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第百六話 必要な言い訳

 ゆらゆらと揺らめく陽炎かげろうに視線を向ける。


 隣で繰り広げられている激戦を一瞥する余裕もなく、私は目の前の一局に手が付けられずにいた。


 暗記を踏襲するだけの戦いだったせいか、時間はまだ大分残っている。


 しかし、失った形勢はもう元には戻らない。


「あら、もう諦めた目をしているの?」

「……っ!」


 メアリーの冷たい瞳が私を貫く。


 ──分かっていた。


 どれだけ策を用いたとしても、彼女を、メアリー・シャロンを倒すことは一筋縄ではいかない。そんなことは分かっていた。分かっていたつもりだった。


 だけど、現実はそんな想像をはるかに凌駕する勢いで飛び越えた。


 一蹴だ。たった一手の一蹴。


 それだけで、私の形勢はあっという間に吹き飛んだ。


「……呆れたわ。新手を用意しているくらいだから、少しは追い詰められると思ったんだけどね」


 最初の頃とはまるで別人、饒舌な日本語でそう告げるメアリーに、私は次の手を考えるだけで精一杯だった。


 対するメアリーはこれ以上読む必要が無いと考えているのか、視線を横に向け、項垂れている凱旋の仲間たちを見ながら感嘆する。


「……凄いわね。リュウメイとヒデハルをあんなにあっさり。彼らも盤石な状態ならそれなりに強いのだけど、相性の悪い相手をぶつけられたらまるで小動物ね。どれだけ無敗の道場を名乗っていても、所詮は一介のアマチュアであることに変わりはないわ」


 そこで一度言葉を止めると、メアリーは彼らから視線を外し、私のことを冷たく見つめる。


「──でもね、ワタシとアカリは違うの。根本の棋力が違う。努力すればとか、頑張ればとか、そういう根気だけで倒せるほど甘くない」


 思わず息を呑み込んでしまった。


 緊迫するほどのプレッシャーを与えられ、それが自分の今いる地位を否定する言葉として心に刺さる。


 才能の差が違った。実力の差が天と地ほど開いていた。


 彼女のいる場所は真才先輩と同じところだ。


 寸分違わず正確に指し、どんな難局であっても最善手を繋ぎ留め、膨大な数の定跡を暗記し、それに飽き足らず自分の実力でその壁すら超えていく。


 そんな怪物を相手に、どうやって倒せというのか。


 ──気付けば私は、駒台にある自身の持ち駒を握りしめていた。


 これをもって盤上に放てば投了となる。


「はぁ」


 メアリーのため息が聞こえた気がした。


 不意に胸が苦しくなる。


 それはメアリーの失望した眼差しを受けたからじゃない。隣で闘志を燃やして戦っている彼に、申し訳ないと思ってしまったから。


 ……だって仕方ないじゃないですか。自分にできることは頑張った。頑張ったんです。限界までやり切ったんですよ。その上で、もう覆せないところまで形勢が付いてしまったんです。


 たった一手かもしれないけれど、その一手のミスで巻き返しようのない差がついてしまった。


 ここからじゃ、今の私はもうどうやっても逆転できない。


 それに、きっと私が負けても、西地区のみんなは勝ってくれる。


 みんな強いから。私なんかより遥かに強いから。だから私が負けても、優勝にはきっと届いてくれる──。


 だから──。


「……ぁ」


 不意に視線を向けた盤面に、私は言葉にならない何かを口から零す。


 一瞬、色ずれのノイズが掛かったかのような視界が映し出され、その後に脳が考えることを停止させる。


 それまでフル回転で巡らさせれていた思考がゆっくりと速度を落とし、心臓の高鳴りが段々と落ち着いてくる。


 ゾーンが切れた。集中力の限界を迎えた。


 そのことに気づいたメアリーが、椅子に寄りかかり体勢を崩した。


「……終わりね」


 そんな言葉を告げるメアリーをまじまじと見上げた私は、ふと冷静に彼女のことをもう一度見定めた。


 寸分違わず正確に指し、どんな難局であっても最善手を繋ぎ留め、膨大な数の定跡を暗記し、それに飽き足らず自分の実力でその壁すら超えていく。


 ──そんな彼女が、真才先輩と同じ?


 ──同じ、実力?


 ──同じ場所に立ってる?


 メアリーから視線を外して隣にいる真才先輩を一瞥した私は、彼から浴びせられた幾多もの応酬を思い出す。


 一手指されるごとに戦慄を帯び、一手指すごとに自分の無力さを痛感する。


 どれだけ考えても無為に消化され、会心と思える一手を放っても当然のように読み切られてしまう。


 何十局も、そして何百局も戦ってきた。だから私には分かる。


 彼の強さは、そこら辺にいる者達では測ることができない。どんな天才であっても並ぶことができない。そんな誰もたどり着けない領域に手を伸ばし続けた男であることを、私は知っている。


 ──そうだ、この感覚には覚えがある。


 戦慄だ。読みの外にある一手を喰らった時の戦慄。


 私は今まで、何度もこの感覚を味わってきた。数えきれないほど体験してきた。


 なのに、やけに新鮮に思える──。


「……はぁ、勝つつもりだったのにな」


 考えるだけ無駄なことに気づいてしまったのか、私は思わず本音を漏らしてしまった。


「そう落ち込むこともないわ。ワタシが強すぎただけの話よ」


 そんな私の言葉を拾って満足気に返すメアリーに、私はもう一度深いため息を零した。


「……真才先輩に、勝つつもりだった」

「……は?」


 話の脈絡が見えず、何のことを言っているのか分からない私に、メアリーは困惑した表情を見せる。


 ──だって、しょうがないじゃないですか。


 隣であれだけ苦戦している真才先輩を見て、もしかしたら勝てるかもなんて希望を抱いてしまっていたんです。……少しでも体力を温存しておけば、色んな作戦で勝ち筋を作れると。あの真才先輩を倒せるかもしれないと。


 でも、もう体力が残っていない。メアリーは想像以上に強かった。暗記だけで勝てるほど甘い相手じゃなかった。


 ……結局、私は最後まで自分に甘えて楽な方へと逃げようとしていた。


 だって、逃げたかったんだから仕方がないじゃないですか。少しでも余裕を持ちたかったのだから、仕方ない……。


 もうゾーンだって切れている。体力は無くなって、集中力は無くなったも同然。そんな今の私に、ここから何ができるというのか。


 東城先輩も、葵も、みんな楽々に勝っていって、そんな中で私だけこんなにも追い詰められている。


 こんな状態で限界を超えて戦ったら、きっと『次の戦い』で勝てなくなる。


 このままじゃ、真才先輩が望んでいた通りになってしまう──。


 悔しい。心の底から悔しい。


 絶対に勝たなきゃいけない戦いを控えているのに、負けられない戦いが控えているのに、私は事前策で彼女に勝つことができなかった。こんなにも追い詰められてしまった。


 ……ここで投了したっていい。ここで投了することは悪いことじゃない。


 欲に忠実に、ただ勝つことだけを願って、そうしてここで投了を選択すれば、私はきっと理想の結果を掴み取れる。


 東城先輩も同じ立場だったら、間違いなく投了することを選んでいたはずだ。


 だってこれはプライドの問題じゃなくて『個人』の問題なんだから。


 逃げ道はある。"逃げてもいい理由"だって持ってる。じゃあ、少しくらい自分に甘えたっていいじゃないですか。


 ここで投了すれば私の望みが叶う。そうすれば、東城先輩たちを追い越せる。


 汚いって言われるかもしれないけど、欲のためなら仕方ないじゃんって、自分を正当化できる。


 相手はボロボロ。今の私なら絶対に勝機がある。勝てる未来が見える。体力の差を突いて千日手にでも追い込めばきっと楽勝だ。


 だから、ここで投げたっていい。ここで投げるのがベストだ。


 今すぐに投了したい。


 投了したい。投了したい。投了したい。投了したい。投了したい。投了したい。


 それでこの勝負はおしまいだ。私の勝ちだ。勝ちが決まっていたはずだ。


 ──あの真才先輩に勝てたんだ。


 だから、ここで投了して私の勝ち。はい、決まり。決まりました。決まってました。絶対に私が勝ってました。














 ……よし、言い訳は済んだ。


「──失礼。続けましょう」

「あら、打って変わって気迫が戻ったわね。でも、ここで闘志を燃やす意味が分からないわ。……まさかとは思うけど、ここから勝つつもり?」

「いいえ」


 メアリーの言葉に、私はすぐさま否定した。


 もう嫌だと心の中で叫びながら、泣きそうになるくらい悔しい感情を上乗せしながら、それでも私はその悔しさを噛み締めてメアリーに告げた。


「──ここから、貴女を叩き潰すつもりです」



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