目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第百二十話 無限に成長する女王

「……これは」


 完成された思考の根底を覆すには、突飛な発想を用いる必要がある。


 しかし、それを素でできる人間は早々いない。


 盤上に捨てられた角は、来崎のこれまで築いてきた読みを完全に崩壊させる。


「こんな手が通るのか……?」

「通るか通らないかなど些細な問題じゃ。何故ならこれは──」

「……最善手」


 玄水の言葉に続いて悔しそうにそう言ったのは、二人の横で見ていたメアリーだった。


「どういうことだ?」


 玄水の隣から顔を出した天王寺魁人が、メアリーに問う。


「言葉通りよ。あの角捨ては悪手でも疑問手でもない、最善手」


 屈辱を受けたような表情を浮かべながら、メアリーは語る。


「ワタシはあの局面、最善手なんて無いと思ってた。自分の力で読んだ一手に、彼女の手を巻き返すほどの策は含まれていなかったから。だからあの局面での最善なんて言葉だけの飾り。……少なくともワタシは、ついさっきまでそう思っていたわ」


 メアリーは来崎の実力を身をもって体験している。ゆえに、その力が自身を凌ぐほどのレベルであることを理解している。


 メアリーのAI一致率は8割を超える。どんな局面であっても最善手を導き出せる力を持っている。


 そんなメアリーが、最善手では太刀打ちできないと悟った。どんな最善の手を費やしても勝てないほどの形勢が振れていると、そう思った。


「……でも、彼は違った。……あれは、人なの?」


 目の前の男が指した手は、ただの最善手である。角を捨てるという最善手。


 正しく、真っ当で、数値上に現れる確実性のある一手。


 決して相手を罠に嵌める一手ではない。妙手を絡めた芸術的な一手でもない。ただ真っ当に、AIが認める最善の一手である。


 ──そう、真才は超えたのだ。メアリーの思考を。


「……アカリ、アナタも見えていたのね」

「当然、真才もきっと同じなのだー」


 赤利は軽口でそう返事をする。


 メアリーにとって決して届かない高み。決して追いつけない背中。


 そんな彼女に土を付けた存在は、自身の思考をあっという間に飛び越える。


 果たしてこれは、本当に同じ種族の元で行われている競技なのだろうか?


「……冗談じゃない。こんなの、創作の域ですよ……」


 そう呟いたのは、南地区の神童と呼ばれた柚木凪咲だった。


 真才の角捨てが実現したこの局面は、まさに夢のような世界で放たれる最善手。盤面を自分で創り上げ、それが最善となるように組み上げて、そうして初めて実現する創作のような一手。


 そんな一手が、現実で当たり前のように行われている。


 ──恐怖でしかない。


(……でも、私が見たのは──)


 そんな真才の一手を受けて、来崎は別の意味で拳を握りしめていた。


 実際、来崎は真才の角捨てという派手な手をたった数秒で読み切る。


 極限の感性へと至った思考は、どれだけ複雑怪奇な手であっても瞬時に分解し、善悪を見極める。


 真才の角捨てに対し、来崎はその角を取るどころか自ら避けて駒を逃がす。


「嘘だろ……」

「……取らないのか」


 取れば来崎の速度が落ち、真才の自滅流が完成する。


 自滅流が完成すれば、そこは相手の独壇場。耀龍の輝きに『ひかり殺される』。


 そして真才もまた、来崎が自身の角捨てを見切って取らないことも読み切り、捨てたはずの角を自陣へと成り返って守りを強化する。


 来崎もまた、さきほどの角捨てから逃げた駒を王様にくっつけて守りをさらに強化する。


 あれだけ派手な角捨てがあったにもかかわらず、気付けば局面は堅実な形へと上書きされていた。


「戦いがハイレベルすぎる……」

「……」


 ドン引きする環多流の横で、龍牙は腕を組みながら静かに傍観していた。


 その傍らで黙々とタブレットに棋譜を入力していく水原は、これから始まるであろう激戦を見越して胸ポケットから眼鏡を取り出す。


(しかしこの局面、互いに激しく動いているように見えて実はまだ様子見をしていますね……。さきほどの角捨ても、周りが勝手に捨てているように見えるだけで、実際は成って自陣を整備するための手順に過ぎない。そしてそれを彼女、来崎さんが読み切れるとさらに読み切った上での判断。彼は来崎さんに何かを期待している……?)


 そんな水原の推測は当たっていた。


 真才はこの対局を通じて、来崎に期待をかけている。


 自身の策を読み切ってくれる期待、自身の限界を教えてくれる期待、そしてそんな自身の限界を突破させるかなめとなってくれる期待を。


「くっ……」


 来崎は真才を睨みつけ、盤上の歩を掴んで激しく叩き前進させる。


(……こんなんじゃ、まだ──)


 歩を突き捨て、桂馬を飛び、端を絡めて真才の王様へと迫る。


(まだ……っ)


 来崎は後続の攻めが繋がるように順当に攻めている。自陣の守りも堅実。形勢も悪くない。疲労は限界を超えているが、集中力は持続している。


 なのに、どこか納得がいかない。


「お、これ攻めが繋がるんじゃないか?」

「まだ安心するのは早いぞ、来崎の玉形に隙があるかもしれない」

「いや、だって菊水矢倉きくすいやぐらが完成してるんだぞ。しかも王様の腹がさっきの銀逃げで締まってる」


 観戦者達は互いに意見を交わしながらどちらが優勢か判断する。


 来崎の陣形は、上部を手厚く守った菊水矢倉と呼ばれる囲いだった。


 これは通常の矢倉囲いと違って上からの攻めに強く、対自滅流としては非常に優秀な囲いだった。


 そんな来崎の菊水矢倉は、さきほど真才が指した角打ちから逃げるように攻めの銀を引いて守りにくっつけたため、一層堅さが増して別物へと変わった。


 そう、この囲いはもはや菊水矢倉ではない──。


「──ミレニアム囲い。まさかあの来崎が俺達と同じ囲いを採用する日が来るとはな」


 隼人が複雑な表情でそう告げる。


 この戦いは真才の端歩から始まった。自滅流の最先端研究の果てにある初手端歩を披露することによって、これまでの自滅流を対策してきた者達の棋風を過去のものとする。


 そんな真才の研究手を知っていた来崎は、振り飛車を選択して戦況の瓦解を狙った。


 しかし、そんな来崎の手すら読んでいた真才は、来崎の手損を利用して自滅流の完成を完璧なものとした。


 これによって自滅流の完成は必然かと思われた。


 だが、そこから覚醒した来崎によっていきなり棋風が変わっていき、急激な角交換から相居飛車の将棋に戻し、そこから矢倉囲いを組み上げ、攻防を繋げながら菊水矢倉へと変貌させ、たった今ミレニアム囲いへと組み替えた。


 手が重なるごとに増す強度。既にその囲いの強度は真才の自滅流を大きく凌ぐほどに成長している。


 東城のような正確な定跡型を、葵のような自由奔放な指し回しを、そして佐久間兄弟のような強靭な囲いを。


 あらゆる手を吸収し、あらゆる思考を自分のものとし、あらゆる策を繋いで勝ちに行く。


 ──来崎夏の指す将棋は、人々の叡知の結晶体である。


「……違う」


 そんな完璧な手順を指しているはずの来崎は、表情を曇らせたまま真才を睨む。


「──本気を出してください。真才先輩。私の知る貴方は、もっと強かった」


 疲労に表情を歪ませ、拭うほどの汗をかき、全力全開であることが目に見えている真才に対して、来崎は本心からそう告げる。


 ──来崎の知る真才は……自滅帝は、こんなものではなかった。


「……全力でやってるよ」

「そうですか。……やっぱり、私の実力がまだ足りないんですね」


 否定する真才に来崎は途中から言葉を被せ、なりふり構わず全霊をささげる。


(どれだけの優勢を築いても、どれだけの攻めを繋いでも、真才先輩が本気を出さない限り私に勝ち目はない。この人の本気を心の底から引きずり出さないと、必ずどこかで罠に嵌められて負ける)


 ──来崎は見てきた。


 副将という役を得て県大会の場に立ったその日から、隣で激戦を繰り広げる真才の横顔を。


 その勝負はいつも相手が勝ちを確信する試合だった。常に真才が追い詰められていく状況だった。


 だが、そんな真才の内に秘める全力を引き出せなかった者達は、彼が最後に繰り出す罠に嵌って必ず逆転される。


 あの青薔薇赤利でさえ、真才の底を見ることができなかった。入玉宣言法という、誰も予想できない罠に嵌って負けた。


 それは彼と対峙する多くの者達が、渡辺真才が全力を出していると勘違いしていたからに過ぎない。


 もうこれ以上は無いと、これより先の策は無いと、そう勘違いしていたからこそ起こった悲劇である。


 だからこそ、来崎は未だに勝機と呼べるものを感じ取れずにいた。


(もっと先を……この人の思考を上回るような一手を──)


 深い、深い、息をすることもままならない集中の果て──どこよりも深い水底へと落ちた来崎は、真才の考えている思考の外側で新たな考え方を巡らせる。


(勝ちたい……勝ちたい……。誰よりも、真才先輩よりも……あの人よりも強い一手を……絶対的な勝ちを結びつけるための一手を──!)


 そうしてどこよりも深い深淵にたどり着いた来崎は、初めて自分の限界を知る。


 先を考えれば考えるほど苦しくなっていく思考に、それでもなんとか先を読もうともがき続ける。


 水底の果て、思考の海へと全身を浸かる感覚。


(棋譜がなだれ込んでくる……でも、全部外れだ)


 どれだけ先を読んだとしても、相手が同じ数だけ読んでしまえばその先読みは意味を成さない。


(もっと先を、もっと良い手を、もっと工夫する一手を、もっと策に費やした思考を)


 息をすることすら忘れて、心臓を動かすことすら忘れて、ただひたすらに考える。


(考えろ、考えろ、他の誰でもない、『来崎夏』が考える一手を──!)


 思考は巡り、どこまでも加速し、限界の扉が少しずつこじ開けられる。


 ──瞬間、視界が明滅した。


「……!」

「はぁっ、はぁっ……!?」


 現実に呼び戻された来崎は、激しい呼吸と咳をしながら心臓を握りしめる。


(今、本当に呼吸が止まってた……?)


「失礼……」


 そこから大きく息を吸った来崎は、冷静さを取り戻し、静かに盤面を見つめた。


 ──そして、またもや守りを切り崩して攻めに出た。


「……大丈夫なのかこれ?」

「おい、せっかく完成した囲いが崩れていくぞ、飛車打たれたらまずいんじゃないか?」


 その声に呼応するように、真才はガラ空きとなった来崎の玉形に飛車を放つ。


 一転攻勢、来崎の守りが総崩れする。


 それどころか一気に詰めろ、寄せの段階まで追いつめられ、来崎の王様は危険な状態に晒される。


「おいおい……集中力切れたのか?」

「まぁ、あの大会の後だしな……」


 外野はそろって表面的な評価を下す。


 しかし、先の先まで読んでいた真才は、その"真実"を誰よりも速く見つけた。


「……!?」


 それは初めて、真才が心の底から驚いた反応だった。


「……反則負け、歩詰ふづめじゃのう」


 ──打ち歩詰め。それは相手の王様を詰ます最後の一手を、持ち駒の歩で詰ますこと。


 打ち歩詰めは将棋における有名な反則扱いであり、反対に盤上にある歩を突いて詰ます『突き歩詰め』は良いとされている。


 来崎の玉形は一見危なそうに見えるが、真才は持ち駒に金や銀といった金駒かなごまがないため、盤上にある駒を上手く使って攻めるしかない。


 しかし、飛車を成っていきなり詰まそうとすると、さきほどいった打ち歩詰めとなってしまい反則負けとなる。


 逆に詰まさず駒を補充しようとすると、その隙に来崎の攻めが止まらなくなる。


 真才は守りに駒のほとんどを割いていることもあって、駒の損得は来崎の方が圧倒している。


 ここで攻めを途切れさせたら、来崎の反撃に耐えられない。


 かといって来崎の王様を詰まそうにも、打ち歩詰めという反則が絡まって攻めることができない。


「まさか、これを意図的に狙ったのか……?」


 観戦者達が唖然とした表情で来崎の方へと視線を向ける。


 来崎は微動だにしなかった。


「──本気、出さないと倒しちゃいますよ。真才先輩」


 無限の成長、際限のない覚醒の嵐。それが真才の堅牢な牙城がじょうを崩壊させる。


 ──来崎はここにきて、再び己の限界を突破した。





コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?