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第四十三話 鈴の音を壊して

 衝撃が走った。鳥肌が立つほどの、強烈な衝撃が走った。


「まって……まってよ……」


 震える手を抑える余裕もなく、私は目の前の男を信じられないような目で見ながら身を引こうとする。


 しかし、それ以上椅子が下がらない。


「ま、まさか……アンタの正体って……じ、自滅──」

「俺は自分のことをあまり口にするのは好きじゃない。実力も努力も、それまで本当にしてきた事実があるのなら盤上で示せる。本当は強いだとか、本当は勝てただとか、そんなものは見栄を張る口実にしかならない。だから俺は今までその名を口にしてこなかった」


 渡辺真才は凄艶の気迫を滲ませながら、圧倒的な優位を誇示するように身を乗り出して告げる。


「ありえない……う、ウソに決まって──」

「自己紹介の時に言わなかったか? ──俺は『九段』なんだ」

「……っ!!」


 ──『九段』。それは将棋戦争の最高位。


 あの東城美香ですら、ネット将棋をあまり指さないとはいえ『五段』から上には行ったことがないという。


 そんな東城美香とは対照的に、毎日狂ったようにネット将棋を指して、将棋戦争の開く大会で毎回のように無双している来崎夏ですら『七段』だ。


 そんな者達を差し置いてただ一人独走している正体不明のアマチュア。ネット将棋界最強と呼ばれた伝説の存在──『九段』の段位を冠するプレイヤーはただ一人しかいない。


 ──自滅帝。史上最強のネット将棋プレイヤーの名だ。


「あ、ありえない……認めない、そんなこと、アンタが自滅帝なんて、そんなことあるわけない!!」

「……」


 私は冷や汗を浮かべながらも指し手を緩めず、何とか駒得のアドバンテージを保とうと必死になって追い詰めようとする。


 しかしなんの解決にも至らない。形勢は変わるどころかどんどん向こう側に傾いていき、手が進むたびにその差が離れていく。


 その指し手は悪魔のようなものだった。


 ただ勝つために、ただ私を下すために。──それが昔、天王寺道場で聞いた少年の話と酷似する。


「違う! 私の方が強いんだ──ッ!」


 中段玉という慣れない戦型を無理やり頭に叩き込みながら、なんとか弱点は無いかと再計算する。


 どんな強者にも弱点がある。


 歴代最強の棋士と呼ばれた者でさえ必ず1つは弱点を持っていて、そこを咎められないように対策を練るのが現代将棋の神髄だ。


 誰が相手でも必ず光明の光が見えてくる。完璧な指し回しをする者の亀裂から、光明の光が見えてくる。


 私はその光を掴んで勝利してきた。相手の弱点を叩くことで、勝利への道筋を立ててきた。


「なんで……なんで……!」


 有無を言わさぬ完璧な手、思考を盗聴されているかのような異次元の読み、隙ひとつない完全な局面の構成。


 私の目の前にいる男には、弱点など無かった。


「なんでなの……! 私が攻めていたはずなのに、私が駒得していたはずなのに……なんで……ッ!」


 あの東城美香ですら、完璧な指し回しの中に僅かな弱点が存在している。そこを狙い打てるよう研究すれば、多少の棋力差があっても巻き返すことができた。


 私は実戦の将棋で相手の弱点を的確に見極めて勝つことができる。それが私という個人に与えられた"才能"というものだった。


 なのに──。


『戦慄じゃ、あれと対峙した者は誰であっても戦慄する。それが何故だか分かるか?』


 天王寺玄水の言葉が脳裏を過ぎる。


『それは奴が、渡辺真才が才能で将棋を指していないからじゃ。自らが積み上げた努力という定跡だけで手を作り、誰の軌跡も踏襲せずに指しているからじゃ。だから才能で戦っている者ほど奴の異常さに戦慄する』


 どんな人間であれ、物事には得意不得意があるはず。将棋の道に進むのならば将棋が得意でなければならない。


 初めは、渡辺真才にも将棋の才能があったという。


 しかし、彼が蹂躙を始めたのは才能に頼った指し方をやめてからだった。


 何が彼をそうさせたのかは分からない。一体どんな訓練を積めば、才能を捨てて将棋を指せるようになるかなんて分からない。


 ただ分かることは、ひとつだけ。


 目の前に座っている存在が──理不尽の権化だということだ。


「なんで、なんで弱点がないの……!」

「……弱点? そんなものあるわけないだろ。勝つために指してるんだから」

「普通はあるんだよ……!!」


 理解が及ばないとはまさにこのこと。


 とうの昔に全てを読み終えたのか、彼の時間はさっきから一切危機に瀕していない。ずっと5秒以内に指している。


 威風を感じる。戦慄を感じる。身体が感じたこともない恐怖で震えあがる。


 私が今相手にしているのは、本当に人間なのだろうか。


「……嫌だ、嫌だ……っ。こんなところで負けたら、こんなところで負けたら夢が終わる……それだけは絶対に嫌だ……っ!」


 思考が上手くまとまらない。


 今の私には無限の時間があるはずなのに、何かに急かされるような切迫感を感じる。


 頭の中で鳴り続ける鈴の音は、理性を保つための役割としてもはや機能しない。ただただうるさく、気持ち悪い。


「その必死さをもっと早く出していれば、もう少しマシな結果になったかもしれない」

「うるさい! うるさいっ!」


 醜態を晒してぐちゃぐちゃになる感情。後悔と黒い淀みだけが心の際まで押し寄せてくる。


 自分を客観的に見れなくなった私は、感情に任せた手を放ってしまう。


「こんなところで終われない……。プロにならなきゃ……プロにならなきゃ、家族に、晴斗はるとに、顔向けできない……っ!」

「……」

「まだ、まだだよ。まだ私は負けてない。まだ終わってない。ここから、ここからだから……っ」


 引きつった笑みを浮かべて、私は後方から連鎖的な攻めを実行する。


 しかし、渡辺真才はそれよりも先にこちらの陣地へと侵入を果たし、絶対に詰まない形を作り終えた。


「勝たなきゃ、いけないんだから……っ。負けたら、終わりなんだから……っ」


 醜く思えるほどデタラメな手。意図も策も感じられない無謀で愚直な手の応酬。


「こんな、終わりだなんて……っ」


 悔しくて、情けなくて、ぐちゃぐちゃになった感情が目から溢れて零れ出る。


「……うっ……うぅっ……ぐすっ……」


 鈴の音が鳴り響く。気持ちの悪い、鈴の音が鳴り響く。


 この力は私の唯一の支えだった。天王寺玄水から学んだ変幻自在の指し回し、誰にも真似できない鬼才たちの勝負手。私はただ、唯一無二を証明した男の足跡を追い続ける。そんな夢を見たかっただけなのに。


 鈴の音が鳴り響く。


 きっと戻るべきだったのだろう。間違いを犯したあの日から、一線を越えた感情を持ってしまったあの日から。取り返しがつかなくなる前に戻って、反省して、そうして諦めればよかったんだ。


 鈴の音が鳴り響く。


 それを振り切って進んでいただけだった。間違っていることを分かっていながら進んでいただけだった。自分の夢を捨てて、人の夢を追いかけるようになったあの日から、全てを失ったあの事故の日から……私の歩みはきっと間違っていた。


 鈴の音が鳴り響く。


 灯が消えて、暖かさを失った炎は緩やかに死へと向かっていく。これは過ちを認められなかった哀れな自分への天罰なのだろう。自分可愛さに他人を切り捨てようとした者の罰なのだろう。


 儚い夢が終わる──。


「……つよいね。本当に」


 流れた涙を拭きながら、私は駒台の上に手を置いた。


 盤上は完全な彼の必勝状態。ここから巻き返す手はもうない。奇跡を望む光明も、夢物語の逆転も、もうその一片すら存在していない。


 ──完敗だった。


「……まさか、こんな場所で本物と戦えるとは思わなかったよ……自滅帝……」

「……」


 私の言葉に、渡辺真才はただ沈黙する。


「……ごめんね。色々酷いことしちゃって。もう邪魔しないから。……ううん、邪魔しようとしてもできないか。負けた方が退部だったもんね」


 全てを諦めて、全てを捨てて、それでもきっと何かが残るだろう、なんて……甘い考えを持ってしまっている。


 でも、そうするのがせめてもの道理だろう。


 私は……彼に、みんなに、やってはいけないことをしようとしたんだ。


「こんなこと言うのもなんだけど、ちょっとだけ楽しかった。こんなに強い人と戦えるなんて思ってもみなかったから。いつも戦ってる来崎夏が羨ましいって、少しだけそう思っちゃったよ」


 正義がまかり通る世界ではないけれど、悪は必ず報いを受ける。


 そんな中で醜く足掻いたこんな私ですら、最後に『最強』に手を下されたのなら文句はない。


「──だから、対局ありがとう。……ミカドっち」


 そう言って、私は投了しようと駒を掴んだ。


 その時だった。


「いや、何勝手に投了しようとしてるんだ?」


 それまでずっと黙っていた渡辺真才から、不意にそんな言葉が告げられた。


 彼は盤上を挟んで私の眼を覗くと、自分の頭に人差し指を向けて、まるでこちらの心情を全て理解しているかのように信じられない言葉を呟いた。


「俺はお前を救うって言ったはずだぞ」


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