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第十二話 窮鼠踵を返す

 多面指しをするには並列された情報の処理能力が求められる。

 人間の脳はひとつしかない。ゆえに複数の情報を一気に考えるのは非常に困難だ。


 マルチタスクでありながら実力を落とさないなんてことができるはずもなく、多面指しの最中は棋力が数段階落ちることもよくある。


 いや、そもそも俺……多面指しとか経験ないんだけど……。


「ちょ、ちょっと待ってください。部長が多面指しをするんじゃないんですか!?」


 そう言ったのは俺ではない。佐久間兄弟の兄の方である魁人だった。


「そうだ! 今から渡辺君一人とオレたち四人で多面指しを行う! もちろん平手でだ! そして渡辺君がこの場にいる全員に勝ったら彼の段位を二階級繰り上げる! だがもし君達が渡辺君に1回でも勝てたのなら、その時点で君たちの段位を1つ繰り上げよう! これはチャンスだぞー!」

「にゃはは~、まーアオイは段位になんて興味ないっすけどね~」


 葵はいつも通り悠々自適な調子を見せているが、その言葉を聞いた弟の隼人は反論を口にした。


「全員に勝ったらって……冗談でも言っていいことと悪いことがあります。こんな、昨日入ったばかりの新人が俺達相手に平手で勝つなんてどう考えても無理でしょう!」

「そうです、これはあまりにも茶番が過ぎます!」


 佐久間兄弟からしてみれば俺の勝率はゼロに等しく、実力も疑っているようだった。


「問答無用! 異論があれば将棋で語るのだよ!」

「くっ……」

「ちっ……」


 武林先輩は佐久間兄弟の意見を押し切り、二人は将棋盤の前に渋々着座した。


 それから4人全員分の初期配置を整えると、先手と後手を決める『振り駒』が行われ、準備が整う。

 そして、全員の挨拶と共に対局時計が一斉に押された。


「「「「お願いします」」」」


「お願いします……」


 ワンテンポ遅れて頭を下げた俺を起点に、圧倒的ハンデによる多面指しの対局が幕を開けた。


 初手から順に交錯する指し手、何重にも重なって打ち付けられる駒の音。

 4人もいると色とりどりな指し方が混ざり合い、それぞれの特徴が顕著に出てくる。


 序盤は定跡通りに進行するため互いの指し手が止まることはない。4人分を指す俺だけが持ち時間をどんどん消費し、形勢とは関係なしに差が付いていく。


 持ち時間を40分の30秒というアマチュアの中ではかなり長い時間に設定したのも、多面指しという普段より考えることが多い俺への負担を考慮してのことだろう。


 だが、そもそも多面指しの経験がない俺にとってはこの時間ですら不安だ。



 ──対局開始から数分後。

 大方の定跡が終わりを迎え、序盤の形は明瞭に組みあがっていった。


 将棋には"二大戦法"と呼ばれるものが存在している。それは将棋において最強と称される駒である『飛車』を移動させて使うか、移動させずに使うかで分けられる。


 飛車を移動させて使う場合は『飛車びしゃ』と呼ばれ、飛車を移動させずに使う場合は『居飛車いびしゃ』と呼ばれる。


 これが将棋における二大戦法だ。


 このどちらの戦法を盤上で使うかで戦い方が大きく変わる。


 佐久間兄弟はどちらも『振り飛車』を採用しており、非常に軽快な守りと攻撃力を持つカウンター狙いで俺の隙を窺っていた。


 対する武林先輩は居飛車を採用しており、どちらかというと硬派な戦い方を好んでいた。


 葵も居飛車を採用してはいるのだが、佐久間兄弟以上にトリッキーな指し方をしていて非常に戦いづらい。


 因みに東城が指した矢倉は居飛車に分類される。2回とも矢倉を使ってきたことから、東城は居飛車を得意としているのだろう。


 余談だが、俺はどちらの戦法も指せるためいわゆる『オールラウンダー』に分類される。


 それぞれが個性的な戦法を繰り出していき、戦いを優位に進めようと駒組を始める。

 目の前にいる4人からは、思考が分散されている俺の隙を狙って戦いを起こそうと躍起になっているのが伝わる。


 何度も言うがこの多面指し、普通の将棋では気にもしないような手まで全部見て対策を立てなければならないため、考える時間が長くなる。


 そのため一手にかかる時間は長くなりがちで、凡ミスが多発するのだ。


 だが幸いと言うべきか、俺は短い時間に拘束されたネット将棋を長年やってきたおかげで、指し手の速度が遅くなることはなかった。


「よそ見してていいのかよ?」


 難解な戦型を組み上げる葵に気を取られていると、端からそんな声が飛んでくる。


 声を上げたのは兄の魁人。局面を見れば既に歩がぶつかっており、開戦の合図が鳴らされていた。


 俺は葵の局面に対する思考を一旦切り上げ、無難な手を指してから魁人の着手に応対を始める。


「ふむ、そろそろ攻め時かね」


 しかし真ん中からも武林先輩の声が聞こえ、同じように長考を必要とする開戦状態へと突入した。


「……んー? ミカドっち、この手は流石に悪手じゃないっすかー?」


 まだ魁人への指し手に対する応対も終わっていないというのに、葵からそんな悪魔のような単語が漏れる。


 悪手──もしそれが本当なら、俺は将棋部に入って初めて悪手を指したことになる。


「プッ──これ端攻はしぜめ通るじゃん。さすがにこれは勝つわ」


 隣から弟である隼人のそんな声も届いてくる。

 目を移せば、確かに俺は端の攻めをうっかり見逃しているようだった。


 俺はその対応に追われながらなんとか端を受け切り、葵の手で指してしまった悪手をなんとかカバーし、魁人のカウンターに注意しながら先の展開を読んでいく。


 しかし、ここで武林先輩の重厚な一手をまともに喰らってしまう。


「……っ!」


 他三人に意識が持っていかれていたせいで、武林先輩の重い一手に受けの対応が間に合っていなかった。


 これのせいで俺は武林先輩に長時間拘束され続けてしまう。


 本来なら回避できていた手順に誘い込まれてしまい、俺と武林先輩の形勢は互角から全く動かない。


 勝たなければいけない試合で互角というのは非常にまずい形勢だ。このまま終盤まで互角の形勢でいってしまうと、持ち時間に追われている俺の方が圧倒的に不利な展開が待ち受けている。


 なんとか打開しなくては……。


「ミカドっちー、持ち時間10分切ったすよー」


 そんな葵の言葉で俺の焦りはさらに加速する。


 武林先輩の読みを一旦切り上げて葵の方に目を移すと、形勢が悪くなっていることに気づいた。


「なっ……!」

「むふふ~、これはアオイ優勢確信したっすよ~!」


 さっき途中で読みを切り上げてしまったせいで、葵のより深い読みの手に俺の手が読み負けてしまったのだ。


(しまった──! 向こうの方が考える時間多いから読みの数に差が出始めてる……!時間差が4倍違うだけでこんな良い手まで指してくるのかよ……クッソ!)


 心の中で愚痴を言っても仕方ない。

 俺はなんとか冷静になろうと、心を落ち着かせて葵の手に切り返しを図る。


 そして再び武林先輩の方へと顔を向けたとき、俺の表情は青ざめてしまう。


(なっ……!!)


 局面はさらに悪化していたのだ。


「ふむ、これは駒がさばけてこちらが良し、と言えるのかな?」


 その言葉に俺は心の中で舌打ちをする。


 三段の力は1手や2手と言った一桁を読む世界とは違う。10手以上読んでくる有段の暴力だ。


 俺は葵の時と同じく武林先輩でも読みを切り上げてしまったことが仇となって、局面は明確な劣勢に突き落とされていた。


「おいおい、大丈夫なのかよ。せんせー?」


 佐久間兄弟の馬鹿にしたような笑い声が耳に入る。


 そんなこんなしているうちにも俺の分の時間だけ猛烈に減っていき、ついには4人全員の対局時計から俺の持ち時間が10分を切ったことを報告するブザーがなっていた。


「うーむ……さすがに厳しかったか」


 武林先輩は小さくそう呟く。

 若干の失望が混ざったその目に俺はピクリと眉を動かし、焦っていた感情が燃えるように熱くなっていくのを感じた。


(……あぁ。なんか無性にイライラしてきたな。人が一生懸命考えてるってのによってたかってバシバシ殴りやがって)


 そう思った俺は今まで抑えていた冷静な感情を燃やしていくと、静かに目を閉じてそれまで指していた手を止めた。


「……?」

「ミカドっち?」

「なんだ? ここにきて諦めたのかよ?」

「この四人相手じゃそりゃ無理だって」


 ガヤガヤ騒いでる連中に対して、俺はただ静かに言葉を漏らした。


「……はぁ。ちょっと黙っててください」


 そう言って俺は再び開眼する。

 そしてそれまで穏やかだった目付きを鋭くさせ、四人をギロリと睨みつけた。


(……ちょっと、本気出すか)


 そうして俺は静かに一呼吸入れると、渡辺真才としての指し手をやめ……



 ──『自滅帝』としての思考へと切り替えた。


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