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第二十四話 後悔すら踏みつぶす圧勝

 明日香は目の前の存在が理解出来なかった。


 自分が今まで積んできた研鑽が、技術が、目の前の男には一切通用しない。


 気付けば自陣は蜘蛛の糸に囚われた餌のように身動きが取れなくなっており、逃げることも戦うこともできない拘束が続いている。


「あり、えない……っ」


 自滅帝と戦った者は、そのあまりの強さに戦慄を覚えるという。


 明日香は彼の、渡辺真才の力を甘く見ていた。


 付き合っていた当初、明日香は真才から様々なことを教えてもらっていたが、その知識や戦術をまるで特別なことじゃないように話す真才に、明日香は大した価値を見出していなかった。


 やがて中学に入るころ、明日香は様々な大会で優勝し始める。


 完璧な棋風、理想的な戦い方、定跡を踏襲した優秀な指し回しに多くの人間が魅了され、多くの人間が明日香を称賛した。


 しかし、それは紛い物の力だった。


 明日香自身が磨き上げてきた棋力の成長も当然ある。だが、勝敗の大半を占めていたその戦い方は、これまで真才が教え込んできた戦術があってこそだった。


 それに気づくことがなかった明日香は、日を重ねるにつれて大きく成長する自分とは逆に、段々と表舞台で活躍しなくなっていく真才を邪魔に思うようになり、最後には街路時で呆気なく切り捨てた。


 ──この時の明日香は気づいていなかった。


 対局する際、負けると機嫌が悪くなるからという理由で普段から手を抜かれていたことを。


 自分が悠々自適に気持ちよくさせていたのは、彼の教え方が誰よりも上手かったからだということを。


 そして、渡辺真才が──自滅帝本人であるということを。


「あ、あんたは、真才なんでしょ……? 違うの……?」


 まるで別人でも見るかのように真才を見上げて狼狽する明日香。


 勝負はまだ終わっていない、終盤にすら入っていない。……にもかかわらず、明日香はその先の一歩を踏み込めずにいた。


「俺は今も昔も渡辺真才だが?」

「う、うそよ……! だって、あんたはこんな、こんな……」


 ただ真っ当に真実を告げる真才に明日香は首を振って唇を震わせる。


「──こんな強くなかったじゃないっ!!」


 明日香はついに、胸の内に秘めていた感情を表に出した。そして理不尽なものでも見るような目で真才を睨みつけた。


 計算が違った、こんなはずじゃなかった。こんなにも強いと分かっていたのなら、他にもやりようはあった。


 最初から油断することなんてなかった──。


 そんな心情を含んだ瞳の色を見た真才は、明日香に向かってただ一言放つ。


「だからなんだ?」


 冷酷な、哀れな虫けらでも見るかのような視線が飛ばされた。


「俺が強いとか弱いとか、それがお前に何か関係があるのか?」

「それはっ……!」


 明日香は焦りを募らせて言葉を濁した。


 そしてその焦燥の真意は、明日香が現在の琉帝道場のエースを担っていることに帰結する。


『明日香、本当にやれるんだな?』

『もちろんよ。あたしを誰だと思ってるの?』


 黄龍戦出場前日。琉帝道場の面々から誰が大将を担うかという話し合いが行われた際、明日香は自ら挙手して大将に名乗り出た。


 それはハイリスクハイリターンの所業に等しい。


 琉帝道場は弱肉強食を主とする銀譱委員会の息が掛かっている。もし負けるようなことがあれば降級では済まされない、最悪の場合破門もあり得るレベルだった。


 それでも、大将を担ってチームを優勝に導ければ、銀譱委員会のお気に入りとして昇級だけではなく将来の席が約束される。


 それは女流を目指す明日香にとって、またとないチャンスだった。


 ──そんな夢が、今崩れ去ろうとしている。


「ね、ねぇ真才? もしかしてさっきのこと怒ってる?」


 だから明日香は、プライドを投げ捨てて猫撫で声で真才に媚びた。


「は?」


 真才は感情の籠ってない声で返事をする。


「ご、ごめんね? あれは悪気があって言ったわけじゃないの。ちょっとあたしも緊張しちゃっててさ……」


 一転して態度を変えた明日香は、内心でほくそ笑みながら上目遣いで真才の怒りを収めようと距離を詰める。


 前もそうやって落とせた。すぐに篭絡できた。陰キャでモテない男を落とすのは何よりも簡単、敵意を捨てて甘えた声で媚びればいい。


 そう考えた明日香は、真才の意識を必死に盤上から逸らす。


「そ、そうだ! これが終わったらまたあたしと付き合わない? あれから猪俣君とはすぐに別れたわ。や、やっぱ知的じゃない男はダメねー! あ、あたしはさ? やっぱり真才みたいな賢くて強い男がいいなーって思うんだよね。だ、だからさ──」


 真才にとって都合のいい言葉だけを並べた明日香は、最後に一拍おいて自分の望みを告げる。


「この一回だけ負けてくれない?」


 真才の眉がヒクついた。


「も、もちろんタダでとは言わないわ! て、手繋いであげる! 前の時は繋げなかったでしょ?」

「……」

「ま、まだ不満? しょ、しょうがないわね~! じゃあ、き、キスもしてあげるわ! な、なんだったらその先も──」

「なあ、明日香」


 ただ、一言。真才は淡々とした声色で明日香に向けて顔を上げた。


 普段なら目も合わせられないような陰キャのはずだった目の前の男は、表情ひとつ変えずに目線を合わせて静かに告げる。


「お前が心配することはから、安心して欲しい」


 荒らしの前の静けさとも言えるような、無風で感情の籠っていない言葉が明日香の耳に届く。


 しかし、その文脈が肯定的な意味を指し示しているのだろうと受け取った明日香は、一安心して高鳴った胸をなでおろそうとしていた。


「じゃ、じゃあ──!」

「俺はお前を潰すために今この席に座ってるんだ。だから安心して俺に殺されろ、明日香」


 明日香は全身を刃物で貫かれたかのような衝撃を受けた。


 到底内気な男から出るようなものとは思えない過激な発言に、明日香の心臓はドクンと嫌な音を立てて跳ねあがった。


 全身から悪寒と滝のような汗が零れ始める。


「……え? ……え? い、いや、ま、まって……?」

「待つ? 今はお前の番だぞ? 好きな手を指せよ。その全てを10秒以内に指し返してやるから。お前の首が飛ぶまで徹底的に相手してやるから」


 殺意の籠った瞳を向けて内に秘めていた怒りをあらわにする真才。


 簡単に成功すると思っていた交渉が一瞬で決裂。そのことに明日香は納得できず、苦笑を浮かべながら聞き返した。


「あ、あたしの話聞いてた……?」

「聞いてたが?」

「つ、付き合うって、付き合ってあげるって言ってるのよ!」

「で?」

「手も繋ぐって、キスもしてあげるって言ってるじゃない……!」

「そうか、興味ないな」


 一刀両断でバッサリと切り捨てる。


 自滅帝としての思考で埋め尽くされたその心に邪念などあるはずもなく、明日香の言葉はすべて空振りに終わってしまう。


「つ、強がってんじゃないわよ……! 本当は嬉しいんでしょ!? あんたみたいな陰キャがあたしと付き合えるのよ!?」


 明日香の必死な叫びにも、真才は顔色ひとつ変えなかった。


 ただ一瞬、真才は奥の方で対局している東城たちを一瞥したあと再び明日香の方に目線を戻し、目の前の女が彼女達に敵わないことを悟ると、明日香へ向けてハッキリと告げた。


「断る」

「なっ……!!」


 まさか自分が陰キャに振られるとは思っていなかったのか、明日香は絶句して口をパクパクとさせた。


 ──絶望。明日香が生まれて初めて感じた絶望だった。


 そのまま明日香は生気のない一手を指し、それを一瞬で真才に咎められる。


「い、嫌……っ」


 なんとか攻勢に繰り出すも、その攻め手は相手にされず全て無視される。


「やだ……こんなところで、終わりたくない……っ」


 受け手を指すと反対側から挟撃され、その対応に追われている間に先程のスルーした攻め手を背後から刺して崩壊させる。


「まって、ねぇまってよ、真才……!」


 その言葉は真才に届かない。届いたところでやめるつもりもない。


 自分が今までしてきた冒涜の数々が真才の胸の内に溜まっていき、それが今この場で放出されている。


 そんな状態の真才が、火に油を注がれた状態の真才が、手加減や容赦など持ち合わせているはずがない。


 全身全霊をもって目の前の女を叩き潰す。ただそれだけの思考にシフトしていた。


「ご、ごめん、ごめんなさい……っ。あ、謝る、あやまるから……! あ、あたし、この大会で負けたらもう後がないの……! だっ、だからお願い、ねぇお願いまって、あ、あたしの夢が──」


 繰り返される無駄な一手。繰り返される待ってという言葉。


 ──本番の将棋に"待った"は存在しない。


 明日香の本気の懇願も、今の真才にとってはノイズでしかない。


 ただ煩わしそうに顔を歪めながら明日香の泣きそうな面を見下すと、対局前に浴びせられた暴言の数々を振り返って冷たく突き放した。


「散々他人の人生を侮辱しておいて何今さら謝ってるんだ? 謝罪なんか求めてないぞ。俺はお前を全力で潰す、ただそれだけだ」


 その言葉を聞いた明日香は顔を真っ青にして項垂れた。


「あ……ああっ……!」


 何ひとつ届かない願いに打ちひしがれながら、自分が目の前の男にどれだけの非難を浴びせたのかを自覚させられ、そのまま過ぎ行く時間の中を絶望と後悔の波に襲われていた。


 明日香はもはや降参の宣言すらできず、ただ時間が過ぎていくのを涙を流して待つのみ。


 真才はそれを一瞬の油断なく監視し続け、対局時計のブザーが鳴り響いて止まったのを確認したところで、ようやく小さな息を零した。


「二度とそのツラみせるな」


 怒りに身を任せて放ったその言葉は、自滅帝ではなく真才というごく普通の人間の部分から生まれた激情のひとつだった。


 団体戦、第一試合──大将戦は真才の勝利で幕を閉じた。


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