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第三十五話 優勝と、人生逆転の始まり

 最初から布石は打たれていた。


 その正体も、原因も、全てがハッキリと分かるくらいの大きな布石。


 だが、そこに疑問を持ち続けられなかったことが俺の──天竜一輝の敗因を呼んだ。


「……さっきの、角打ちか」


 敗因となる心当たりは、それしかなかった。


 序盤戦は明確な作戦勝ち。この手の無駄にプライドの高い男は単純だ。俺が振り飛車を苦手としていることを知っていても、その裏をかいて居飛車を指してくるタイプだろう。


 そして中盤戦、案の定居飛車を指してきた渡辺真才は、俺の角換わりの研究策にまんまとハマって泥沼に引きずり込まれた。


 評価値、点数で計算すれば大した差はついていないのだろうが、対人間同士で行えば俺の陣形の方が圧倒的に指しやすい状態だ。トップアマ同士がこの局面から戦えば9割以上こちら側の陣形が勝つだろう。


 これは初めから、そういう戦いだった。


 だが、渡辺真才は放った。──そう、あの角打ちだ。


 意図も意味も読めない理解不能なただ捨て。歩の代わりでもするかのように、彼はこちらの王様と飛車の間に角を捨てた。


 戦意喪失でもしたのだろうと、そう思った。もしくは俺が深読みをすることでその角をあえて取らない、という選択肢をすることに賭けたハッタリなのだろうと踏んだ。


 だから迎えた終盤戦で、俺はありがたく貰った角を使ってふんだんに攻めていった。


 その手を見て向こうは生気を取り戻したかのように突然猛攻を始めたが、俺は敢えて受けずにノーガード戦に持ち込んだ。


 俺が受けてしまえばそれだけ向こうにチャンスの機会が渡ることになる。ここで変にあやをつけられて局面を乱されてはたまったものではない。


 ギリギリの殴り合い、ギリギリの攻防。それでいて明確に一手差でこちらが勝つような局面になるよう調整した。向こうのチャンスを全て踏みつぶした。


 だから、勝ったと思った。


「……君は、未来でも読めるのか?」

「この試合に限っては」

「冗談で聞いたつもりだったんだが」


 瞳孔から放たれる赤い光は虚像か幻覚か。ただその男の軌跡を振り返れば、勝利への核心的な一手をずっと放っていたことを今になって理解する。


 最終局面で起きたのは、魔法のような速度の逆転だった。


 一手差で勝っていると思っていた俺は、一手差で負けていた。


 原因は、あの角打ちだった。


 俺はその角を同玉と王様で取ってしまった。王様で取ることで、王様の位置が一段だけ吊り上がってしまった。


 それが最後の最後で速度の逆転を生んだ。王様が一段上がってしまったことで、こちらの詰む速度が倍早くなった。端を絡めた桂打ちからの頓死の隙を向こうに与えてしまったんだ。


「……正気じゃない、ありえない。こんな手を狙って指すなんて」

「だから、逆転した」

「……っ!」


 その男の顔は、最初の頃とはまるで別人だった。


 限界まで研ぎ澄まされた神経。極限まで磨かれた集中力。そしてなにより、こちらの戦意を猛烈に削ぐほどの威圧と威風。


 こちらが格上だと思って指していたはずの将棋は、気づけば向こうが格上となって指していた将棋だった。


 もしあの角打ちに対して、同玉ではなく同飛車と飛車で取っていれば結果は変わっていたかもしれない。だが飛車で取れば向こうの攻めを許すことになる。せっかく有利になったアドバンテージをみすみす捨てる手なんか簡単に指せるわけがない。


 ……なのに、この男はそれをやってのけた。


 自分が不利になる一手を、自分が唯一残していたアドバンテージをみすみす捨てる一手を平然と放ってきたのだ。


 あぁ、忘れていたよ。


 目の前に座するはネット将棋界最強のプレイヤー、将棋戦争『九段』の男──自滅帝だということを。


「……ひとつ聞きたい。ここから君が負ける可能性はあるか?」


 そう俺が問うと、渡辺真才は少し驚いた顔を浮かべた後、真剣な面持ちに戻ってこう答えた。


「──無い。もう全部読み終えた」


 笑ってしまうような回答だった。


 ※


 人の可能性とはここまで広げられるものなのか。


 実に数年ぶりとなるゾーンの体験。その感覚に浸りながら俺は盤上を見下ろした。


 天竜は俺の角捨てに驚いていたが、俺の中ではごく自然に生まれた一手だった。


 もちろん俺も信じられない気持ちではあったが、結局その手を考えたのは自分で、指したのも自分だ。だから不思議と違和感はない。


 ──あそこから天竜に勝つには、神の一手を指すしかなかった。


 だが、そもそも神の一手とはなんなのか?


 現代最強の存在であるAIは、常に最善手を指すことができる。だが逆に言えば最善手しか指せない。これがAIの弱点だろう。


 優勢の状態から最善手を指し続ければ絶対に勝てるだろうが、劣勢の状態から最善手を指し続けても逆転するとは限らない。


 最善手とは0点の手だ。プラスの手ではない。


 そして将棋には、プラスの手など存在しない。


 将棋は常に減点式。互いに間違えた方が点数を下げていき、マイナスになるほど負けやすくなるというもの。


 だからマイナスにならない0点の手は、その瞬間における最善手ということになる。


 ──だが、人間を倒すにはその手法ではダメだ。


 最善手や悪手といった手はあくまで計算によって成り立つものだ。人間同士の対局は必ずしも計算によって決まるとは限らない。評価値によって定まるとは限らない。


 評価値が全てを決めるというのなら、将棋に『逆転』なんて言葉は存在しない。


 人間を倒すという意味での本当の最善手、いわば存在しないはずのプラスの手こそが、将棋における神の一手なのだろう。


 神に最も近しい思考を越えるには、神の思考を手に入れるには──その場における最善を指すという前提を崩し、悪手を指す必要がある。


 AIに対して悪手を指しても意味なんてないだろう。機械は常に完璧な手を繰り出すのだから、こちらが悪手を指したところでただマイナスになるだけだ。


 しかし、人間が相手なら話は別。


 人間はAIと違って感情がある。考える力がある。大局観──そこから生まれる幾多もの思考や構想、相手を罠に陥れるための策。そう言った手はすべて最善手として定義されない。考えられた手ほど悪手と判断されるのが人間らしい将棋というものだろう。


 だから俺の放った角打ちは、ただの悪手ではなく勝負手に変わる。幾多もの結末の末に神の一手へと変貌する。


 天竜は俺が戦ってきた中でもトップクラスに強い相手だ。だから俺がどれだけ最善手を指そうとも、天竜はその手を先読みして抑えてくるだろう。


 だから、あえて悪手を指すことで向こうの玉形ぎょくけいを大きく崩した。その形を乱すことで、終盤の読みを外す細工を整えた。


 天竜のような棋力を研究を中心として織り交ぜる相手には、定跡を外して実力勝負に持っていくのが得策と言われている。


 見慣れた形を作らず、研究からできるだけ遠ざけて指していくのが基本だ。


 天竜は普段の形だと思い込んだまま戦ってしまったことで、俺が途中で角を捨てたことによるくさびが入っていることに気づかなかった。


 人は得をする喜びより、失うことの後悔の方が大きい。そのうえ一度得た利益は既に自分が保有していたものだと脳が錯覚を引き起こし、それを奪われることに酷く抵抗が生まれる。


 ──コンコルド効果。


 天竜は俺の角打ちを飛車で取っていればまた一局だった。俺との点差は一気に縮まり、再び互角に戻ってしまうが、それでも負けることはなかった。


 だが、天竜は俺との間に広がった差を失いたくなくて王様で取ってしまった。何かがあると分かっていながら、理性でその判断を否定してしまった。


 その結果が今の惨状に繋がっている。


「……全部読み終えた、か。君のその言葉が本当かどうか興味があるが──」


 天竜の言葉に、俺は身構えて息を整える。


 俺はまだゾーン状態だ。既に手は読みつくしているが、それでも何が起こるか分からないのが将棋だ。


 もし今、天竜がゾーンに入ったなら、本当にどうなるか想像がつかない。俺の読めていない何かを放ってくるかもしれない。


 警戒だけは怠るな──。


「──まぁ、その眼を見る限りどうやら本当らしい。それにもう戦う理由はなくなったからな」

「……?」


 天竜はそう言うと、俺に向かって頭を下げた。


「負けました」

「……え」


 まさかの投了に俺は思わず硬直する。


 確かに局面は必至級だが、まだ詰みまで明確に定まったわけじゃない。ここで手を抜くことに何の意味が……。


「あ、ありがとうございました」


 俺は怪訝に思いながらも頭を下げて挨拶を返す。


 すると天竜は勝敗の決まった紙を俺に見せつけてきた。


「……!」

「俺がここで頑張っても意味がないんでね。君達は強かったよ。想像以上に」


 手渡された紙にはチームの勝敗が書かれており、俺はその内容を見て目を見開いた。


 大将 渡辺真才  〇

 副将 佐久間魁人 ✕

 三将 武林勉   〇

 中堅 来崎夏   〇

 五将 葵玲奈   〇

 次鋒 佐久間隼人 ✕

 先鋒 東城美香  〇


 西ヶ崎高校は、俺を除いて既に優勝を決めていたのだ。


「おめでとう、渡辺真才。──今日から君がこの地区の新たな王者だ」


 天竜が拍手をして俺を祝福する。


「お、おい……マジかよ」

「冗談、だろ……? 天竜が負けたのか……?」

「嘘……」


 黄龍戦という名のある大会で優勝したこと。西ヶ崎高校の大将を背負って将棋部を優勝に導いたこと。そしてあの天竜一輝に勝利したこと。


 これらの事実は決して軽いものではなく、俺の存在は俺が思っている以上に世間に拡散されていき、この日の出来事を『西地区・無名の新王誕生』として一気に話題となっていった。


 そしてこの大会をきっかけに、俺の高校生活も大きく変わっていくのだが、この時の俺はまだそのことを知らない。


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