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第百七話 限界を超えるということ

 進み行く世界に希望など無く、憧れていた夢は恋焦がれるようにどこまでも遠く離れていく。


 幼い頃に抱いた理想は、宙を舞って消えていった。


 ──凱旋道場との戦いを控えた決勝前、真才先輩は一人になっていた私に話しかけてきた。


 正直、嬉しかった。こんな私を気にかけてくれることが、凄く嬉しかった。


 誰も割って入れない二人だけの空間。いつも画面越しだった彼からの言葉を、私はひとつの旋律のように味わっていた。


 だから、その表情が見えた時に感じてしまった。


 ──この人は、私に安らぎを与えるために来たのではないのだと。


「来崎」


 寄りかかっていた壁から離れて私の前に立った真才先輩は、私に"敵意"を向けていた。


「──俺と本気の勝負をしてほしい」

「……え」


 一瞬、言葉を詰まらせる。


 何か、感じ取ってはいけない悪寒を受け取ったような気がして、僅かに体がすくんでしまう。


 だってその表情は、本来の仲間に向けるべきものとは違っていたから。


「……勝負、ですか……別に構いませんよ。日程はいつ頃に──」

「今日。決勝が終わった後すぐに」


 被せるように言ってきた真才先輩に、私は思わず硬直してしまう。


 ──意味が、分からなかった。


「……冗談、ですよね?」

「冗談じゃない、本気だ」


 まるでこちらがおかしいかのように僅かな怪訝を含んだ視線を向ける真才先輩。


 彼の言葉の真意が、分からない。


「私、言いましたよね? 南地区との対局で投了したのは体力を温存するためだって、さっきそう言ったばかりでしたよね?」

「ああ」

「もう体力が残ってないんです。疲労だって限界まで来ています。集中力が切れかけてるんですよ」


 私は額を抑えながら訴えるように告げる。


 正直、もう一戦も戦いたくない。戦えるほどの余力が残っていない。


 それでも私は勝ちに行く。余力がなくなった今でも、限界を超えて、さらに先を目指していく。


 そうして凱旋道場を、メアリー・シャロンを倒す。そのために今日まで色々と策を練ってきたのだから。


 仮に自分の力に限界が来たとしても、その限界を超えて勝ちに行く。理屈も常識も吹き飛ばして、ただ真っ当に勝利を掴み取りに行く。


 ──だから、こうして外の空気を吸いに来たんだ。


 自分がこれから超えようとしている限界の壁を知るために、そしてその限界を超える覚悟をするために。


「決勝は予定通り勝ちに行きます。ちゃんと一局分の体力は残してありますから。でもその後にもう一局指すなんて私には無理です」


 私はハッキリとその口で否定する。


「真才先輩が私に何を望んでいるのかは正直分かりません。でも"真剣勝負"ってことは、それだけ重要な戦いを望んでいるということですよね」


 私は自分の脳裏で彼の言葉の真意を整理しつつ、考えながら一言一言を口にする。


 真才先輩の判断はいつだって正しかった。間違っていたことなんて一度もなかった。


 ──でも、今回ばかりはその意図を理解できない。


「私はこの後の決勝戦で、残された力の全てを使い果たすでしょう。きっと、立ち上がることもできないほどに限界まで集中して戦っていくはずです。……そうして戦い終えた、抜け殻のような状態になった私に真剣勝負を挑むなんて、そんな残酷なことを言わないでください」


 そう告げる私に、真才先輩は首を傾げて私を睨んだ。


「何言ってるんだ?」


 どれだけ取り繕っても惑わされないその姿勢に、思わず顔がヒクつく。


「──あるだろ、体力」


 そうして口に出された言葉は、私の脱兎する尻尾を掴んで離さなかった。


「……私が、嘘をついてると言いたいんですか」

「いいや、来崎は本気でこの大会に挑んでる。疲れ切ってるその表情も、限界まで集中力を研ぎ澄ませようとしているその目も、紛れもなく本物だ」

「だったら……!」

「ところでひとつ疑問だったんだが、今日はまだ南地区との1回戦が終わったばかりだぞ? ……どこに疲労する要素があるんだ?」


 ──霧の中でうやむやになっていた疑問が、その一言によって可視化された。


「確かに南地区は強かった。本気を出さなければ勝てない相手だった。……でも、俺達は丸一日ぐっすりと寝て休息を取ったんだ。戦う日をわざわざ2日に分け、東地区との戦いの疲れも癒すために温泉にも入った。そうして迎えた今日初めての戦いだ。──来崎、君はそんな万全な状態でありながら初戦の相手に投了を選択したんだ。これがどういうことか分かるか?」


 真才先輩の問いに、私は口を開けなかった。


「千日手が見えたから投了するのは別にいい。決勝を見据えて体力を温存するのも一向に構わない。なんだったら、チームが勝ってこれ以上戦う意味が無くなったから投了を選択したとしても、俺はその意見を支持する。──でも、自分に甘えて全力で戦っていない仲間は見過ごせないな」


 私の心を深く抉る言葉を彼は放つ。


「……甘えてる? 私が? ……ふざけないでください。私はいつだって全力で勝負に向き合っています。いつだって限界を超えようとして、今だって自分より遥かに強い相手に、メアリーに勝とうとしてる……!」

「そう。限界を超えると言うのは常に際限のない世界に飛び込むということだ。そこに不可能はない。いっぺんたりともな」


 真才先輩は不敵に笑って、好戦的な視線を向ける。


「──本当に限界を超える覚悟があるなら、何戦しようが不眠不休だろうが体が悲鳴を上げていようがぶっ倒れるまで戦うんだよ。それができていないのに限界を超えるなんて軽々しく言うべきじゃない」

「っ……!」


 その言葉が全てだった。


 視線が泳ぐ。動揺が走る。


「……だろ?」


 無意識に、私は心のどこかで手を抜いていた。


 全力でやっているつもりだった。全力で戦っているつもりだった。だってこんなにも疲れているのだから、こんなにも熱を帯びているのだから。


 ──でも、真才先輩が言うように、それはおかしかった。


 だって、今日の戦いはまだ始まったばかりなのだから。初戦でこんなにも疲労する理由がない。それに昨日の戦いだって、翌日に疲労が響くほど苦戦したわけでもなかった。


 なのに、こんなにも息が乱れて、こんなにも心臓の鼓動が高鳴っている。全身から湧き出る熱気に脳がオーバーヒート気味になって、体中から疲労が押し寄せてきている。


 ──私は、こんなに体力のない人間じゃない。


 毎日切れ負けを500局。学校に通う時間を全て削って15時間ぶっ通しで指し続けていた。今までの私はそうやって日々を過ごしていた。


「ゾーンって言うのは一種の忘我だ。自我を忘れるほどに集中し、時の流れの内側に入っているような状態のことを指す。……来崎、君は以前にも自分の実力に気が付いていなかった。その努力が実る姿を想像できていないのか、意味もなく"頑張っている風"を装ってしまう。でもそれはゾーンとは違う、ゾーンのようなものでしかない。それが俺から見たらどうしようもなく違和感を感じるんだ」


 確かに、地区大会の時は全てを忘れて勝負していた。


 どことなく全能感が溢れ出ていて、自分とは全く違う別人に入れ替わっているかのような感覚がして、それでいて疲労なんて一切感じなかった。


 ……そうか。この感覚は、私が勘違いしているだけで──。


「だから俺が逃げ道を塞いでやる。──俺と真剣に勝負しろ、来崎。決勝戦が終わった後すぐに、休む間もなく」


 この人は、そんな私の知らないところまで気付いていた。深層心理を理解していたんだ。


「……酷いです、真才先輩。こんなにも頑張っている後輩を追い詰めていたぶるなんて」


 私がそう返すと、真才先輩は満足したように視線を外した。


「……分かりました。その勝負、お受けしましょう。──ですが、私にも私の言い分があります。もし全力を出さずにメアリーを倒してしまっても、文句は言わないでくださいね?」

「ああ。それでもし勝てたのなら、来崎が全力を出す必要もない相手だったということだ。……でも、俺はそうはならないと踏んでいる」

「私の力を信用してないのですか?」

「もちろん信用しているよ。来崎のことも、──相手のことも」

「……」

「常に予想を超えていくのは自分だけじゃない。相手だって同じこと。……この世界で勝ちを確信していいのは、相手の詰み筋が見えた時だけだ」


 ※


 ──結局、何もかも真才先輩の言う通りになってしまった。


 こんなにも悔しさを抱いたのはいつ以来だろうか。


 自分のことなのに、彼は私以上に私のことを理解していた。それがたまらなく悔しいと感じてしまう。


「……ワタシを叩き潰すですって? 随分と大きく出たわね、ナツ。……でもそんな御託を並べる暇があるのなら、まずはこの形勢を戻してからにすることね」


 既に勝利を確信しているメアリーに対し、私は思考の海にゆっくりと潜り込んでいく。


 苦痛が全身を締めあげるが、私はそれを無視するように無理やり熟考を続ける。


 頭痛が響いて、呼吸が苦しくなって、全身の脱力感に睡魔にすら襲ってくるが、それでも私は考えることをやめない。


 ──5分。


 ──10分。


 ──15分。


 段々と落ち着いた心音が聞こえてくる。今までの高鳴った鼓動じゃない、どこまでも一定のリズムを刻んで胸を打ちつける音。


 何かが自分の中で浮かんでくる。小さい泡沫のような、淡い色を模した一手。


 でも、まだ足りない──。


 ──20分。


 ──25分。


 ──30分。


 先を読めば読むほど、撞着どうちゃくした結果にたどり着く。


 自分の形勢判断が正しく行われているからこそ、行き着く先に疑問が残るのだろう。


 敗勢から勝つには、相手がどこかで間違える必要がある。将棋は決して自分の手が勝因になることはない。相手のミスで敗因が決まる。


 そんな常識を打ち破るために、私は最善の手だけを模索するわけにはいかない。彼女と同じ場所に立つだけでは勝てない。


 読め、もっと先まで──限界まで。


 私はこの対局でただの一度も手を読んでいない。暗記だけで最後まで進めていた。


 考えるということを放棄し、考えなくても勝てると心のどこかで甘えていた。


 ──全部、メアリーの言う通りだった。私はどこまでも自分に甘かった。どこまでも彼女を侮っていた。


 この形勢は、そんな自分に課せられた罰だ。


「……ちょっと、いい加減にして。一体何十分考えているの? 遅延行為のつもり? 時間切れまで指さないのならさっさと投了を──」


 そんなメアリーの言葉が途切れる。


 それは私の残り時間が無くなって秒読みに入ったからでも、私がここに来てようやく次の手を指したからでもない。


 その視線は、私の眼に向けられていた──。


「アナタ……まさか……」


 秒読みの警告音がなる対局時計をゆっくりと深く叩いた私は、水底を映すその瞳を盤上に向ける。


 真空になった世界で、雑音が聞こえてくることは無い。


 忘我に陥った世界で、雑念を感じることは無い。


 ただ感じるのは、どこまでも加速できる思考の飛翔ひしょう感と、全てを為せるような全能感だけ。


「……」

「チッ──」


 泰然自若たいぜんじじゃくとなった私に瞠目するメアリーは、舌打ちをしながら最善の手を繋ごうとする。


 その手が盤上へと向かう前に、私は駒台の歩を掴んだ。


「何分時間を掛けようとこの形勢は変わらないわ──!」


 メアリーはここに来て、私を仕留めようと最善ではない強気な一手を指しに来る。


 その手を指せば私が熟考に追いやられ、時間攻めでミスを犯すと踏んだのだろう。


 ここまでずっと最善手で応えてきて、これからも最善手を指す流れだったところであえてその手筋てすじをズラす。最善手を指さないことで思考を乱し、私の流れを完全に断ち切る一手。そんな策をメアリーはこの短時間で構築し、指してきた。


 メアリーのその指先が対局時計のボタンに触れた瞬間、私は持っていた歩をメアリーの玉頭ぎょくとうに置く。


「はっ──?」


 私の対局時計の時間は、1秒も動いていなかった。


「見破ったの……? 今のを、一瞬で……?」


 メアリーは現実を疑うような目をこちらに向ける。


 私はそんな視線に意識を向けることもなく、前髪を耳に掛けて盤面の深淵を覗いた。


 あぁ、これは確かに──疲労なんて感じない。





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