アマチュアの将棋大会では、稀に余興のようなものが行われる。
それは地域おこしのための祭りだったり、有名人を呼んだイベントだったりと様々だが、その中でも特に注目される余興はプロ棋士による『指導対局』である。
現役のプロ棋士がはるばる地方に
「うん、君はとても良い筋をしているね。攻めるためのポイントをしっかりと抑えていて、定跡も完璧だ。ここから磨けばもっと強くなるよ。これからも頑張ってね」
「は、はい!」
他のプロ棋士に混ざって、ひときわ物腰の柔らかそうな男が1つ目の指導対局を終える。
その日、来崎の住む地区では大きなイベントが開催されており、将棋界でもトップと謳われたプロ棋士達が大勢押し寄せていた。
そして、その物腰の柔らかそうな男のまわりには、数えきれないほどのアマチュア達がこぞって指導対局を受けようと群がる。
そんな男が行っていたのは、一人で何人ものアマチュアを相手にする多面指しだった。
しかし、その数は驚異の100面指し。それをたった一人で行うという狂気的な行為だった。
見渡す限りの盤に囲われ、何人ものアマチュア達を一度に相手し、それでもその男は一切の疲労を見せることなくアマチュア達を圧倒する。
中にはそんな彼に敗北を突きつけてやろうと、あえて勝てるハンデまで駒を落として挑む者もいた。
しかし、その男はただの一度も負けなかった。100面指しをしながら、理不尽な駒落ちを要求されながら、それでも全てを薙ぎ倒したのだ。
アマチュア相手に何を本気になっているのか。これはただの指導将棋じゃないのか。──そんな言葉を漏らす者は誰もいない。
なぜなら、彼の手はすべて数秒以内に指されていたから、一切考えずに感覚で指していることが丸わかりだったからである。
100面指しという性質上、一手一手に時間を掛けるわけにはいかない。子供であれば次の手が指されるまでに飽きて帰ってしまうかもしれない。
そんな理由も相まって次々と高速で指される神のような一手に、多くのアマチュアは感動し、畏怖すら覚えた。
「おい、
そんな中、一人の少年が怒声を浴びられて席に着く。
龍牙と呼ばれたその少年は、当日行われた大会の学生の部で好成績を収めるほどの有段者だった。
そんな龍牙が男に持ち掛けた手合いは──限界ギリギリの8枚落ちである。
それは本来、初心者が持ち掛ける手合いであり、百歩譲っても級位者が願い出るレベルのハンデである。
──あまりにも、失礼極まりない行為だった。
しかし、龍牙は断固としてその手合いを譲る気はなく、
当然、そんな成長にも繋がらない手合いなど男は却下──するかに思われた。
しかし、男はその手合いを笑顔で承諾し、そこから秒殺とも思える異次元の指し回しで龍牙の棋風を完封した。
──本当に秒殺だった。80手にも及ばない速攻の逆転劇だった。
「とてもいい将棋だったよ」
あり得ない、と皆が口をそろえて呟く中、男はにこやかな笑顔でそう告げる。
そして、未だ驚愕の渦中に飲み込まれている龍牙の顔を覗いて、その男は同じ目線まで腰を落とした。
「君のその狡猾な考え方は、きっと周りから否定され、毒を吐かれることもあるかもしれない。でもそれは、勝負においてとても重要な考え方だ。少なくとも、私は君のように勝つために手段を選ばない子を否定したりはしないよ。それも立派な勝負師だからね」
男は穏やかな口調でそう告げる。
龍牙はその言葉に終始驚いたような顔しながらも、満足そうにその席を降りて行った。
これがカリスマというものなのだろう。
そんな男の有無を言わさぬ圧倒的な棋風と言動に惹かれながらも、次々と敗れ去っていくアマチュア達。
気持ちの良い負け方。悔いのない負け方。
多くの者が皆、彼を前に嬉しそうに負けていった。多くの者が彼の言葉を好きなように受け取っていた。
しかし、その言葉に"将来"は含まれない。
男の言葉は常に正しかった。常に正しい言葉を投げかけていた。
それゆえに、"君は将来プロ棋士になれる"などとは、この100面指しでただの一度も口にしなかった。
「……」
そんな男の前に座っていたのは、当時まだ幼かった頃の来崎だった。
将棋を初めてそれなりの月日が経つものの、棋風はボロボロで得意な戦法を持っているわけでもない。
今回の指導対局も、大会の1回戦で負けたからという理由で参加したに過ぎなかった。
そんな来崎は、無謀にもハンデ無しの平手で男に挑み、当然のように大敗を喫した。
周りからは冷笑され、心の中で笑われ、そして来崎自身もまた、自分の力の無さを強く憎んでいた。
そんな来崎を前に立ったままの男は、少し強気な微笑みを向けて来崎に告げる。
「──君は将来、大物になる」
「えっ……?」
衝撃だった。
信じられない言葉を唐突に告げられた来崎は、目を白黒させて硬直する。
しかし、それまで冷笑していた者達は目の色を変え、今度は尊敬するようなまなざしを来崎に向けた。
それほどその男の言葉は絶対だった。絶対的な信頼があった。
なぜなら、当時の来崎にそう告げたその男は、伝説のプロ棋士──
※
真才の眼に映っていたのは、近代将棋の果てだった。
「おい、嘘だろ……?」
「あの自滅帝の策が、次々と破られていってる……」
驚愕の結果に周りが一気にざわつきだす。
二人の対局を見ている観戦者は、自分達の声が聞こえないように離れたところに盤を用意し、二人の指し手を共有して継ぎ盤している。
この場にいる観戦者達の多くは自滅帝のファンである。ゆえに彼らは自滅帝の強さをよく理解していた。そして理解していたからこそ、今の現状に驚きを隠せない。
あの青薔薇赤利すら凌いだ真才の指し回しが、全て咎められて無に帰している。
こんなにも上手くいかない真才の将棋は、この場にいた誰もが初めて見る光景だった。
(……なるほど、これが今の俺の限界か)
真才は冷静にその事実を認める。
来崎の放つ手は一見すると葵に似た奔放な指し回しであり、その形は東城のように
しかし、その一手に込められた意味の深さが、あまりにも先を行きすぎていた。
「メアリー、次の手わかるか?」
「……分からない」
AI一致率が8割を超えるメアリーでさえ、来崎の手に対する挽回策が読み切れない。
なぜなら、来崎の指し回しによって最善手そのものが消えているからである。
この場における最善手──最も被害の少ない手を指しても、その手は難解だった局面をより分かりやすくしてしまい、来崎の勝ちパターンに入ってしまう。
そして最善手以外の手は、全て来崎に形勢が振れるため意味がない。
「……ナツ、あんなに強くなっていたなんて……」
メアリーの思考では、今の覚醒した来崎の手を読み切ることはできなかった。
それほどまでに、来崎の手は急激な変容を遂げていた。
考えれば考えるほど悪くなっていくのが見える局面に、誰もが読むのを諦めそうになる。
──しかし、この男は違った。
「……!?」
一瞬、来崎の思考が乱れる。
まだ何もしていない真才に対し、その先の動きを全て読み切った来崎の思考が、砂嵐の掛かったノイズのように荒れて真っ黒になる。
形勢が勝負を決定づけるというのなら、将棋に『逆転』なんて言葉は存在しない。
その言葉を生み出したのは他でもない、玖水棋士竜人である。
そして玖水棋士は、そんな自らの言葉を証明するかのように、100面指しであらゆる手合いを相手に全勝を遂げた。
──絶望的な形勢から、100回勝ったのである。
そう、来崎もまた、その恐怖を知っている。どんな状況からでも勝ちを捥ぎ取る人間がこの世にいることを知っている。
「……正気ですか」
真才の揺らめいた影が一瞬、玖水棋士の面影と重なる。
「狂気だよ、互いにな」
──真才は、自身の駒台に唯一乗っていた『角』を来崎の駒が密集しているところへ投げ捨てた。