できた。
「……はぁ。我ながら、中々に性格が悪い……」
兄の記憶を使った接触と、彼の展望を壊してしまうような言動。賢乃はそれらを自覚していながら、あえて真才に真実を告げた。
賢乃には、そうしなければならない理由があった。
「──よくやってくれた」
突如、後ろから軽快に拍手をする音と共に、傘をさした男が姿を現した。
「……見ていたのか」
「ああ、当然だろう?」
その男は、西ヶ崎将棋部を廃部に追い込んだ顧問教師──
「これで目の前の障害は全て無くなった」
「真才をああさせることがか?」
「そうだ。私にとっては部を潰すことくらいわけないが、なまじ知に才がある者を放っておくと後々厄介なんでな。特に渡辺真才は
宗像は
「大の大人が学生相手に本気になるとは、プライドの欠片も無いな」
「口を慎め、ここでお前も消すことくらいわけないぞ?」
瞬間、賢乃の殺気に染まった眼球が宗像の方へ向かれた。
「それは──玖水棋士竜人や、香坂賢人の時みたいにか?」
「っ……」
やれるものならやってみろ。その時は死なばもろともで抵抗するぞ。
賢乃は続く言葉を一言も発さなかったが、宗像にはそう聞こえた。
「わたしにはわたしのやるべきことが残っている。契約は満たしたぞ?」
「……いいだろう。約束通り『香坂道場』は存続させてやる。せいぜい兄の遺品を眺めながら余生を暮らすといい」
そう言い残し、宗像は立ち去ろうとしたが、最後に気になることがあったのか振り返って賢乃に尋ねた。
「……それにしても、日本中からのバッシングにすら耐えた男が、たった数分の会話で虫の息とはな。……いったい何を話した?」
「これ以上お前に語る
「そうか。まぁいい、私は学校に戻らせてもらう。何せ仕事が山積みなんでな」
宗像はそれだけ告げて、雨に打たれる賢乃を置いて去っていった。
「……」
賢乃は立ち去っていく宗像の後姿を見ることもなく、別な方角へ向けて歩き出す。
真才がどの程度賢人との約束に執着していたかは分からない。しかし、その反応は異常なまでに過敏だった。
人の人生は人によって価値が違う。他の者にとっては普遍的な約束に見えたとしても、真才にとってはそれが人生の全てだったのだろうと賢乃は考える。
そんな真才から、生きる術を奪った。生きるための夢と希望を消し去った。
このままいけば、彼の人生は途方に暮れるだろう。少なくとも、あの宗像とかいう男の描いた局面通りに動くのは間違いない。
その結末は、誰にだって予想できること。想定できる未来である。
しかし、賢乃は不意に口角を上げた。無意識の笑みだった。
「バカが。──真才を舐めるなよ」
そこまで呟いた賢乃はハッとすると、思わず口元を抑えた。
「……今、わたし……」