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第百十一話 尊敬から恋心へ

「──デートしてください!」


 踵を返して去ろうとする真才先輩の背に、私は叫ぶように告げる。


「もし私が真才先輩に勝ったら……来週、一緒にデートしてください」


 感情のままに、本能のままに、私は告げた。その欲望を口にできたのは、そこに絶対的な勝機を見出していたから。


 でも、顔が見えない状態で言ったのは失策だった。


 数秒間振り返らなかった真才先輩が何を考えていたのか、私には分からない。


「……いいよ」


 沈黙の後に切り出したその返事が、想定していたものとは違っていた。


 もっと慌てるかと思っていた。もっとドギマギするかと思っていた。


 でも、私の方に振り返った真才先輩の表情は、冷静沈着でどこか曇った表情をしていた。


「あ、あの。私が負けた場合は……」

「そんなものはないよ。そもそも俺が来崎に求めるのは……いや、なんでもない。業腹ごうはらだった」


 真才先輩は肩の力を抜いて再び背を向ける。


「……それにしても、こんな俺とデートだなんて、来崎も物好きだね」


 そこでやっと、私の想定していた返事が返ってきた。


 どこまでも卑屈で、それでいて策士で、でも誰かのためになることを必死になって考えてくれる。


 ──そんな彼の表の顔など、私はほとんど興味がなかった。


 私が尊敬するのは、彼の将棋に対する誰よりも真っすぐな気持ちだ。それは他のどんな棋士でも真似できないほどの狂気的な熱意。それを将棋に注いでいる彼を、私はずっと尊敬していた。


 自滅帝は──私の理想像そのものだったから。


「絶対に勝ちますから」


 そんな私の言葉を受けて、真才先輩は少しだけ笑みを浮かべると、ポケットから取り出したラムネを口に含んで会場へと戻っていった。


 ※


 本当は分かっていた。


 彼の表情の真意を、私に何を求めていたのかを。


 メアリーには当然勝つつもりでいた。全力を出し切って戦って、やり切ったんだって思いで勝ち切って、そうして自分の所業を肯定するつもりでいた。


 でも、そんな自分の甘さを見抜いた真才先輩が、私との真剣勝負を持ち掛けてきた。


 それは私の将棋観を知っている眼だった。真剣勝負と言われて、私がその勝負から降りないことを見越した上での言葉だった。


 決勝後を含めての2戦、全力を出し切った後にもう一度全力を出すという、矛盾した行為。


 ガス欠になるのは当然だと思っていたのに、それでも真才先輩は私を叱責してくれた。お前の力はそんなものじゃないと咎めてくれた。


 ──だから、私の言葉に彼の表情は曇ってしまったのだろう。


 あのとき私は、真才先輩との勝負に勝ったら私とデートして欲しいと頼み込んだ。そのときの本心はどうあれ、真剣勝負を頑張ったご褒美に何か欲しいと、そうねだったつもりだった。


 でも、それは私自身が負ける口実を作ったに過ぎなかった。


 だって、真才先輩とデートがしたいなんて私利私欲を前面に出したら、メアリーとの戦いで負けそうになったとき、勝たなくても良いという逃げ道を作ってしまう。


 デートの約束は真才先輩に勝ったらであって、メアリーに勝つことじゃない。それはいつの間にか、目的がすり替わっている。


 ……いや、真才先輩はそもそも自分の目的なんて口にしていなかった。彼は人に自分の意志を伝えることはあっても、押し付けることはなかったから。


 だから、あんな表情をしていたのだろう。


 ──自分の思考に反吐が出る。


 メアリーに負けそうになったときに、私は何よりも後悔した。


 ここで投了して、余力を残しながら真才先輩と戦えばきっと勝てる。青薔薇赤利とあれだけの激戦を繰り広げている真才先輩の体力はもうほとんど残っていない。


 今すぐメアリーとの勝負を降りて、真才先輩と戦えばいい。そうして勝てば、彼とデートすることができる。


 そんな状況に陥ってしまった自分に、真才先輩の言う通りになってしまった自分に、私はただただ悔しさと苦しさを覚えた。


「……」


 ──私は、自滅帝を尊敬していた。誰よりも彼の棋風に敬意を表していた。


 私が好きなのは彼の将棋に対する情熱であって、人間性じゃない。……そう思っていた。


 どこまでも卑屈で、それでいて策士で、でも誰かのためになることを必死になって考えてくれる。


 そこに気づいたら惚れてしまっていた。将棋とは全く関係のない部分なのに、そんな彼の隣に立ちたいと、不意に思ってしまった。


 ──だから、投了は論外だった。


 もしこの戦いで投了して、次の真才先輩との戦いで勝ったとしても、彼はきっと私に失望するだろう。


 それは私利私欲を満たすために戦った結果だからだ。欲望という目的のために自分の成長を怠った者の顛末になるからだ。


 そんな女を真才先輩は認めない。そんな自分勝手な考えを持つ女を真才先輩は好きになったりしない。


 そう、私は好きになってしまったんだ。


 好きになってしまったから、好きになってほしいという感情が芽生えてしまった。


 真才先輩が望む私の姿は──メアリーを倒して、渡辺真才も倒す来崎夏である。


 だったら、投了なんてしたくてもできないに決まってる。


「そんな……そんなはず……このワタシが、読み切れないなんて──」


 戦々恐々とするメアリーを前に、私は一切の手を抜くことなく全力の思考をもって戦う。


 そんな後先考えない全力の放出は、この後の戦いが待ち受けているなんて微塵も思わせないレベルだ。


「……凱旋に敗北は許されない……凱旋に敗北は……ないのよ……ッ!!」


 メアリーはなか自棄やけになりながらも、もう一段階ギアを上げて私の思考の外側にある手を放ってくる。


 しかし、その手を私はノータイムで切り返す。


「なんでっ……! なんで読めるのよ……ッ!?」


 読めるに決まってる。


 その手は私が中学生の頃、ずっと見てきたものだったから。私の脳裏に焼き付いて離れない棋風だったから。


 天才を見上げて育ってきた。凱旋を夢見て努力してきた。


 ──私はずっと貴女を追いかけて凱旋道場を受けたんですよ。メアリー・シャロンさん。


「そんな……やだ……負けたくない……! ワタシが、こんな……こんな……っ!」


 声色を震わせるメアリーに、私は容赦なく反撃の弾丸を撃ち込む。


 理想は超えていかなければならない。理想のままではいつまで経っても夢で終わる。


「あ……あぁっ……!?」


 天才はどんな無駄なことでも覚えてしまう。だから、どんな状況に陥っても常人が思いつかない解決案を導いたりできる。


 凡人にはそれをすることができないから、天才との差が縮まらない。


 ──だから、全部覚えた。『ミクロコスモス』も、『寿ことぶき』も、『メタ新世界』も、『新扇詰しんおうぎづめ』も、全部覚えた。


 意味の無いもの。無駄だと思うもの。それが自身にどんな影響を与えるのかは後から考えればいい。


 天才を超えるには、天才がやっていることを努力で真似するしかない。時間の許す限り、あらゆる知識を詰め込んで天才と同じ状態を目指していくしかない。


 学業も、私生活も、他人との交流も、全部捨てて生きてきた。全部将棋に費やしてきた。


 だって、私は凡人だから。努力をしないと誰にも追いつけないただの凡人だから。


 ──努力は、出来て当然だ。


「終わりです」

「ッ……! まだ勝負は──っ!」


 そう告げるメアリーに、私は対局時計を指さして視線を送る。


「うそ……いつの間に……」


 そこには、残り時間が0秒となって『end』と時間切れを示した文字が表示されていた。


 天才であっても、思考するには時間を消費する。より先の局面を読むのであれば、それ以上に考える時間が必要となる。


 秒読みの戦いに慣れている私との差がここで出てしまった。それだけだ。


 状況を受け入れ静かにうつむいたメアリーは、ただ生気のない声で私に終わりの言葉を発したのだった。


「……まけ、ました……」

「ありがとうございました」




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