大波乱となった黄龍戦の県大会初戦。
不正を疑われていた渡辺真才の処遇はどこへやら。その正体を現した自滅帝の登場により、会場は未だに騒然としたままだった。
それまで掲示板やSNSなど、あらゆるメディアで拡散されていた真才の悪評は完全に瓦解する形となり、流れは一転して誹謗中傷をしていた者達への厳しい書き込みが後を絶たない。
そんな中、黄龍戦の県大会も事前予想とは全く違った内容を迎えていた。
「バカな……」
同じ東地区の仲間たちの対局を見ていた環多流は愕然と腰を落とす。
その環多流の持ち時間は既に10秒を切っており、そんな状態でありながら、環多流は対局時計に目を向けることもなく、自らの対局を放棄していた。
ピーッ! と甲高い音を鳴らしてその命は絶えまなく削られていき、環多流の脳内にトラウマとなって刻まれる。
だが、環多流は横の対局に目を向けるばかりで自分の対局は一切見ていない。自分の対局は今さら見たところで意味がなかった。
局面は既に詰将棋の様相を呈しており、次に環多流が何を指そうとも1手で詰んでしまう状態。いわば環多流の負けが確定していた。
「こんな、バカなことが……」
生気のない声色で絶望の表情を浮かべる環多流。
同時に鳴り響いていた残り時間の警告音が消え、環多流は時間切れの敗北となって大将戦を終えた。
「ありがとうございました」
そう挨拶を告げて席を立つ真才。
耀龍ひねり飛車を放った環多流との戦いは、真才側が25分という大量の持ち時間を残して勝利。環多流と真才の間で完全な格付けが済んでしまった戦いだった。
しかし、環多流にとって自身の敗北などどうでもいいこと。最後に東地区が勝てばそれでいいのだから。
だが、その唯一の希望もたった今潰えようとしていた。
「お、お前……佐久間隼人だよな……?」
「そうだが?」
隼人と対戦していた東地区の選手は盤面を見て首を横に振る。
「ふ、振り飛車党だったお前が、なんで居飛車なんか指してるんだよ……!?」
「はっ、教えてやる義理は無いな」
「く、クソ……何なんだ一体……! 研修会F2の落ちこぼれだった奴が、なんでこんな強くなってやがるんだよ……!」
これまで振り飛車を中心に指していた隼人は、その対局ではゴリゴリの居飛車を指していた。
これは、今まで乱戦風の戦い方をしていた隼人からは考えられないほど硬派で堅実な指し回しである。
隼人は居飛車の中でも対振り飛車の有力候補として挙げられる『ミレニアム囲い』を使用。穴熊に次いで堅いとされるこの囲いは、駒の捌き方に指し手の実力が求められる。
隼人はこれまでに振り飛車で培ってきた大駒の捌く力を存分に発揮し、中盤のねじり合いで相手の飛車角を交換することに成功。そのまま囲いの堅さを利用して物量で攻めるという単純な指し回しによって圧倒的な形勢を築いていた。
──そして、それは佐久間魁人も同じである。
魁人も隼人と同様にミレニアム囲いを使用。しかもこっちは金銀四枚によるミレニアムとさらに強固な囲いを構築してから戦いを始めており、自身の飛車角を全部切り飛ばして相手の囲いを崩壊させてからじっくり攻めるという、非常に高度な戦い方を行っていた。
二人の圧倒的な成長に対戦相手はおろか、環多流ですら口を開けて唖然としている。
「一体、何が起きてるんだ……」
佐久間兄弟が会場に来るまで、二人の残り時間は5分を切っていた。これは相当な差である。
対する相手の残り時間は満タンの40分を維持しており、ここから勝つには並みの棋力差では不可能だった。
だが、二人はそのたった5分という残り時間をものともせずに優勢を築いている。
どれだけの指運があったとしても、ここまでの差が生まれることは通常あり得ない。
「お、おかしいだろ……こんな短期間で強くなるなんてどうみたっておかしいだろ……!!」
予想を超えた佐久間兄弟の強さに、東地区の選手は納得のいかない表情を浮かべていた。
当然だ。佐久間兄弟はこのメンバーの中で一番弱いとされていたのだから。
西地区でもトップクラスの実力を持つ東城美香。それを抑えたこともある来崎夏。中学生大会で圧倒的な成績を残した葵玲奈。常に安定した成績を残し続ける武林勉。
そして、天竜一輝を破った正体不明の大将、渡辺真才。
これだけのメンバーが揃っている西地区の中で、唯一パッとしない存在感となっていたのが佐久間兄弟だった。
二人は研修会に入っていた実績を持ちながらも、あまり芳しくない成長具合だったために早い時期から退会してしまい、そこからの成長に伸び悩んでいた。
他の地区から見れば二人の存在はまさにカモ、西地区の持つ唯一の弱点とも呼べるものだった。
そんな佐久間兄弟の成長に、東地区の者達は頭を抱える。
(まさか、こんなに相手の指し手が軽く思う日が来るとは思わなかったな)
隼人は心の中でそう呟く。
この1ヵ月間、二人はある場所へ毎日のように通っていた。
それは、今回の事件に協力してくれた少女の通う道場にである。鈴木哲郎ですら頭を下げるほどの少女の存在に、二人はもしやと思って頼み込んだのだ。
──自分達を強くしてほしい、限界まで鍛え上げて欲しいと。
今回の騒動の大半は部長である勉が対応に回っており、佐久間兄弟はかなり早い段階でやるべきことを終わらせていた。
そんな二人は、最初こそ部活へ顔を出す気でいたものの、どうしても自分達の棋力を上げたいという思いが強く他のアテを探していた。
このままダラダラと将棋を指していても成長することはない。どこかで自分を甘やかしている部分があると二人は自覚していたからだ。
だからこそ、最も厳しく指導してくれる者のところへと立ち寄った。
少女は貸しを一つ作る代わりにその条件を快諾し、1ヵ月間という短い時間の中で、大人が泣いて逃げるほどのハードスケジュールを二人に叩き込んだ。
県大会が始まるまでの1ヵ月間、佐久間兄弟は少女の厳しい指導のもと着々と棋力を上げていき、それに慢心しないよう心根から叩き直される日々を送っていた。
練習とはいえ、特にプライドの高い二人にとって対局で負けることは辛い経験である。その上、それが繰り返されれば拷問に等しい。
それでも、二人は折れることなく最後まで走り切った。
あらゆる戦法、あらゆる囲い、そしてあらゆる手筋の応酬を根本から身につけることにより、しっかりとした土台を作ってから棋力の向上に心血を注ぐ。
全てが終わるころには、二人は県大会があることすら忘れるほどに感覚を研ぎ澄ましており、いつでも全力が出せる状態へと覚醒を遂げていた。
(アレと比べたらまるでお遊びだな)
どんな手を指しても切り返される絶望の将棋を経験した二人にとって、東地区の選手達はまるで相手にならない。
そう、今の佐久間兄弟は以前のそれとはまったくの別人。自分への甘さが消えた正真正銘本物の将棋指しである。
時間の差など、まるでハンデになっていなかった。
「うそ、だろ……なんでこいつ、ずっとノータイムで指せるんだよ……!」
その傍らで、勉と対局していた選手が頭を抱えて項垂れる。
5分しかなかったはずの勉の残り時間は、未だ5分である。
厳密には、5分40秒あった残り時間が、5分12秒となっていた。
「コイツ、人間か……?」
東地区のメンバーが異常な目で勉に目を向ける。
勉はこの間ずっとノータイムで手を繰り出しており、全くと言っていいほど思考に時間を費やしていない。
まるで早指しに慣れているかのような高速の指し回しは、目の前にいる自滅帝を彷彿とさせるかのような戦い方である。
勉の安定した実力は元々県内でも噂になるほどだったが、その勉が相手にしているのは東地区の副エース、環多流に次ぐトップクラスの実力者だった。
そんな相手をものともしていない。まるで大人と子供の戦い。指導将棋でもしているかのような早指しを繰り出し、問答無用で叩き潰していた。
「なんで俺が、こんな奴に負けなきゃいけないんだ……!」
「ふむ。それは投了の言葉と受け取っていいのかな?」
「……ッ! 舐めるんじゃねぇぞ……! まだ終わってねぇ! まだ俺達は戦ってんだ! ここから他の奴らが巻き返して──あ?」
そう言って東地区の副エースが周りを見渡す。
──だが、そこに対局する者の姿は無かった。
絶望した表情で何かをブツブツ呟いている環多流と、机に突っ伏したまま微動だにしない東地区の面々たち。
そして残って対局していた東地区の西田も──。
「ありがとうございましたっすー!」
隣で対局していた葵の声が高らかに響く。
「このオレが……葵玲奈なんかに……こんなあっさり……」
そんな葵の相手をしていた西田は、光の失った目で静かにそう呟いていた。
これで西地区の6勝0敗。もう今の東地区には、夢や希望など欠片も残っていなかった。
「あ、あ……ああ……」
副エースはその光景を見て戦意を失い、掴んでいた駒を盤上に落とす。
──投了である。
「ま、負けました……」
「ありがとうございました!」
勉は元気よく声を発し、踵を返しすと、後ろで待っている西地区の面々に勝利の報告を伝えた。
「みんな今日までよくやった! そして、長い間待たせて悪かったな! もうすべて解決した! ここからは思う存分大会に励むぞ!」
その言葉を聞いた部員たちは笑顔で力強く頷く。
第一試合、西地区vs東地区の結果は7勝0敗。西地区は誰一人欠けることなく初戦で完全勝利を決めたのだった。