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第三十三話 頂へ

 天竜一輝はかつて、地区大会すら優勝できない無名の選手だった。


 それは来崎と同じように思えるが、天竜の場合は更に過酷な状況下にあった。


 予選すらまともに通らず、1回戦で敗退することも珍しくない。周りからはカモ扱いされ、大会に参加するたびに選手達から勝ち星が一つ増えると喜ばれるような待遇を受け続ける日々。


 天竜は唯一の特性として"居飛車"を得意としている。


 だがそれは、居飛車も使えるという意味ではなく、居飛車でしか戦えないという意味でだった。


 それは相手の戦法も同様である。相手が居飛車の場合にはある程度戦えるが、振り飛車にされると簡単に負ける。それが天竜の弱点だった。


 だが、天竜はある少女──オールラウンダーの麗奈と出会うことで大きな成長を遂げ、気づけば西地区を背負う最強の存在として君臨するようになっていった──。


 ※


 対局開始後、迷うことなく居飛車を決める天竜に対し、俺はどうするか迷っていた。


『天竜一輝は振り飛車が苦手だ。だから振り飛車を指せばお前でも勝てる。しっかり決めてこい!』


 対局が始まる前、武林先輩からそう告げられていたことを思い出す。


 振り飛車が苦手か。……確かに居飛車と振り飛車は根本的な差異はないが、戦い方は大きく分かれる。人によっては得意不得意が出るだろう。


 振り飛車を指せば勝てる。武林先輩がその情報を知っているというのなら、それは周知の事実というわけだ。


 なら当然、天竜だって理解しているはずだ。自分が振り飛車をさされるはずだと理解してこの戦場に立っているはずだ。


 なら、そんな相手にわざわざ弱点だからと振り飛車を指すのが正解か? それは相手の罠にハマるという可能性を考慮していないんじゃないのか?


 もし仮に振り飛車を指して優勢を取れるというのなら、天竜は自分の苦手な部分の対策も取らないマヌケということになる。


 ──よく目を凝らせ、渡辺真才。目の前の男は弱点を補うことをしないマヌケに見えるか? 全然違うだろう。


「……!」


 俺は飛車を振ることなく居飛車を決めて攻勢に出た。


 同時に天竜が感嘆の反応を見せる。


「……ほう。今日の大会、俺を相手にしてきた奴は全員振り飛車を指してきたが、君は居飛車を選ぶのか」

「じゃあ、アンタはその振り飛車を指してきた相手全員に勝ってきたってことじゃないですか。そんな相手に振り飛車指すなんて自殺行為でしかない」

「ははっ、確かに」


 そう、振り飛車を指せば少なくとも勝機が見出せる。そう考えて多くの選手は彼を相手に振り飛車を指したはずだ。


 だがそれは、天竜から見れば自分の唯一見える弱点に大勢の魚が集まるようなもの。その弱点を塞いでしまえばこれ以上簡単な対処方法はない。


 少しでも勝機を見出すのであれば、相手の予想だにしない一手を指す必要がある。


「──だが、君はひとつ勘違いをしている」


 天竜の言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。


「俺は確かに振り飛車の対策を何重にもおこなっている。だがそれは、振り飛車相手に強くなったというだけで、──相対的に居飛車相手に弱くなったというわけではない」


 天竜は勝負師の宿った瞳を盤上に向けると、俺の角を取って開始早々角交換に持ち込んだ。


「俺は相居飛車戦で何度もプロを倒したことがある。君は果たしてそのいただきに手が届いているか?」


 角交換から導き出される定跡はひとつ。


 俺が東城を相手に能書きを垂れた言葉、明日香を相手に上から目線で作戦勝ちしていた言葉。


 ああ、今度は──俺の番か……!


「──現代将棋はAIの時代だ。理想形なんか存在しない。さぁ、渡辺真才──いや、。ノーガードの殴り合いはもちろん勉強してるよな?」

「これは……っ」

角換かくがわり最新型、▲4八金▲2九飛型の進化系対策、最新版の右玉みぎぎょくだ。銀矢倉ぎんやぐらには組ませないぞ?」


 冗談じゃない。これはつい最近プロ間で行われていた角換わり研究の最先端だ。


 俺もネット将棋をやっているから分かる。どれだけの研究を続けても未だに結論がつかない最難関の研究場所、分岐が細かすぎて暗記が追い付かない最上級者向けの定跡。


 現代の、それもプロ間での最新形だ。


 それにこの男、今俺のこと自滅帝って──。


「くっ……!」


 今はそんなことどうでもいい!


 まずい、まずい……! 完全にしてやられた!


 この分野は俺の専門外だ。将棋は必ず悪手が混ざる。だから俺は相手の隙を突いて倒すことができた。


 だが目の前の男にそれは通じない。なぜならコイツは、定跡を完全に網羅した暗記型。つまり、悪手を一切指さない。


 ──純粋な研究量で、俺を上回る気だ。


「どうした? 手が止まっているぞ、自滅帝」

「っ……!」


 俺はいきなり本気を出して自滅帝の思考を置き換える。


 しかし、俺がどんな巧妙な罠を仕掛けようとも天竜がその罠に乗ってくることはなかった。


 全てを見切られて……いや、暗記した答えと照らし合わせて最適解を導き出してくる。


 この男、絶対に最善手を指してくるタイプのバケモノかよ……! 完全にプロ棋士クラスじゃねぇか……!


 いや、まだだ。体勢を立て直せばまだなんとか──。


「言ったはずだ。銀矢倉には組ませないと」


 俺の考えを全て見切っていた天竜が、何十手も先を読んだ手を軽々と盤上に放つ。


「なっ──」

「読めないと思ったか? 甘いな」

「なら……!」

「それも読んでいる」

「──ッ」

「それもだ」


 全ての攻撃が受け流される。


 その思考速度はさっきの来崎をゆうに超えていた。


 一体どれだけの経験を積めばそれだけの手が瞬時に浮かぶのか。底が見えず、目の前には奈落の闇だけが広がっている。


 そもそも俺は、人と対峙しているのか?


「あ、あ……」


 天竜から放たれる圧巻の一手に、俺は一種の戦慄状態に陥っていた。


「どうした? 人を戦慄させるのが自滅帝の指し回しじゃなかったのか? 俺に戦慄していては元も子もないぞ」


 序盤においての作戦負けは死に直結する。相手が格下であれば何とかなったものの、ここから格上相手に勝てる術はない。


 互いに膨大な研究をしているからこそ分かる。ここから俺が勝つには、既存の研究を越えるほどの新手を繰り出すほかないと。


 しかし、そんなもの実戦で生まれるわけがない。不可能だ。


「……落胆だな。もう少し楽しめる相手だと思っていたんだが」

「くっ……!」


 最新形は超急戦、つまりは速攻で勝負が決まる。


 まだ始まって10分と経っていないのに、俺達の局面は終盤戦へと突入していた。


 形勢は最悪。巻き返す策はもうない。あったのかもしれないが、事前に全て潰された。そうなるように計算されて追い込まれた。


 駄目だ、活路が見つからない。


 ……せめて最後まで足掻いて、少しでもいい将棋を指そう。


「……諦めの目か」


 何かに期待していた天竜は落胆の表情で俺を見下ろすと、肩の力を抜いて隣でやってる麗奈の対局を見始めた。


 ──惨めだな、やっぱり。


 どれだけ努力を重ねても、天上の存在には敵わない。綺麗ごとで棋力の壁は塗り替わらない。


 積み上げてきた力をただ放つだけの作業。周りが必死に成長していく中、俺は多くの策で相手を翻弄してきた。


 佐久間兄弟はここまでの負け分を取り戻そうと必死になって読みを進めている。


 葵は戦ってる最中に新しい戦法を思いついたらしく、決勝でぶつけてみるそうだ。


 武林先輩は部長としてやり残すことが無いよう、この1年は常に最高の戦いを目指しているらしい。


 来崎はこの大会で大きく飛躍した。自分の不安点を解消し、今この瞬間を全力で戦い抜いている。


 東城は俺に言われた弱点をしっかりと勉強してきたらしく、まだ戦い慣れていないせいでさっきの準決勝は負けてしまったものの、何か勝因となるものを掴めたらしい。


 俺は──俺はこの大会を通じて、何か一つでも成長したのだろうか?


「……」


 成長してこなかった。何もしてこなかった。


 ただ勝つことだけを考え、ただ倒すことだけを考え、自分自身を高めることを疎かにしていた。今の自分の棋力で戦い抜けるだろうと勝手に思い込んでいた。


 本当に慢心していたのは、俺だったんじゃないだろうか?


「……ははっ、笑えるね」


 俺は誰にも聞こえない声でそう呟いた。


 あらゆる物事に努力は不可欠であり、その努力を怠った者から報いを受けることになる。


 俺は成長をするという努力を怠った。だから格上が相手になったとき対処ができなくなった。


 全て、自業自得だ。


 全部、全部……俺の力が足りなかったせいだ。


 だから──。


「はい、お水」


 突然、俺のテーブルに自販機で買ったであろう水が置かれる。


 俺は生気のない顔でその送り主を見上げた。


「東、城……?」

「──がんばって」


 東城はただ一言そう言って、自分の席へと戻っていった。


「……」


 頭が熱くなる。ついさっきまでの自分へ怒りがこみあげてくる。


 あぁ、バカだ。俺は本当にバカなことを考えていた。


 少しでもいい将棋を指す? 慢心していたから格上に敗れるのも仕方ない?


 ふざけるな、ふざけるなよ……。


 自滅帝の将棋はいつだって時代を切り開いていた。どんな相手だって臆することなく立ち向かっていた。


 それは、相手の顔を知らないから、相手の本当の棋力を知らないから。だから俺は常に自分だけを信じて指していたし、指せていた。


 目の前の相手は確かに大物だ。俺なんかより遥かに活躍しているトップアマの中の一人なんだろう。


 だけど、それが敗因になるわけじゃない。負ける理由になるわけがない。


 自分より強い相手だと思って指しているから、強い手を指された時にやっぱり勝てないと思考が錯覚してしまうんだ。


 ──勝たなきゃ。


 ──勝たなきゃ。


 ──勝つしかないんだ。


 東城にまで心配されて、がんばってと告げられて──どうして立ち止まることが許される。


 俺は自滅帝だ。どんな相手でも自滅するように突貫していき勝利を捥ぎ取ってきた、ネット将棋トップランカーの自滅帝だ──!


 この大舞台で成長のひとつやふたつしなけりゃその名を名乗る資格すらない……!


 全力だ。


 体に残ってる全ての力を出し切って考えろ。


 そうして神に最も近しい一手を──。


 いや。


 ──神の一手を指せ……!!


「──ッ」


 全力全開の思考。自滅帝と渡辺真才どちらの思考も全開までフル回転させ極限の世界へと強制的に手を届かせた。


 そうして俺は、最初に天竜と交換した角を、天竜の陣地──相手のすべての駒が利いている場所へ打った。


「……は?」


 天竜が口を開ける。開けたまま、閉じない。


 当然だ。俺は最強の駒のひとつである角を、天竜にタダであげたのだ。


 自分が残していた唯一のチャンスを棒に振った。勝機を自ら捨てた。そんな狂気にも等しい一手に天竜の表情が歪む。


「……何のつもりだ、これは?」

「何のつもりって──"自滅"ですよ。俺は自滅帝なんでね」

「気でも狂ったのか……!?」


 気なんて最初から狂ってる。そうでなきゃ俺は自滅帝なんてやってない。


 加速する思考にブレーキを掛けないまま、ただひたすらに駆け抜ける。そんな感覚が押し寄せてくる。


 そうして未知の感覚を前にした俺は、一種の極致へと突入した。



 ──極限状態ゾーンである。



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