熱された思考から我に返ったのは、明日香との対局を終えて休憩中がてらトイレに入った時だった。
緊張の糸が解けてくぐもっていた音が晴れていく。それまで感じていた自分を中心に世界が回っているような全能感が消え去り、いつもの普遍的な感性が戻ってきた。
「はぁ……」
頭を抱えてため息を漏らす。
スッキリした。と言えばそうなのかもしれない。
言いたいことも言えたし、これまでの明日香に対する雪辱も晴らせた。それにちゃんと勝ってチームにも貢献できた。
まさに言うことなしだ。
でも、それが正しい行動だったのかは分からない。
感情に任せた思考は毒だ。客観的な視点を鈍らせ、冷静な判断を下せなくなる。
しかし、殺意で力が湧くように、感情も使いようによっては思考を加速させる薬にもなるだろう。
(自滅帝、お前ならどう考える──)
胸の内に響いた声は、ただ木霊する残響となって返事を返すことはない。所詮は自分自身の問題だと、目の前に出ている答えを静かに伏せた。
──もっと、もっとだ。もっと成長しなくては。
「……戻ろう。まだ東城たちが戦ってる」
俺はトイレから出て再び会場へと足を運んだ。
※
西地区で行われる黄龍戦は、他の地区と比べても非常に参加人数が多いことで有名である。
そのため名のある選手が混ざっていても中々気づかれず、その正体が認知されるのはある程度選手達が脱落していった後半になることが多い。
それは今行われている団体戦も例外ではなかった。
「な、なんなんだよこいつら……!」
焦りを含んだ表情で席を立つ7人の選手を見上げる一人の男。
両脇には硬直したまま微動だにしない仲間たちが座っており、皆あまりにも衝撃的な敗北を植え付けられた影響で唇が渇き切ってしまっている。
男のチームは、西地区でも強豪と呼ばれたメンバーを寄せ集めた優勝候補のチームだった。
それがまさかの全敗。7-0。手も足もでないどころか、抵抗する意思すら見せることが叶わなかった。
「あんな、ふざけた名前のくせに……っ!」
男は手を震わせながら相手チームの名前を確認する。
──『チームフナっこ』。それが彼らのチーム名だった。
そんな一見バカみたいな名前を付けているこのチームは、1回戦をわずか10分という短さで勝ち抜き、2回戦もたった今15分で決着させた。
しかもそれだけではない。
そのチームはただの1回も黒星付けていなかった。つまり、7人全員が無敗というとんでもない勝ち進んでいたのだ。
「なぁ、やっぱりフナっこはダサすぎないか?」
そんな『チームフナっこ』のエースを務める男──
「いいじゃない、フナっこ。可愛いわよ?」
「食べてもおいしーのだー!」
「元ネタは
「いやしてないだろそんな縛り。……1回戦も2回戦も全員船囲いだったけど」
中々決まらないチーム名に痺れを切らした仲間達が、絶望的なセンスのもと即席で付けた名前。それが『チームフナっこ』だった。
そのことに天竜は若干困惑を浮かべながらも、所詮は即席のチームであることを考え、今回は好きにさせることにした。
そんな中、他の団体戦を見に行っていた仲間の一人が天竜に話しかける。
「おい、天竜。琉帝が潰れたっぽいぞ」
「マジ? じゃあ俺らの出番もうなくなったのか。
「そうね、帰りましょうか」
「こらこら、最後まで指していきなさい。君達が帰って不戦勝扱いになったらグループ分けのスタッフが混乱してしまうよ」
今大会の主催者、鈴木哲郎は頭を掻きながらやれやれと言った表情で駆け寄る。
「そうは言っても鈴木会長、俺らもうやることないですよ」
「ああ、銀譱委員会の息が掛かってるチームはあれひとつのはずだ。鈴木哲郎、アンタもこれ以上目立つと危ういんじゃないか?」
「……確かに、私だけならまだしも
鈴木哲郎の頼みにメンバー達は断るわけにもいかず、めんどくさそうな顔をしながらもその頼みを聞き入れた。
「はー、めんど」
「帰りはみんなにご飯奢るよ」
「本気でやるぞ、天竜」
「お、おう……」
まるで一体感のないメンバー達。それは団体戦のために無理やり集められた十人十色ゆえの弱点のようなものなのかもしれない。
しかし、彼らにそんな弱点など関係なかった。
──『チームフナっこ』。そのチームを構成するメンバー達は、かつて全国を席巻させたこともある、まさに夢のオールスターだった。
そんな伝説のチームが待ち構えていることを、この時の真才はまだ知らなかった。
※
会場に戻ってみると、1回戦の対局はほとんどが終わりを迎えているようだった。
それは俺のチームも同じで、武林先輩、葵、佐久間兄弟は既に対局を終えて休憩している。
「どういうことか説明しろ、明日香……!!」
「い、いや、これは……ちがくて……」
「どこが違うんだ? 相手に負けるよう頼み込むなんて将棋指し失格だぞお前!」
明日香はさきほどの俺に対する交渉が八百長と判断されたのか、チームの仲間から反感を買って問い詰められている。
明日香の声は大分抑えられていた方だったし、会場内は常に騒音でガヤガヤしているから声がかき消されやすい。
それでも、俺達の隣で戦っていた者には丸聞こえだったのだろう。佐久間魁人と戦っていた向こうの副将が激昂した様子で明日香を問い詰めていた。
まぁ、あの様子じゃ当分は調子に乗ってくることもないだろう。
「おい、大将さんよ」
「?」
そんなことを考えながら席に着こうとしたところで、ふいに背後から声をかけられた。
振り向くと、そこには佐久間魁人が立っていた。
「その、なんだ。大変だったな」
珍しく俺をねぎらう魁人に、俺は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「き、聞こえてたのか……」
「そりゃ隣だからな。なんか向こうの大将と因縁があるっぽかったが、大丈夫か?」
「まぁ……一応断ち切ったよ」
「そうか」
魁人はそれ以上は追及してこなかった。
代わりに申し訳なさそうな顔を浮かべながら俺の隣に腰を下ろす。
「それにしてもお前があそこまで強かったとはな。向こうの大将を圧倒してた指し回しを隣で見てた時は戦慄ものだったぞ。……今さらだが、正直お前を侮っていたよ。ただの新人だと誤解してた。──今までのこと、マジで悪かった。ここに謝罪する」
そう言って魁人は両手を膝の上に置いて深く頭を下げた。
「いいよ。俺がまだ入ってまもない新人なことには間違いないし、大将をこなせる自信も正直無かったんだ。その時は囮役に徹しようと思っていたしね」
「大将を担って勝ち星を上げてるんだ。囮なんて二度と言わないし言えないな。むしろ俺が囮役を引き受けた方が良さそうだ」
「ははっ」
まさかあの佐久間兄弟とこうして話す日が来るとは思わなかったな。……兄とだけど。
「──真才くんっ!」
そんなことを話していると、対局を終えた東城がこちらに向かって走ってきていた。
東城は先鋒だから、大将の俺から一番離れた場所で対局している。そのため、ある程度の距離は保たれているのだが……。
東城の走りは減速するどころか加速していっていた。
途中で魁人がスッと椅子を退けた辺りで嫌な予感を感じ取っていたが、俺の先読みは将棋にしか発現しないらしく──。
「おめでとうっ!!」
「ちょっ!?」
東城はものすごい勢いで俺に抱き着いてきた。