情報というのは人の手に収まらない武器。それは天から降ってくるものでもなければ、勝手に湧いて出てくるものでもない。
自ら掴みにいかなければ、価値を持つ情報は決して手に入らない。
情報を得るために過程を立てる、ある程度の道筋を立てる。
そうして思い描く『想像』に色を付けていき、自分だけの世界を少しずつ現実世界に落とし込む。
──それが俗にいう、先を読むというのことなのだろう。
「……」
早朝、三原良治はいつものように机に突っ伏して仮眠をとる。
やるべきことは終わった。人事は尽くした。あとは天命の赴くまま、流れるままに事が進めばいいだろう。
そんな楽観的な考えを持つ三原は、今にも閉じそうな瞼を少しばかり開けて目の前の席を一瞥する。
──渡辺真才。ネット将棋トップランカーの王者、自滅帝。
この男の素質は逸材を通り越している。
天性の才も、努力の才も、彼には全く通用しない。常識を破り、常識を越え、自ら常識を作り出す器がある。
今はまだアマチュア、卵から生まれたばかりの
だが、そのうち彼は覚醒する。間違いなくするだろう。
そうなれば棋界は再び揺れ動くこととなる。組織が牛耳る幻の世界は消え、真に棋士が活躍する世界に変わる。
玖水棋士竜人、香坂賢人、二人の英雄を銀譱は許さなかった。
その思想を鑑みれば、銀譱が真才を邪魔と思うのは道理だろう。
だが、それで希望ある若者が潰れる理由にはならない。誰が求めずとも人は進化と発展を遂げる生き物だ。棋界は必ず変革する。
──だから三原は、退部届を偽造することに決めた。
証拠は残らないように徹底し、誰がやったかもあやふやになるようにあえて綻びも残す。
宗像銀司は遊馬環多流の一件を知っている。渡辺真才がそれなりに賢いことを理解しているのならば、廃部にするだけで終わるような男ではない。
あらかじめ銀譱の目的を知っていた三原は、廃部の一件を聞き耳していたあの段階で、宗像が真才に対して何らかの火をばらまくことは予測できた。
それから数日後の雨の予感を感じさせる夕暮れ時──。三原は宗像の跡をつけ、一人の少女と邂逅しているところを発見。そしてその少女が香坂賢乃であることを知った三原は、後に起こる展開を容易に想像する。
約束が果たされること、それが彼にとっての全てである。それが叶わぬものだと知れば、彼の将棋人生に大きな終止符が打たれることになるだろう。
そう思った三原は退部届を偽造し、翌日に将棋部の机にその紙をそっと置くことを決めた。
西ヶ崎高校の将棋部は仲間想いであることはよく知られている。真才のこれまでの活躍を振り返れば、彼らは表面上よりも強い絆で結ばれている。
恐らく、退部届を見た部員たちは血相を変えて真才に会いに行くはずだ。
そして、それが図らずも偶然、その時の真才に必要な『仲間』が与えられる。
──三原はそこまでを読んでいた。
外は大雨、三原は他人。三原自身が直接何かを伝えたところで効果は薄く、また三原が彼らと接触するメリットもない。
もしこのまま放っておけば、真才が自ら退部届を出していたかもしれない。そうなればもう手遅れだ。
だからこそ、三原は動く必要があった。
退部届の一件はいたずらとして片づけられるだろう。もしかしたら宗像への風評被害になるかもしれないが、それはそれで一興だ。
少なくとも、自分がやったとは誰も思わない。
それに、渡辺真才がここで潰れてしまうことは、三原にとって非常に都合が悪かった。
それだけである。
「ふぁぁ……」
三原は久々に動いた体を休めるように、大きなあくびをして目を閉じた。
──ガラガラガラ。
そこへ教室の扉が開き、一人の生徒が入ってくる。
最初の一人目にしては珍しく早い時間だ。一体誰なのか。
三原は薄眼でその生徒に目を向けると、そこには真才の姿があった。
かなり早めの登校。三原を除けば一番早く教室に入った生徒である。いつもギリギリの時間に来る真才にしては、かなり珍しいことだった。
そんな真才は自分の席を見つめるでもなく──
「おはよう」
「……おはよう」
いつもと違ってこちらを認識し挨拶をしてくる真才に、三原は間をあけて返事をする。
何か意図があるのかと訝しむ三原に、真才はそのまま目の前まで近づくと──。
「そうだ。これ、返すよ」
そう言って真才はポケットから1枚の紙を取り出し、三原に渡した。
「……!」
それは、三原が偽造した真才の退部届だった。
あまりにも予想外の出来事に、三原は朧気になっていた意識を強制的に起こされる。
そして、真才はそれに関して何も問うことはなく、その退部届を三原に返すと急ぎ足で教室を後にする。
ただその去り際に一言──。
「色々ありがとう」
そう告げて、教室の扉を閉めていったのだった。
「……嘘だろ」
教室に一人残された三原は、そう呟くことしかできなかった。
※
平凡とは得てして恐怖から最も遠い存在である。
平凡な見た目、平凡な立ち姿、平凡な容姿、平凡なオーラ。
特筆すべきポイントがあるのだとすれば、そこら辺の人より将棋が強いということくらいである。
しかし、将棋が強いからなんだというのか? 将棋ができるからなんだというのか?
所詮は遊戯。盤上戦。子供でも出来る単純なお遊びでしかない。
それを極めたところで知能が上がるわけでもない。知恵が身につくわけでもない。
そう、思っていた──。
「は、は……?」
宗像の硬い表情が崩れていく。
額からは反射するほどの汗を滲ませ、今にも飛び出そうな心臓を呼吸でなんとか抑えつける。
──この平凡な学生が、自分の計画を台無しにした。
そんなこと、できるわけがない。
「なん、なんだ……お前……!?」
「なんだと言われましても……西ヶ崎将棋部の部員ですけど」
真才は淡々とそう答える。
対して焦燥が限界に達した宗像は振り返って校長に訴えかけた。
「こ、校長、冗談ですよね? 議会と手を組むなんて……!」
「冗談ではない」
「正気ですか! 第十六議会は将棋界の汚点、独断と偏見で審判を下す不正連中の集まりですよ!」
「……」
「せ、先日の地区大会も、この議会の連中は別地区の道場の生徒を使って本来あり得ない面々を揃えていました。これは規定に違反する最悪の行為……! 校長の嫌う、権力を武器にした信用に値しない存在なのではないですか!」
宗像の怒号が響き渡る。
それを受けて、目黒校長はゆっくりと首を哲郎に向けた。
「……そうなのか? 鈴木さん」
「さぁ、一体なんのことだか」
「なっ……!?」
哲郎は完全にしらを切り通した。
否──宗像がそう言ってくることは事前に想定済みである。
「この期に及んではぐらかすか……!」
「はぐらかすも何も、私は正直に答えたまでだよ。そうだ、なにか知っているかい、真才くん?」
「俺も何も知らないですね。大会では優勝するまで何人もと戦ってきましたが、特にそういった行為をされた覚えはありません」
真才は当然のように流れ弾を返す。
「……だ、そうだよ?」
「ふざけるな! こんな子供の発言など信用できるわけないだろう……!」
「あー、思い出しました!」
真才はその言葉にキレたような反応を示すと、宗像の前まで一歩ずつ近づいていく。
「対局中に『付き合ってやるから投了しろ』だとか、『お前は不正したんだから大会に出てくるな』とか、なんなら『渡辺真才が大会中に不正をしたというデマを拡散された』記憶ならありますね」
「っ……!?」
「彼らがどこの何に所属しているのかは皆目見当もつきませんが、連絡先は知っているので証人として今すぐ呼んできましょうか?」
「そ、それは……っ!」
あまりにも火力の高い右ストレートが真才から放たれる。
首を縦に振れるわけがない。
何故ならその発言をした者は全員──元銀譱委員会所属なのだから。
「……銀譱はそんなことまでしたのか」
「ち、ちが……」
「違う? なに否定してるんですか宗像先生? 先生は銀譱委員会とは繋がりがないんじゃなかったんですか?」
たった一言すら許さない、真才からの徹底した攻撃が宗像の言動を次々に咎めていく。
「き、貴様……ッ! さっきからベラベラと鬱陶しいぞ──!!」
宗像は真才を睨みつけて上から見下す。
(クソ! 何なんだこのガキは……! このままでは俺の計画が……いや、計画が失敗するのはまだいい。問題はこの老いぼれが議会と手を組むなどほざいてることだ! もしそれで西ヶ崎が議会のものに……銀譱よりも先に議会に乗っ取られたなんてことが本部に露見でもしたら、私は、け、消されてしまう……っ!)
焦りと不安。今朝まで好調だったはずの宗像は一気に窮地に立たされた。
それでも何とか頭を捻ってここからの逆転、せめて問題の先送りだけでもできないかと考え続ける。
しかし、そんな宗像に向けて目黒校長からとんでもない一言が繰り出された。
「──宗像」
「な、なんでしょうか校長。いや、今は事をせいては仕損じるともいいますし、取り合えず証拠の真偽だけでも確認する時間が必要ではないですか? 私にはこの一連のやりとりが一体何のことだかさっぱりわかりませんし、銀譱に繋がっているなどというデタラメも嘘であると証明できる証拠を持っています。後日それをもってきますので──」
「君はクビだ」
「……へ?」
あまりにも重い、静寂が場を包んだ。
「ここにいる鈴木さんには、明日より本校将棋部の正式な顧問として迎え入れることが3日前より決まっている」
「は……?」
「そして同時に君は将棋部の顧問を解雇。本校からも出て行ってもらう」
──目黒校長から告げられた最後の一言は、宗像にとっての死刑宣告となった。
「安心しろ、"左遷"だ。早々に左の階段から帰宅したまえ」