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第九十六話 情報という名の暴力・前編

 ──井部いべ秀治ひではるは言葉を失っていた。


 目の前に広がる状況に理解が追い付かない。


 間髪入れずに崩れ去った端。咎めるように捌き切られる大駒。手数にして僅か30手の超急戦。


 そのたった30手で、秀治の陣形は崩壊していた。


「……俺は、一体何と戦ってるんだ」


 不意に零れた言葉は、なぜか対戦相手である葵玲奈の"輪郭"に向けられる。


 なぜ自分が追い詰められているのか、その理由が分からない。


 まるで心の奥底にある心理を見透かされているかのような、そんな作為的な指し手を繰り返され、自身の思惑を全て看破されているかのような感覚に苛まれる。


 なのに、それが目の前の少女の雰囲気からは全く感じ取れない。無邪気に将棋を楽しむその姿は、南地区で柚木凪咲を相手に見せたそれと全くと言っていいほど酷似している。


 おかしい。何もかもがおかしい。まるで葵玲奈にもう一つの思考が上乗せされているかのような感覚──。


(──俺は、一体何と戦ってるんだ……)


 二度目の言葉は、秀治の心の中で勝手に漏れ出た。


 何もかもが矛盾している。何もかもが噛み合わない。……なのに、全てが意味を成している。


 まるで思考が二つあるかのような葵の指し手に、秀治は悪寒すら覚えた。


 ──確かに、葵玲奈の強さは相当なものである。それは秀治自身も理解している。


 南地区との戦いで見せた棋風はまさに脅威の乱戦術。あの柚木凪咲を相手に完勝した棋譜は、秀治にとっても目を見張るものがあった。


 しかし、それは秀治自身にとっても想定の範囲内の強さであり、大した問題にはならないと踏んでいた。


 単純な棋力勝負であれば秀治は葵玲奈に劣る。しかし、力比べで勝負を決めるほどこの盤上の世界は甘くはない。人には得意不得意があり、秀でている部分も人によってさまざまである。


 秀治は事前に相手の棋譜をしっかりと収集し、分析をした後に明瞭な対策を練るタイプだった。


 どんな人間にも弱点がある。どんな人間にもやられて嫌な戦法がある。相手を落城させるための仮定作りは、無限の可能性が広がる将棋の世界にとって必須の思考。


 幾多もの散らばったデータを心理的、戦術的に読み取り、最適解となる戦法を自分の中で即座に作り出せる。


 それが秀治の生まれ持った才能だった。


 舞蝶まいち麗奈れいなのようにあらゆる戦法を完全に使いこなせる生粋のオールラウンダーではないが、秀治は相手の弱点を突く戦法をその場その場で即座に作り上げることができるため、ある意味では麗奈の上位互換のような将棋指しである。


 その場で作り上げた戦法なのだから、相手に対策する術はない。常に不利となる戦いを押し付けられる相手にとって、秀治との将棋は非常に指しづらいもの。


 ──そうなれば、棋力の差など簡単にひっくり返る。


 これこそが、秀治が凱旋道場の上位にまで上り詰めた要因だった。


 例え相手との棋力差があったとしても、局面による弱点を突かれればその棋力差は著しく縮まる。しかも、初見であればあるほど対処できずに沈んでしまう。


 そもそもとして、葵と秀治の棋力差はそこまで開いたものではない。


 以前の地区大会での葵の棋譜を見た秀治は、明らかに自分の方の棋力が葵の棋力を上回っていることを確信していた。──しかし、先の東地区、そして南地区との戦いで自身と互角以上の成長を果たしていることを理解した。


 それでもその差は一階級。盛っても一つ分ほどしか棋力差は開いていない。


 であれば、情報量が圧倒的に上回っている自分の方が確実に優位を保てると、そう秀治は踏んだのだった。


 情報は力。情報は武器である。


 今は情報が全てを凌駕する時代になっている。


 相手は狂犬。考えるよりも感覚で指す凱旋向きの思考を持った存在。自由気ままに将棋を楽しむ稀代のトリックスター。


 ──冷静に対処すれば、確実に倒せる相手であった。倒せる相手であったはずなのだ。


「~♪」


 葵は鼻歌を歌いながら霧の中をかいくぐるように攻めを繋げる。


「くっ……!」


 対する秀治は、目を右往左往させながら盤面を見つめて苦しい声を上げていた。


 ──自分はなぜ、こんなことになっているのか。どうしてこんなにも簡単に追い詰められてしまったのか。それが秀治の中で永遠の謎として渦巻いている。


 対局開始時、葵の戦法は攻撃性の高い三間飛車さんけんびしゃだった。


 序盤から早々に端を突いて相手の出方を窺う葵に、秀治は作戦通りだと駒組を進める。


 葵の攻めが常識に囚われないトリッキーな攻めであることは周知の事実であり、秀治もその点を常に警戒していた。


 そして葵は秀治の予想通り、囲いも作ることなく守りの銀を動かしたり、早々に角交換しておきながら角打ちの隙を誘っていたりと、あまりにも自由奔放な指し回しを繰り返す。


 こう言うタイプの将棋指しは、真面目に相手にするほど厄介な局面に巻き込まれることが多い。そして、反発して攻めてしまうと逆に罠に嵌る危険性がある。


 だからこそ、秀治は攻めることなく早々に王様を囲った。右側から振り飛車の暴力で攻めてくることを見越して、早々とできる耐久性に優れた囲いを完成させたのだ。


 箱入り娘──対振り飛車の基本形とされるふな囲いから即座に作れる急戦系の囲い。右側からの攻めに強く、早々に飛車角交換した際にその真価を発揮する。


 まさにカウンターの構え。攻めの切り返し。葵の無茶苦茶な指し回しを真正面から受け流す棋風を秀治は用意していた。……これで計算通り、勝てるはずだった。


 ──銀河倒瀉ぎんがとうしゃ。身を削った流星の一撃。


 秀治が自身の掛けている眼鏡の調子を疑ったのは、この時が初めてだった。


 葵は守りの銀を攻めに参加させ、端と絡めて強襲を仕掛ける。上空から降り注ぐ隕鉄の如き流星は、秀治の警戒網を一瞬にして潜り抜けた。


 その戦法の名は棒銀ぼうぎん、いや──暴銀ぼうぎんである。


 本来は守るために使われる銀を狂ったように攻めに使い、ましてや序盤であるにもかかわらず終盤に攻め筋を絡める端歩を早々にぶつけて強襲する。


 それも秀治が箱入り娘を完成させた瞬間の攻め。右側に壁を作って堅固になった囲いを仇とするかのように、左側から端をぶつけて暴銀を繰り出してきたのである。


 ──秀治の弱点を突いた一撃が、容赦なくその薄い左側の陣形を直撃する。


(バカな、あり得ない……!!)


 そう、あり得ないことなのだ。


 葵の特徴を考えれば、こんな器用なことができるはずがない。それもただの弱点を突く将棋ではなく、完膚なきまでに叩き潰す、そんな狙いを秘めた将棋だ。


 そもそもとして、相手の弱点を突くような正当な将棋ができるのあれば、こんな自由気ままにデタラメな指し方を採用する意味がない。


 やっていることと考えていることに乖離かいりが生じている。


 自由奔放に指したいという自己顕示欲が詰まった指し手は、確かに三間飛車となって表れている。しかし、右側に壁を作ることを見越して端から銀を攻めに絡める手は、冷静さを通り越して別人が指したかのように思える。


 しかも暴銀というマニアック過ぎる戦法は、過去の葵の棋譜には存在していなかった。


 まるでこの時のためだけに用意されたかのような一手。相手を、井部秀治のみを叩き潰すためだけに用意されたかのような一手だ。


 ──そんなこと、事前に準備していなければ不可能である。


「くそッ……!」


 秀治は頭を抱えて熟考する。


 相手が策士であるのなら納得できる。相手が自分より多くの情報を得ているのなら納得できる。


 しかし、目の前のそれは、自分がこちらの策を見破っていることなどまるで自覚していない。ただ単に本能のまま将棋を指している。


 それがたまたまこちらの戦法の穴を突いて綺麗に決まったのだろうか? そんな偶然がこの決勝の舞台で起きたのだろうか?


 ──あり得ない。そんなことがあり得るはずがない。


「っ……」


 秀治は唇を噛み締めながら葵と盤面を何度も見比べる。


 暴銀は奇襲戦法の一種。悪手とされる攻撃方法だった。


 そんな、本来であれば空振りに終わるはずの暴銀は、まるでその本領を発揮したかのように秀治の囲いを潰しにかかる。


 箱入り娘によって右側に壁ができてしまい、左からの攻めに逃げることができない。


 秀治がその囲いを選択したのは、葵が急戦策で仕掛けてくることを統計的に判断して確信を得たからだ。


 実際、葵は寸前まで急戦策に出ようとしていた。居玉で、王様も囲わず、三間飛車の速攻による仕掛けで盤面を乱戦に持ち込もうとしていた。


 ──なのに、秀治が箱入り娘として右側に壁を作ることを初めから知っていたかのように、葵は唯一の急所となる暴銀を繰り出したのだ。


 そんな都合の良い未来予想があっていいはずがない。そんなものは事前にこちらの手法を理解し、直前まで相手に気づかれないよう手のひらで転がすという芸当を用いなければ不可能だ。


 それは葵玲奈という個人の思考で生み出せる大局観ではない。


「ま、まさか……」


 そこで初めて、秀治の視線は葵の輪郭から外れて左の方に向けられた。


 二度の千日手を挟んでまで未だに凱旋の王者と肩を並べて戦っている怪物の存在。


 大して強くなさそうな、それこそ何を考えているのか分からないほど平凡な顔をしているのに、対局の時は別人のような棋譜を残す男。


「まさか、お前──」


 秀治が紡ごうとしていた言葉は、それ以上口から出てこなかった。


 あくまでも自分の相手は葵玲奈──その人間に敵意を向けたところで意味がない。


 秀治はその怒りを目の前の葵に向ける。虎の威を借る狂犬、決して組み合わせてはいけない二人を恐れるように見上げながら。


 ──そんなことができるはずがない。そんな先読みが、凱旋道場に所属する自分を手のひらで踊らせる策略が、ただの学生風情にできるはずがない。


 そう思い込もうとする秀治の視線に気づいた葵が、嗤うように告げた。


「なんすか? アオイの手、間違ってないっすよね? ──だって、って言われてたっすから」

「な……ッ!」


 まるで"答え合わせ"とでも言わんばかりの発言をする葵に、秀治は全身から感じたこともない冷や汗を噴き出した。


 そう、秀治の前に相対しているのは葵玲奈ではない。渡辺真才というイレギュラーの存在から知恵を授けられた、葵玲奈である。


 井部秀治の望む情報戦は、真才の事前策によって全て逆手に取られていた。








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