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第三十話 覚醒

 会場に向かう来崎を追って、俺も会場に入ろうとした時だった。


「随分と面白いものを見させてもらったよ」


 そう声を掛けてきたのは、今大会の主催者。名前は確か……鈴木哲郎すずきてつろう県会長だったか。


「しかし、将棋にはルールがある。対局中の者に安易に語り掛けてはいけない。君はそれを分かっているのかい?」


 確かに、将棋を対局中の者に外野が話しかけることは基本的にNGとされている。


 俺はあのとき、来崎にはどうあっても話しかけるべきじゃなかったのだろう。


 だが俺は同時に、どうしても来崎を目覚めさせたかった。彼女が紡ぐ新世界をこの目で見てみたかった。


 それぐらいの夢は見てもいいだろう。


 だからここは、屁理屈を通させてもらう。


「規定用紙に書かれていたのは、対局者にを語りかけてはいけない、ですよ。俺は一度も対局の内容を喋ってません」


 俺は来崎に一度も対局の内容に関して口を出していない。あくまで思いっきり戦ってこいと言っただけだ。


 それ以上でもそれ以下でもない。たとえそれが屁理屈だとしても、真実だ。


「ふっ、食えない男だ。いいだろう。今回は見逃すとするよ」

「ありがとうございます」


 俺はそう言って頭を下げると、会場に足を踏み入れた。


 場の雰囲気は凍り付いたまま、立つことすら不安に感じるほどの焦燥が来崎に向けられる。


 誰も勝利を確信していないし、誰も期待の目を向けていない。せいぜい考えているのは、負けた来崎をどう慰めるかくらいだろう。


「渡辺君……」


 俺を見つけた武林先輩が不安そうな表情で近寄ってくる。


「部長、まだお昼食べてなかったですよね? 今のうちに食べてください」

「私はこれでもお前達の部長だ、大事な仲間を見捨てて食事など取れん!」

「いや、そういう意味じゃないですよ」

「何……?」


 どうやら、俺が来崎の負けを悟ったのだと勘違いしているようだ。


 だから俺は、少し笑いながら武林先輩へ告げた。


「準決勝はもう勝ったので、決勝へ向けて英気を養ってくださいと言ってるんです」

「……それは本気で言っているのか?」

「はい」

「来崎君に何を言った?」

「思いっきり指せと」

「……そうか、これ以上問う必要は無さそうだな」


 武林先輩はそう言うと、背を向けて休憩室へと向かって言った。


「来崎君に伝えてくれ。──よくやった、とな」

「もちろんです」


 恐らく武林先輩もある程度気づいていたのだろう。それを放置していたのは俺と同じ思惑があったのか、それとも後輩の自主性を信じようとしたのかは分からない。


 ただ、その背中に灯る炎の渦は、東城や葵とはまた違った視点での強さが感じられた。


 俺は踵を返して来崎の観戦に向かうと、それまで凍り付いていた雰囲気は別の何かに変わろうとしていた。


「この絶望的な状況から巻き返そうというのか。醜い悪あがきは止めておけ、棋譜を汚すことになるぞ」


 そう告げるのは銀譱道場26のエース、東郷義信。


 俺はこの男を知っている。俺がまだ小学生だった頃、西地区を代表し県の最上位クラスで戦っていた男だ。


 見た目通りの堅物で、なおかつ他人を見下す傾向がある。


 それに彼はどんな局面でもよく考えて指すため、時間攻めをされると弱くなるが、今回のような30分の30秒だと完全に独壇場になる。


 対する来崎は既に秒読み30秒状態だ。時間なんてあってないようなもの。ここから終わりまで1手30秒以内に指さなければならないこの地獄は、普通の人間に耐えられるスピードではない。


 しかし、今の来崎は違う。


「……? なんだ、その手は?」


 独学の系譜から生まれ出た未知なる素質は、常人の理解を越えて疑問を持たせる。


 それは来崎本人ですら納得できないほどの異常な一手だ。しかし、その一手こそが人間の可能性を教えてくれる。


 定命の生物がもたらす空論、その範囲外にある理解を越えた境地。人間だけに許された極限の手。


「……え?」


 異常性にいち早く気づいたのは、このメンバーの中で一番強い東城だった。


 東城は来崎の指し方に違和感を覚えると、それを全く気にせず指していく来崎に目を見開く。


 来崎は秒読みに入っている。それはつまり、1手30秒以内に指さなければいけないという縛りである。


 ということは、普通の人間は30秒限界まで考える。


 30秒以内に次の手を思い浮かんだとしても、時間に余裕があるのならその次の手まで考えなければならない。


 30秒という時間は貴重だ。余すことなく使い、少しでも多く考えなければならない。


 だというのに、来崎はさきほどからずっとノータイムで指していた。


 追い詰められているはずの来崎が、自ら残された30秒という貴重な時間を使うことすら放棄して、まだ膨大な時間を残している東郷相手に時間攻めを行っている。


 これでは秒読み5秒でやっているようなものだ。


 そのあまりの異常性は、これまでの冷静な指し方を好む来崎からあまりにかけ離れている。なんて言ったってあの東城を驚愕させるに等しいほど気の狂った行動なのだから。


 だが、今の来崎には計算や合理性と言った理論的な考えがない。ただ本能のままに指している。そこに理屈などありはしない。


 この辺りで葵や佐久間兄弟も少しずつ理解し始めた。


「……これって、まさか……」

「……!」


 東城の口角が上がる。絶望に染まっていたはずの西ヶ崎高校の目の色が変わる。


「……なんだ、これは……」


 終盤戦。崖際まで追いつめた来崎の王様を取るだけだった東郷は、来崎の異常な粘りに段々と余裕が無くなってくる。


 死なない。なぜか死なない。追い詰めているはずなのに、攻撃すればするほどゾンビのように生き返る。


 小駒を埋め、防御と回避を繰り返し、反撃の狙いを見せながら少量のポイントを稼ぎ続ける来崎の抵抗。それはまともな精神状態から放たれる一手ではない。


「……まて、なんだこれは……なぜ崩れない……? なぜ形勢が引き戻されていくんだ……」


 それまで圧倒していたはずの東郷は、恐る恐る手を引いて来崎の方を見上げる。


「……貴様、俺の手が、見えているのか……?」


 そこで初めて、銀譱道場の者達は焦燥を浮かべて来崎へと視線を向けた。


「──」

「──っ!?」


 一瞬だが、来崎の表情を見た東郷は猛獣にでも襲われたかのような反応を見せ、冷や汗をかきながら全力で迎え撃つ体勢に入った。


 だが、もう遅い、もう遅いぞ東郷。今の来崎は俺でも止められない。なんていったって世界の中心に立っているからな。


「調子が悪かったんじゃ、なかったの……?」


 そう呟く東城に、俺は笑いながら否定する。


「まさか、その逆だよ」

「うそ、でしょ……?」

「本当さ」


 そう、来崎は調子が悪かったのではない。その逆──調子が良すぎたんだ。


 急激な成長と集中力の限界突破による膨大な思考の拡張。来崎はそうして膨れ上がる自分の能力に、ただついていけてなかっただけだ。


 ああ、そうさ。来崎は最初から最高のコンディションだった。


 あの心境、あの表情、どこからどうみても極致に至る寸前のそれだ。


 来崎は自分の経験の範囲外から呼び覚まされる未知なる一手に恐怖し、無理やり思考から除去することで理論的な手を指そうと試みた。


 だがそれは、核心的な一手を投げ捨ててわざと弱い手を指すようなものだ。


 本当は正解が浮かんでいるのに、その過程に納得できず、結果を信用できない。だからこそ抑制に神経を注いであれだけの苦悩を浮かべていた。


 全力を出すどころか、全力で手加減していた。それが来崎の追い詰められていた原因だった。

 本人がそれに気づかないのだから、よほどの恐怖があったのだろう。


 だが今は違う。来崎は本能のままに指している。


 抑え込んでいた力が開放され、一種の忘我となって世界を駆け巡る。


 かつて、伝説に名を刻んだ棋士はこう語ったことがある。


『アイルトン・セナは時速300kmの世界で神の存在を見たといった。将棋にも思考の最中、時速300kmの世界がある』と。


 来崎は今、時速300kmの世界を見ている。


 どこまでも加速していく思考の中、感じたこともない限界の先に恐怖と興奮が押し寄せてくる。


 そこでアクセルを踏む勇気があるかどうか、それが極致への分岐点だ。


「──」


 そして、迷いの消えた来崎は躊躇わなかった。


 ノータイムで全てを繰り出し、あらゆる効率を投げ捨てた感覚の一手を解き放っていく。


 アクセル全開、トップスピードで入る極限の境地。歯止めの効かない加速の領域に全身全霊をもって突入していく。


「……入ったのね」

「ああ、俺も久々に見た」


 来崎に何が起こったのかを理解した東城は、超人でも見るかのような視線を来崎に向ける。


 そう、来崎は今この瞬間、天理に触れたんだ。


 ──『極限状態ゾーン』に入っている。


「バカな……!」


 潰れかけだった来崎の守りは見る見るうちに修復していき、いつの間にか鉄壁の要塞へと成りあがる。


 東郷も必死に潰そうと反撃の手を見つけるが、来崎の思考が一手も二手も上回る。


 当然だ、人間の考え得る思考の範疇に今の来崎はいない。


 最強の存在である将棋AIですら瞬時にたどり着けない極限の一手を繰り出しているのだから、常人が敵うはずがない。


 今この瞬間、来崎は天上の領域に足を踏み込んでいる。神の一手に最も近しい思考が宿っている。


 人間は演算機を越えられないというが、覚醒した人間の思考は計算で測れる常識の遥か外へと飛び出させる。


 ──ピッ。


「なっ……!?」


 東郷の時間が無くなり、ついに秒読みに入る。


「バカな、あの東郷さんが秒読みに入ったのか……!?」


 それまで圧倒的な時間差があったはずの両者は、気づけば同じ舞台に立たされていた。


 来崎は秒読みの状態でありながら、東郷の持ち時間を全て削り切った。普通ならありえない状況だ。


 来崎がこれまで攻めることなく守りに徹していたのは、これが狙いだったのだろう。


 今こうして考えれば合点がいく行動だ。だが、来崎自身はそんなこと考えちゃいない。あくまで本能がそうしろと命じたのだろう。


「──」


 東郷の持ち時間が無くなった瞬間、来崎は守ることをやめて一気に攻めへと転じた。


「くっ……!?」


 痛い所を突かれた東郷が思わず表情を歪ませる。


 東郷は時間攻めに弱いということを、恐らく来崎は知らないだろう。


 だが、ゾーンはすべてを理解する。相手の表情、動作、感情、そして心情までも。自分の見えている世界の全てを理解する。


 そして、その場で最も最適解となる答えをなんの躊躇もなく導き出す。これはそういう類の理不尽だ。


 俺は思わず口角が上がり、ワクワクした感情が止まらなくなった。


(もっと楽しめよ、東郷義信。お前の前にいるのは将棋の神に最も近しい存在だぞ)


「──舐めるなよ……! 俺は銀譱道場のエースを張ってる男だッ!!」


 東郷の気合を入れた一手が盤上に繰り出される。


 金を捨てた大胆な一手。取れば王手飛車、逃げれば詰み、受けざるを得ない。


「──」


 しかし、東郷がその手を放った1秒後に、数百倍の威力を持った反撃の手が来崎から繰り出された。


「なぁ……ッ!?」


 反撃の逆王手飛車、詰めろ逃れの詰めろ。来崎は相手の必殺技を利用してこちらの必殺技を繰り出した。


 しかもそれは必中だ。


「あ、あんな強かったのかよ……来崎……」


 佐久間隼人がドン引きした表情でそう呟いた。


 そりゃ驚くだろうな。あれを見て驚かない人間などいるはずがない。


 俺ですらまだ読めていない一手を秒殺で読み切るんだ。まるで人間じゃない何かを見ている気になる。


「嘘だ……アイツ、無冠の女王じゃなかったのかよ……!」

「俺達がこんな学生集団に負けるのか……? 冗談だろ……?」

「と、東郷さんが負けることなんてあるわけないだろ……」


 銀譱道場の面々が絶望した表情を浮かべ始める。


「……!」


 そこで動きを止めた来崎に、東郷は驚いて盤面から顔を上げた。


 胡乱の花束に紛れた毒は、風に吹かれながら舞っていく。


 まだ可能だと思ったのだろう。アクセルを踏み続けた先で、再び新たな世界を垣間見たのだろう。


 来崎は東郷を見上げると、魔女のような畏怖と美麗を混ぜ合わせた笑みを向けた。


「──少しゆっくり指し過ぎましたね。もう少しペースを上げましょうか」


 来崎は、もう一段階壁を越えた。


「……は?」


 同時に、東郷の目から光が失われた。


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