……終わりだ。
絶望的な局面、絶望的な形勢、そして絶望的にまとまらない思考。
私の戦う対戦相手は銀譱道場のエース、
私でも知っている大物だ。中学生時代に何回も戦って、一回も勝てなかった大物。
堅物で常に相手を睨みつけるような視線を向ける東郷は、そんな私の手を見て言葉を漏らした。
「所詮は無冠の女王か。先程から生温い手しか指せていないぞ」
「……っ」
──無冠の女王。
何回も大会に出ておきながら、一度も優勝したことのない私に対する蔑称。
手を抜いているんじゃないか、そもそも優勝に興味がないんじゃないかと後ろ指を指されたこともあった。
そんなわけない。
私になりに必死に食らいついて、必死に戦って、限界まで手を伸ばし続けた。
なのに、優勝ができない。勝率が安定しない。
今回の大会だってそうだ。これまで戦ってきた相手は全員私より棋力が下のはずなのに、私は1回も勝てていない。
そんな状態の私に、よりにもよって格上がぶつかった。
絶望以外の何が残っているというのだろうか。
(どうして、この思考は言うことを聞かないの……っ)
原因不明の乱雑した思考に、それまで築いてきた大局観が壊れ始める。
左右を見れば仲間が私の行く末を見守っており、その不安そうな視線がぐさりと胸に突き刺さってくる。
東城先輩は負け、勝敗は3勝3敗になり、全ての命運は私に託された。
「……できる……わけ、ない……」
消え入りそうな声でそう呟く。
銀譱道場の者達は既に休憩に入っており、私の試合を見ることすらしていない。自分達のエースの勝利を確信しているのだろう。
(駄目……もう、限界っ……)
溢れ出てきそうな涙を止める術がなく、私は勢いよく席を立つと、そのまま対局を放り投げて会場の外へと走っていった。
「来崎……!?」
「まって!」
「いい、俺が行くよ」
もう限界だ。もう耐えられない。これ以上の悪手を指し続けるくらいなら、いっそのこと逃げてしまえばいい。
とっさの行動に理性が追い付かず、私はただただ走り続けて会場の外まで出てしまった。
そして、外の空気にあてられた辺りでようやく正気を取り戻す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
ただただ湧き出てくる謝罪の言葉。それを伝える相手すらいない。
ふと上を見上げれば青く澄んだ空が視界に入り、それをただ呆然と眺めることしかできない自分の滑稽さが身に染みて分かってしまう。
「……おかしいな。私の脳もこれくらい澄んでいるはずなのに……なんであんなに色んな手が浮かんできて、私の思考を邪魔するの……」
いつもそうだった。
私の考えを邪魔する、感覚的な思考を持つもう一人の私。理性の欠片もない、猛獣のような本能に任せた一手を繰り出そうとする怪物。
最初の頃は大人しかったのに、いつからかその思考が冷静な考えを上回るようになってきた。
正しい一手を理論的に考えず、感覚に任せて指そうとする邪魔な存在。
私はそいつに食われている。だから今日も──。
「随分と酷い顔だね、来崎」
背後から声が聞こえて、私は静かに振り返る。
「真才、先輩……」
私の泣きっ面を見てもいつも通りの表情を浮かべる真才先輩は、私に近づくこともなく扉の前で止まった。
「対局はまだ続いているけど、戻らないの?」
「……いいんです。私が戻っても、どうせ勝てない」
「そっか」
真才先輩はそれ以上追及することなく、ただ扉の前で立っているだけだった。
1分、2分、3分……。ただ無言の時間が流れていく。
私の残り時間はもう5分ほどしかない。こうしている間にも着々と差はついていき、負ける可能性が上がっていく。
どうせ今から戻っても時間差で負ける。私があの場で席を離脱した時点で、残り数パーセントの勝てる勝負を放棄したようなものだった。
「……私を、連れ戻さないんですか」
「連れ戻す? 女の子の手を無理やり引っ張って? そりゃ周りからどんな目で見られるか分かったもんじゃないな、悪いがごめんだ」
「じゃあ、なんで……!」
じゃあ、なんでここにいるのか。その言葉を私は最後まで紡げず、片手で頭を抱えながら真才先輩を睨みつけた。
「さっきから頭の中がぐちゃぐちゃなんです、整理がつかないんです……。どれだけ考えても感覚の手に邪魔されて、計算しようにもノイズがかかって、全然先が読めないんですよ……!」
私は本心を真才先輩にぶつけた。
それを言ったところで理解なんてされるはずもないのに、私は自分が感じ取れる抽象的で曖昧な状態をそのまま口に出して真才先輩へとぶつけた。
「……私は無冠なんです。みんなして、私を無冠だって言い続けるんです。どの大会でも優勝出来ない、どれだけ参加しても手が届かない。持つべき棋力を履き違えた愚か者。私は無冠の女王。ただの一度も優勝できなかった、強豪の皮を被っただけの女なんですよ。……これ以上は、もう疲れました」
いくら自分を偽っても、いくら努力を重ねても、結局最後は自分の才能に突き落とされる。
ここは才能がものを言う世界だと知っているのに、少しでも期待してしまった自分がいた。
許されない。こんな私では、この世界で生きていくことを許されない。
「ふーん。来崎が無冠ね……ははっ、口に出せば冗談にしか聞こえないな」
「真才先輩は私のこと何も知らないじゃないですかっ!!」
私は感情的になって真才先輩の前まで迫る。
「ああ、知らない。今日初めて会ったばかりだから」
「だったら……!」
「──でも、君の指し手は誰よりも知ってるつもりだ」
「……!」
真才先輩の言葉に、私は動きを止めた。
「無冠? 誰がそんなことを言ってる? 俺の知る"ライカ"は、将棋戦争の開く全ての大会で優勝を経験しているはずだが?」
「それはっ、真才先輩が参加していないからで……!」
「それでも、俺以外の全てに勝利している。その事実は違うのか?」
「……」
私が唯一、誰にも負けていない大会。──それは将棋戦争の中で開かれた大会だった。
そこで私は何度も優勝を重ねている。何度も勝ち上がっている。
リアルでは無冠の女王なんて言われてるのに、そこでの私は──。
「来崎、もっと肩の力を抜け。もっと自然体になれ」
「そんなこと言われたって……それに今から戻っても、私は……」
そうやってぐずぐずと文句ばかり垂れ流す私を、真才先輩は引き寄せた。
「えっ──」
一瞬何が起こったか分からなかった。
気付けば私は、真才先輩に抱きしめられていた。
「これで少しは肩の力が抜けるだろ」
「……」
暖かい抱擁、雲の上にいるかのような、雑念がスッと消えていくような優しい感覚に包まれる。
「……真才先輩って、鈍感のフリしてますよね」
「さあ、どうだろうね」
耳元で囁かれる真才先輩の言葉が、私の全てを受け入れてくれているように聞こえて心地が良い。
あれだけ投げやりになっていた情緒が、少しずつだけど回復していった。
「負けてもいい、勝つ必要なんてない。ただ思いっきり指してこい。何にも縛られず、何にも囚われず、本能のままに指してくるんだ。将棋は楽しく指してこそ、だろ?」
真才先輩は笑ってそう告げる。
「……酷い手を、指すかもしれないですよ」
「ああ」
「計算も読みも入れないで、感覚のままに指して……失望するかもしれないですよ」
「それが来崎の指したかった一手なんだろう? だったらそれがきっと、何よりも正しい一手なんだよ」
私の意思を肯定するように、真才先輩はただ真っすぐ私の手に期待を込めた。
間違っているから正しくなろうと頑張っていたのに、この人は間違えてもいいんだと告げてくる。
あれだけ必死に抵抗していたのに、その手を指せと告げてくる。
どうせ負けるのなら、やってみろと。
「……分かりました、行ってきます」
私がそう返事をすると、真才先輩は私の背中を2回叩いて見送った。
「あぁ、行ってこい。
──
──────
──────────
会場の騒音が耳に入る。
零れていた涙はいつの間にか止まり、会場の空気を感じ取った辺りで思考にノイズが生まれ始めた。
私の席からブザーの音が聞こえてくる。
秒読みの合図だ。もしあの場で引き返していたら、今ごろ私は時間切れで負けていただろう。
次に指す手は決まっていない。決まっているはずがない。
どれだけ計算してもあそこから逆転する手など思いつかず、ただ無為に時間を消費しているだけだった。
だけど、そんな理性的な思考に反して本能の思考は加速する。強烈なノイズが思考を上書きしていき、既存の大局観が崩壊する。
(あぁ、そうか。そうだったんだ)
崩れ去った大局観は、新たな土台を作り出す。
今までよりも広く、深く、強大に──。
(私、調子が悪かったわけじゃなかったんだ)
時間が止まっているように感じる。
ブザーの音がエコーのように鳴り響いて、世界が自分を中心に回っているような感覚が引き起こされる。
ああ、本能よ。私は、私は──
▲7六銀△5四金▲4五桂△同銀▲同金△同歩▲4六歩打▲同金△2九角成▲5五金△4七歩打▲4九飛△3八馬▲8九飛△5三銀▲6五桂△6二銀▲4四歩△5二銀打▲4三金打△同銀▲同歩成△同飛▲4四歩打△4二飛▲5四金。△5二銀打▲5四金△5一桂打▲4三歩成△同銀▲5三金△6四歩▲4四歩打△5二銀▲4二金△同玉▲4三金打△同桂▲同歩成△同銀▲4四歩打△5四銀▲7五馬△7四金打▲6六桂△6三銀▲7四桂△同歩▲4三金打△5一玉▲7三歩打△同桂▲3一飛打△4一金打▲2一飛成△3一桂打▲8四馬△8三歩打▲7三桂成△同銀▲同馬△同金▲5三金。▲2一飛成△7五歩▲3三金△7六歩▲4一龍。
──私は、その手を受け入れよう。
雲海越えて果てに咲く花は、最期の瞬間に
掴むなら──今この瞬間だけだ。
「……は?」
秒読みの残り1秒で着手した私に、それまで勝ち誇っていた東郷の顔が僅かに歪んだ。
「──何を勝ち誇った気になってるんですか。私はまだ死んでませんよ」
赤い光を宿した眼を東郷に向けながら、私はそう笑みを飛ばすのだった。