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第四十話 葵玲奈の過ちと、窮鼠を自称する最強

 幼い頃に交通事故で両親と弟を亡くした私は、いつからか呪縛にでも取りつかれたかのように将棋を指し始めた。


 元々将棋は好きだったし、弟がプロ棋士を目指していたこともあって、幼い頃の私は弟の夢を追いかけるように自分も女流棋士を目指そうと思っていた。


 弟と指す将棋は楽しかった。私の日常は彩に溢れていた。夢が叶う叶わないに限らず、それが普遍的な歩みであることに違いはなかったのだろう。


 ただ、家族を失ってからの私は、ひどい酩酊を抱えながら泥沼に浸かるように将棋を指していた。


 毒から這い出た泡のように、足を失った虫のように、汚く無価値な願望から生まれた私という存在は、自分を肯定できずに不確かな夢へと突き進む。


 葵玲奈──『玲』は清らかで透き通った内面を指し、『奈』は願いという意味が込められている。


 両親は私が美しく綺麗な内面を持つ子に育ってほしいという願いを込めて、この名をつけたらしい。


 ──醜い顔が鏡に映る。


 何かで作ったようなヘタクソな笑顔。共感性を得られない気の狂った口調。これのどこが美しく綺麗な内面なのだろう。


 鏡を見る度に吐き気がした。


 何かに追いかけられる焦燥と不安、そこから必死に逃げようと道の無い場所を進んでいく足。


 心は淀んでいき、内面は腐り果て、醜悪な感情ばかりが都合よく出てくるようになる。


 今の自分が両親の願いに背いてる事実に、酷い嫌悪感を覚えた。


 だから、私は自分のことを『アオイ』と呼ぶようになった。


 名前に相応しくないから、その名で誰かに呼んでほしくないから。戒めや贖罪といった烏滸がましい押し付けを心のどこかでしていて、それが表に出るのを嫌ったのだと思う。


 プロになるなんて大言壮語を口に出すのは好きじゃなかった。


 無謀だと言われるのが目に見えて分かっていたし、才能がないと貶められることの怖さを身にしみて感じていたから。


 ただ、強くなるためには誰かに教えてもらう必要があるのだろうと思ってはいた。


 ※


 それから小学生高学年になった頃。少し離れたところに、天王寺てんのうじ道場という幾多もの強豪を輩出した優秀な道場があるのを聞いた。


 私はそこに通うことを決め、少しでもプロに近づけるよう天王寺の敷居を強く跨いだ。


 総勢100名以上にも及ぶ門下生、生徒達の自主性も尊重する柔軟性の高さ、そして古典的ながらも確かな結果を残し続ける大台の貫禄。


 そんな由緒正しい天王寺道場の風景は──閑古鳥が鳴くほどに殺風景だった。


 入れ替わりで去っていく少年の顔を、当時の私は一瞬しか見ることができなかった。


「なんじゃ、入門希望者かね?」

「あ、はい……。えっと、ここが天王寺道場であってますよね……?」

「そうじゃ。看板を見たであろう?」

「は、はぁ……」


 噂では連日門下生達の声で賑わっているはずの道場だと聞いていたのだが、私が入門しようと足を運んだ日は誰も道場にいなかった。


 それどころか、生徒達がいた痕跡すらない。


 入口の壁に立て掛けられた段位を示す名札はすべて剥がされており、たった一枚だけ残った名札も先程の少年が取っていってしまった。


 私が入って来るまでに、一体何があったのか。


 後にこの道場の指導者である天王寺玄水げんすいから真実を聞かされた私は、そのあまりにも突拍子もない話を鼻で笑った。


 ちょうど数ヵ月前、私より1つ年上のプロになりたいという少年がこの天王寺道場に入ってきたらしい。


 その少年は才能に満ち溢れており、最初こそ勝った負けたを繰り返す子供らしい将棋を指していたのだが、ある日を境に才能に頼った指し方をしなくなった。


 そこからどんどんと勝ち星を重ねていき、生徒達をも圧倒し始めていったらしい。


 しかもその指し方が異常に近く、深く読めば詰ませる場面であえて詰ましにいかず受けに回ったり、相手の攻めを全て切らせた後に全ての駒を取ってから勝ちに行ったりと、とにかく勝つことへの確実性を重視した指し回しが多かったらしい。


 それに気を悪くした同年代の子供たちが対抗心を燃やして何度も勝負を仕掛けにいったのだが、その度に見るに堪えない惨敗を喫することになってしまい、次第に泣いてしまう生徒が続出。


 その後も少年は淡々と自分より段位が上の門下生たちを倒しにいき、その戦慄を呼ぶような恐怖の指し回しによって大多数の者達が心に傷を負って道場にこなくなり、それからたった数ヶ月で全員が脱退したのだという。


 そして今日、この道場にたった一人残されたその少年も相手がいなくなって脱退を決めたらしい。


 つまり、さっき私とすれ違った少年がその戦慄を指し回しをした主犯格だった。


 少年が取っていった名札には──『渡辺真才』と書かれていた。


 当時の私はまだ小学生ということもあって、子供が道場を壊滅に追い込んだなどという話は信じられるわけもなく、ずっと半信半疑だった。


 しかし、それから大会に出る度に、私が天王寺道場出身だと知ると多くの者が『天王寺道場壊滅事件』について聞いてきた。


 最初はただの噂話だとか、作り話だとかでごまかしていたけれど、多くの人に聞かれていくうちに段々とその事件が本当にあったことなのだと理解していく。


 少年はその後、南地区から追い出される形となって数日もしないうちに別地区へ引っ越したのだという。


 少年の力を間近で体験した者達は軒並み将棋をやめてしまい、その名を知る者は私以外誰もいなかった。


 それから年月が経ち、私は中学生になった。


 この時の私は非常に貧乏で、貯金の残高が着々と減っていくのを命の灯がかき消える思いで見守る日々を過ごしていた。


 早めにバイトを始めたかったが、この歳でバイトなどできるはずもなく、親戚で住み込みの家事手伝いなどをすることでなんとか資金源のやりくりをしていた。


 そして同時に時間が取れなくなって、自然と天王寺道場をやめることになった。


 やがて私は天王寺道場で学んだ経験を活かして大きな大会に出場し、そこで初めての優勝を収めた。


 定跡に囚われない変則の指し回しは天王寺玄水から学んだもので、現代の定跡にも通用するように工夫を凝らしながら自分なりの戦法を創り上げた。


 それが優勝という形で現代将棋にも通用した時は、正直嬉しかった。


 気づけば周りからトリックスターと呼ばれるようになり、研修会への誘いも何回か来たことがあった。


 でも、ギリギリの生活をしていた私にとって、これ以上のお金を消費をすることはできず、断ってしまった。


 そんな時に、西ヶ崎高校の噂話を聞いた。


 東城美香や来崎夏といった孤高の天才である二人が入るこの高校は、水面下で激化する二大組織の利権争いに巻き込まれている真っ只中らしく、何やら学校側も一枚噛んでいるようだった。


 そしてこの学校の名を背負って大々的に活躍した生徒には、将来的な面で様々な支援金が出されるらしい。


 立地がいいだとか、周辺に新しく建設する道場とのパイプを繋げるだとか、そんな小難しい話をする大人達の会話をひそかに聞いていた私は、この高校への入学を決意した。


 これで貯金は底を尽きる形となったが、他の高校よりも距離が近く、ある程度校則も自由、元より金額の観点からみても私に選択肢はなかった。


 そしてもう、この時点の私はすべてに余裕が無くなっている状態で、自分の人生を左右する決断すら曖昧に決めてしまうほどに心情がぐちゃぐちゃになっていた。


 それから西ヶ崎高校に入学した私は将棋部へ入部し、初日で東城美香と戦うことになった。


 天王寺道場で学んだ実力をいかんなく発揮しようとした私は、たった60手で東城美香に惨敗。


 まるで格差をつけるかのように私と彼女の間で明確な壁が生まれてしまった。


 それからも幾度となく挑んでは負け、挑んでは負けを繰り返す。


 読む力や大局観、実力差はそんなにないはずなのに、私と東城美香の間には圧倒的な棋力差が存在していた。


 このままじゃ永遠に東城美香を越せない。目立って活躍するには大将にならなくちゃいけないのに、このままじゃ間違いなく彼女が大将だ。


 大会が近くなり、焦りが募っていった私は、ついに思考が一線を踏み外した。


 ──そっか、退部させればいいんだ


 風鈴のような甲高い鈴の音が頭の中で木霊した。


 それは聞いたこともないほどに、綺麗な音色だった。


 ※


「じゃあ、始めるからね──」


 私が対局時計を押すと、その瞬間に時計のブザーが鳴り始める。


 私と渡辺真才の一騎打ち、退部を賭けた戦い。


 時間制限が存在しない私に対し、彼に残された時間はたったの10秒、その間に指さなければ即負けが確定する。


 渡辺真才は私の方を一瞥した後、ゆっくりと7秒ほど時間を使って一手目を指した。


「本当に後悔してないか?」

「してないよ」


 私は笑顔でそう返す。


 あの日から、たまに私の頭の中で鈴の音が鳴る。心が苦しくなっても、頭の中がぐちゃぐちゃになっても、鈴の音が鳴ると迷いが晴れて気分がいい。スッキリした気持ちになる。


「……重症だな」


 私の眼を覗いていた渡辺真才はそう呟くと、何もしない私に不思議そうな顔を浮かべた。


「指さないのか?」


 私はクスっと笑うと、未だ何も理解していない渡辺真才に真実を告げた。


「先輩の持ち時間は10秒だけど、私の持ち時間は無制限。つまり、私が指さない限りどんなに劣勢でも勝負は終わらない。この勝負が始まった時点で、先輩に勝ち目はないんだよ」


 昔、賭け将棋をやる真剣師の話で聞いたことがある。


 まだ対局時計というものが一般に普及していなかった時代、賭け将棋で負けそうになると一晩暮れるまで考え込み、やがて相手の方が根負けして勝負不成立になったという事例があった。


 最近では時間制限を無くすという行為自体珍しいもので、よほどのことがない限りは将棋の対局に時間制限はつきものだ。


 だから今回のハンデを聞いた時、私は勝ちを確信していた。だから勝負に応じた。


 少しでも負ける可能性があるなら、私は初めから勝負を受けていない。


 やっぱり私を侮ったね、先輩──。


「あぁ、そうだな。だから安心しろ、俺は最後まで付き合うから」

「え……?」


 そう言うと、渡辺真才はカバンから大量のお菓子やジュースなどを取り出した。


「事前に部長に頼み込んでね、1日だけ学校に泊まることができないか聞いたんだ。さすがに公共の施設で泊まるだなんて無謀だと思っていたんだが、部長は二つ返事で快諾してくれたよ。学校側にも部活の一環ということで特別に許可取ったってさ」


 一瞬、脳をハンマーで殴られたような衝撃が走った。


「え……は……な、なに、いって……」

「トイレも事前に済ませてあるから大丈夫だ。だから気にせず、いつでも時間攻めをするといい。まぁ、漏れそうになったら最悪ここでするがな。はははっ」


 信じられないようなことを平然と話す目の前の男に、私は戦慄を浮かべていた。


「く、狂ってるの……!?」

「はははっ……はぁ……舐めるなよ、葵玲奈。狂気に正気をぶつけるバカがどこにいる? お前が狂ってるんだから、俺だって狂って対抗するのが当然だろう?」

「い、いってる意味がわからない……!!」


 ハッタリだ、ブラフだ。そう冷静に判断しようとする脳内とは別に、その男の振る舞いが本気であると物語っている事実に動悸が激しくなる。


「あぁ、それと悪いが、この会話は全部録音してある。もちろん俺からこのやり取りを口外する気はない。……が、仮にお前がこの勝負を破棄して俺を別な罠にハメようとするなら、俺は容赦なくこの録音を武器に戦うとしよう」


 そう言って渡辺真才はポケットから本当に録音しているスマホを取り出す。


 録音時間が既に20分を過ぎているのを見るに、本当にここに来る前から準備していたことを理解する。


「なんで……どう、やって……」

「俺が無策でこの場に来ると思ったか? 人の過去をバラすぞって脅しの内容を手紙に書いたんだぞ? そんなことをされた側が、じゃあ止めなきゃって真っすぐ敵地に突入するか? するわけないだろ普通」


 "普通"という言い方でさも当然のようにそう告げる。しかし、私にはそれが普通には思えなかった。


「お前が舞台を用意するより先に、俺が舞台を用意した。ただそれだけの話だ」

「あ、あり得ない……! そんなこと、できるはずがない……!」

「何事も先手で仕掛ければ勝てるとは限らない。勝負においては先手も後手も大して変わらないんだよ。これは将棋初心者でも知ってる言葉だぞ?」


 狼狽する私に容赦なく詰め寄り、異様な雰囲気で眼光を飛ばす渡辺真才。


 その一切の慢心を浮かべていない真剣な表情は、いつもとは全く違う別人のような存在だった。


「俺はしがない一匹のネズミだが、追い詰められたら猫にだって噛みつくさ。ほら、いつもみたいに"にゃはは"って笑えよ。……こっちだって人生懸けてんだ、地雷原でタップダンスくらい踊ってやるぞ?」


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