結局、カグラバへの対処をどうするかは大人が決めた。私の願いは聞いてもらえない可能性があると言われたけど、偉い人に私の気持ちは伝えておくと言われたからそれでいいと思った。頬を腫らしたカグラバは麓に降りた後は私達とは反対の方に連れ一八て行かれて、そこから長い間、私は彼に会えずじまいだった。
これはあとから聞いた話だ。法で裁かれる代わりに、軍と繋がりのある町内会長さんに恩情をかけられた結果、性根から叩き直されたらしい。詳しい話は聞いてないけどそれはそれは大変だったとか。だけど自業自得だから同情は一mmもしない。
そもそもの話をすると、私は「外の世界」というのに興味がなかった。麓の大きな街に降りたのも子供の頃大熱を出してお医者様にかかった時くらいで記憶にない。麓にある母方の家とは絶縁期間が長かったせいで交流もなかったから、物心ついてからは遊びに行った事がない。外の世界を知らないから興味を持たなかったと言われればそうかもしれないけど、それでも私と同じように育ったはずの村人の中にはたびたび村の外に憧れを持つ人がいた。
「私は絶対に都会の男と結婚する」と騒ぐ幼馴染を「また始まった」と言って笑うのが数ヶ月前の私の日常で、数度しか訪れた事がない都会に憧れる幼馴染の気持ちを、私はただの一度も理解した事がなかった。
「ブルーズ大丈夫? もう少しかかるから寝ててもいいよ」
私は故郷を愛してるからきっとこの村で一生を終えたって、後悔なんてしない。そう思っていたはずの私の運命があの日、天地がひっくり返るほど覆ってしまった。ハルさんの優しい言葉を間近で聞きながら私は「大丈夫」とだけ返事をした。
自力で歩けない位疲れた私はハルさんに背負ってもらって集会所に戻ると、目を真っ赤にはらしたベル達に迎えられて安心して涙が出た。話を聞きつけて飛んできたハルさんのご両親にも同時に抱きつかれ、自然と「ごめんなさい」と嗚咽が出てしばらくの間涙が止まらなかった。
話し合いの前にお風呂に入らせてもらい、ナイフでガタガタになった髪の毛をハサミで直して私服に着替えたら、髪が短い以外はいつものブルーズに戻った。自分で切り落としたとはいえ鏡で見る真新しい自分の姿には慣れないし、頑張って髪を伸ばしてた十数年が全部無駄になってしまったような憂鬱な気分になる。
睡眠薬を飲まされた私はお医者様から診察と怪我の治療をされたあと、集会所に戻った。大部屋には数人の大人に、ベルたちと、家族が緊張した面持ちで私を待っていた。
薄氷の様な空気の中、ハルさんと私はこれまでの経緯を全て話した。私には家族がいる事。本当の生まれはトルトゥーガ村という辺鄙な場所で、ハルさんを助けるために一緒に嘘をついたら引っ込みがつかなくなったと。
所々聞こえてくるひそひそ声にビクビクしながら、「全て嘘から始まった話だけどお互いへの気持ちは本物だ」と全員に訴えるように話した。一通りの話が済むとハルさんのお父さんが無言で立ち上がる。そしてそのままハルさんを殴りつけた。
止めようととっさに体が動いたけどそれは兄に止められた。「けじめじゃ。あんなんで済むならマシだと思わんと」と言い聞かされた私は、唇を噛んでハルさんが殴られるのを見るしかなかった。
何発も拳が入ったところで、まぁまぁと周りの大人がお父さんを止めに入る。口を切ったハルさんに駆け寄ろうとしたら、顔が真っ赤なお父さんは私の顔をぎろりと睨みつけてから近づいてきたものだから、思わず手を顔の前に上げた。
「うちの愚息が申し訳ない」
だけど目に移ったのは震えた声で謝罪をし、床に頭を擦りつけるお父さんの後頭部だった。私はあっけに取られはしたものの、すぐ頭を上げてほしいといってお父さんの体を引き上げる。私にしがみつく様に「すまなかった」と泣き崩れるお父さんは、私にしがみ付いて「無事でよかった、無事でよかった」とまた何度も呟いた。
兄はしばらくお父さんを見守った後、咳ばらいをして「話を続けましょう」と落ち着いた口調で話を振った。
「妹達はこう言ってますけど、そっちの息子さんがしでかした件。そちらはどう責任をとってくれるんですかね。おかげでうちの家族の人生めちゃくちゃじゃわ。うちへの謝罪は絶対。慰謝料に相当するものもいただかないと。それに、大事に手入れしてた髪までこのざまじゃ。美人の条件が一個減ったんよねぇ? まぁルーは可愛いから問題にはならんと思うけどぉ? 母さんが見たら気絶するわぁー」
「明日朝一番にでもここを発つからグイさんのお宅へ謝罪にいかせてほしい。もちろんハルも連れて行くし、全ての責任は父親の私が取る」
私の髪を軽く引っ張りながら話す兄とお父さんを私はドキドキしながら見ていた。ハルさんのお父さんと私のお父さんが会うなんて不思議な気持ちだ。
「責任って言うのは?」
「ハルはお嬢様と結婚させます。もちろん、お嬢様がハルに愛想をつかしたのなら私が責任をもって相応しいお相手を探しますし、十分な金も……」
「待ってください!」
こんなに必死な表情のお父さんは初めて見るなと能天気な事を考えていると、少しよろめきながらハルさんが会話に入り込んだ。殴られた唇が青紫色になって腫れ上がっていて少し喋り辛そうだ。滲んだ血を拳で拭い取ると、邪魔な前髪を後ろに流して眉根を寄せる。
「責任を取るのは俺です」
その言葉に部屋中の目線がハルさんに注がれた。
夜明け前みたいに静まり返った部屋で、私は自然と息を呑んで、彼が何を言い出すのかを待ち侘びていた。ハルさんは座布団もない場所に正座すると、目線の刃を背に受けながら私と兄に向かい合う。兄と目を合わせたら堂々とした口ぶりで話しだした。
「俺は卑怯な事をしました。俺は初めて会った日。あれは、弱い立場のブルーズさんにつけ込んでおどした様なものだ。だから俺のした事が許されるなんて決して思っていません。自分勝手な考えで、全員に迷惑をかけた。謝罪します。本当に、本当に申し訳ございませんでした」
深く頭を下げた。兄は「そーじゃね反省せぇ」と小さな怒り口調で返す。
「だけど、ブルーズさんの事を愛してる。これだけが唯一嘘じゃないんです。だから、責任を取るのは親父じゃない。俺です」
ハルさんが身体ごと私に向き合う様に座り直したから釣られて姿勢を正した。腫れた唇から再びにじみ出た血を手の甲で拭ったあと、花のつぼみを潰さないかのようにそっと私の両手を持ち上げると、心地のよい声で私の名前を呼んだ。
「ブルーズ」
濡れた紫の瞳が部屋中の灯りを受け止めて輝いて、その中に私を映して揺れている。痣だらけの顔になってもハルさんの瞳は光が透き通っていて本当に綺麗だ。その瞳に吸い込まれそうな私は息を呑み言葉を待った。だんだんと痛くて熱くなっていく瞼の奥を我慢して、泣きそうになりながらも私は数秒の無音をかみしめた。
「一生をかけて貴女に償います。これが俺の責任の取り方です」
互いの記憶に刻むようにはっきりと告げた後、小さく「いいかな?」とささやかれ、私は答えるようにぽろぽろと涙を零した。
ずるい。いつもならこんな時、不安げな表情を浮かべているくせに、今日は精悍な面構えでじっと私を見ている。こんな顔されたら頷かずにはいられないじゃないか。
彼は柔らに微笑んで、泣きっぱなしの私の涙を拭ってくれた。
「俺はブルーズの笑顔が大好きです。笑ったらね、ぱぁって明るくなって、まるでお花みたい。そこが可愛くて大好き。ブルーズの笑顔を一生眺めてたいし、一生笑顔でいさせたい。だから今から言うのは、俺の願いと覚悟です」
「……はい」
「俺と結婚してください」
誰も損しないために軽い気持ちでついた嘘が、コロコロ転がって大事になった。そして帰りたかったはずの家に背を向けそうになるほど、この人の事が好きになった。
まるで、私達は花瓶に飾られた花みたいだった。
本当は咲くはずのない場所に咲く一輪の花。
人が持ち込んだ不自然な自然。
ほっておけば枯れる花。捨てられて、いつか存在も忘れられる花。
それが私達のはずだった。
「ハルさん。私も、私もね? 一緒に、貴方と同じ責任を、覚悟を背負って、それで、分け合って生きていきたいです。あのね、いつも守ってくれてありがとう。でも、私もハルさんの事守ってあげられるくらい強くなりたいの。だから償うんじゃなくて、私の事一生見てて。ハルさんと、私も貴方と一緒になりたいです」
ハルさんの言葉は世界で一番あったかくて素敵な存在だ。だから恵みの雨みたいに心に沁みこんで、満たされた心にはいつの間にか、愛という名の無数のつぼみができた。
きっとこの花は永遠に枯れない。力強い自然を思い出した花は地に根付いて咲き続けるはずだ。きっと心配する事はない。
「だから、喜んでお受けします」
私は本当に幸せ者だ。
部屋の人たちが私達の決意に、一つ、また一つと拍手をして祝福してくれた。兄はそんな私たちを見ながらゆっくり拍手をした、あとに大げさに咳をして、ハルさんのお父さんに話しかける。
「――親父さん、これだけははっきりさせときましょ。こいつら結婚したいそうですけど」
兄がハルさんのお父さんに問いかけると、お父さんはハンカチで鼻をかみながら答えた。
「私達はブルーズさんの事を娘のように思ってます。息子たちが夫婦になりたいなら受け入れるだけですよ」
「……っあー、それが聞けたなら安心した。これで妹を放り出すつもりなら俺があんたら窓からぶん投げるとこじゃったわ!」
兄は笑っていたけど私には冗談に聞こえない。
「……親父達はまずブルーズが生きてた事を一番喜ぶと思います。そりゃ、えれぇ事しとんじゃけぇ色々言われるじゃろーけど、まぁ悪い事にはならないんじゃないんですかね」
兄の言葉に、私達は目を合わせて少しだけ微笑みあった。兄が味方でいてくれる事を密かに喜びながら、私だけ二人の華やかな未来を想像して口が勝手ににやけそうになったのを必死で堪える。
「だいたい赤ちゃんできとんなら止めようがねぇんよ!責任取ってもらわんと!」
和やかになりつつあった私とハルさんの顔が、『赤ちゃん』という単語を聞いた瞬間、ガチガチに凍りついた。
私達以外の大人達はうんうんそうだよな、と頷き納得しあっている。私が妊娠したと言う話がこの部屋にいる人全員に伝わっているみたいだ。
……あれ、いつの間に知れ渡ったんだ? 誰から? どうやって? と頭がこんがらがっている最中、婦人会のおばさまが「結婚前の女が良くないわ」と軽く咎めながらも「きっと大丈夫。神様もあなたを許すわ。順番がちょっと違っただけよね」と私の肩を叩いて励ました。言葉にならない声を出して言い訳を考えている最中も部屋はがやがやと騒がしくなっていく。
「聞いたときは気が遠くなるかと思ったけど、私もついに正真正銘のおばあちゃんだわ!」
輪の真ん中で、ハルさんのお母さんが大変喜んでいた。子供の名付けはあそこの坊さんに頼むんだとか、どうせ結婚するんだろうからお祝いはどうするかと相談する人まで出てきて、話が盛り上がるほどに私とハルさんは青ざめて脂汗が出てくる。人の口に戸は立てられないとはこの事を言うんだなぁと実感しても何も変わらないし、どうやって事実を話せばいいのかわからなくてくらくら眩暈がする。
「ハ、ハルさんが誤解解いてくださいよ!」
「あれ言い出したのブルーズでしょ⁉」
「だって!あれくらい言わないとカグラバが引き下がんないと思ったんですもん!」
「そうだとしてもあれは俺だってびっくりしたんだから!」
小声で文句を言ったら正論で言い返された。
「何も覚えがないのに」
本当に困ったという顔をして、私たちは互いに空笑いをした。
結局、なんとか誤解を解いたら(見るからにがっかり顔だったハルさんのお母さんには申し訳ない事をしてしまった)、今回の騒動に携わった人にお礼をしたあと、みんなで家に帰った。
あんな事があったのに街中はまだまだお祭りの熱が冷めておらず、夜中だというのに人で溢れかえってる。花火が去年より少ないと文句を言う人とすれ違ったり、多分何も知らない人から「踊り良かったよ」とたまに声をかけてもらいながら、非日常の幕引きをぼんやりと肌で感じる。
兄たちは明日、村に向かうという。帰ったらすぐに支度をして、明日に備えて早めに体を休めないといけない。私もそれを手伝って、明日一緒に村に帰るつもりだった。
けれど『ドクターストップ』というのがかかって私は留守番をする事になってしまった。
お医者様が言うに、カグラバが闇市で買った睡眠薬の成分が分からない。万が一旅の途中で急変が起こると危ないからしばらく大人しくしなさい。との事だった。怪我は全然大丈夫だけどねーと淡々と診察するお医者様にしばらく噛みついたけど、「薬を舐めるな」という圧に負けて大人しくする事にした。
そしてなんと、まさかのお父さんにまでドクターストップがかかった。
「腕が痛い」と言うので私のついでに診察してもらうと、腕の骨が折れていた。「息子さんを殴ったとき折れたみたいね。年取ると骨もろくなるから」と診察するお医者様の口角がちょっとだけ上がっていた。話を聞いた大人は声を出して笑っていたし、ハルさんのお母さんがお父さんを情けないと叱りつけていた。
親同士の話し合いもできず、当事者の娘が実の父に会えないのなら意味がないじゃないかと話し合った結果、兄達が父をこの街へ連れてくる事になった。だから私はしばらくの間、落ち込んでいるお父さんと留守番の予定だ。
兄は客室へ案内されるやいなや、荷ほどきもしてないからやる事ないと言って即座に眠りについた。実家の何十倍も上等な布団だからかいびきをかいて気持ちよさそうだ。あまりにも自由な寝相に部屋を覗き込んだお母さんが「あなたと顔はそっくりなのに……」と苦笑している。
「何となくおかしいと思ってたのよ。孤児だって言ってる癖に落ち着いているし、たまに最近の出来事みたいな口ぶりで家族の思い出話をするもんだから」
「……え、私何か言ってました?」
「『お母さんが
自分の適当さが恥ずかしくて頭を抱える私をハルさんのお母さんは笑いながら、アクセサリーボックスを端から端まで中身を確認している。短くなった私の髪に合う新しいアクセサリーを探してくれていた。
「んん〜やっぱり小さな子用の髪留めしかないわねぇ……ちょっと子供っぽすぎるわ。他のは今の髪じゃ短すぎて引っかかんないわねぇ」
だけどどれも試しても、かんざしにするには私の髪が短くて、ヘアピンにするにはデザインが年相応じゃないものばかりだ。紐で一つ括りしてもスルッと落ちてしまって、おかっぱの頭に合うヘアアクセサリーが見つかない。
「私このままでいいですよ。必要ならスカーフを頭に巻きます」
「スカーフもねぇ……いいんだけどねぇ……あ、そうだわ!あなたしばらくお出かけ禁止なんだから、せっかくだし
「大丈夫!大丈夫です!」
断っても「どうせ外出禁止だから良いでしょ」と諭される。久々にお手伝いさんでも雇おうかしらねとご機嫌そうなお母さんとは対照的に、きっと明日からは商人がたくさん家に来るんだろうなと思うと私は申し訳なくて小さくなった。そのままアクセサリーを箱に戻すのを手伝っていると、お母さんは心配そうな口調で私に問いかけた。
「……ねぇ、あなた本当にハルでいいの? あの子、あんな事して、私は正直心配なのよ。また何かしでかすんじゃないかとか、あなたの事また傷付けるんじゃないかって」
正直、お母さんの心配はもっともだと思う。
「ハルは自慢の息子よ。しっかり者で優しい子だし、真面目に働くし、小さなころからちゃんとしつけたつもり。だけどたまに向こう見ずなのよ。自分勝手になるというか、とんでもないどじを踏むというか……」
「それは、分かる気がします」
「そうでしょう⁉ あなた達が無断で一泊した日も本当にひやひやしたんだから」
痛いところを突かれた私は苦笑いをして誤魔化す。あの日は私も昼寝をした結果なので何も言えない。
「でも、誰だって失敗するときは失敗すると思うんです。私だってへまする事たくさんありますし、言ってしまえば今回の事も、私も一緒にへました様なもんで……。あっハルさんとの出会いがって事じゃないですよ」
「大丈夫、わかってるわよ」
「でも、大事なのはその後どうするかじゃないのかなって思うんです。反省は、そりゃしないといけないし、やった事は変わりはしないし……」
自分でそう話した途端、カグラバの顔が脳裏に浮かんだ。自分の言葉に反応するように一瞬にしてドクドク脈を打つ心臓の喧騒に奥歯を噛み締める。
今晩の事はきっと一生忘れはしないだろう。一三歳の古傷を乱暴に上書きしたような出来事は思い出すだけで息が苦しくなる。
「……だけど、きっと一生懸命生きれば、人は変われると思うから」
それでも私が信じれば何かが変わるかもしれない。私は小さく呟くと、お母さんは「そうね」と言って微笑んだ。
同じ部屋で寝る? というお母さんの気遣いを断り私は自室に戻ると、鏡を見て身だしなみを整えた。乱れた前髪をちょいちょいと直して、櫛で短くなった髪をとく。
今朝は両手で丁寧に仕上げたのに、今はガシガシと適当に解いても髪の毛が素直に従うから新鮮だ。扱いやすさで考えるのなら短いのも悪くないのかもしれない。
手首の傷とアザを隠すために長袖の寝巻きを選んだ。ばらの香りの香油を首筋につけた。家の人が寝静まった頃、足音を立てないようにそっと部屋を抜けだすと、階段の板が軋まないように慎重に登っていく。
階段を登って一番奥の広い部屋、風通しのためか開けっぱなしのドアから見えるオレンジの蝋燭の灯りに、私は羽虫みたいに引き寄せられた。
「……ハールさん」
顰め声で声をかけると、明日の旅の準備のために部屋を散らかした彼が、切長の目をまん丸にして静かに驚いた。
「どうしたの?」
もうすぐ時計の針が頂点に達する時間。寝巻き姿で放心顔のハルさんが真夜中に訪ねてきた不審者の私に小声で尋ねながら、おへそが見えそうなくらいはだけていた寝巻きのボタンを急いで閉じ始めた。暑い日でも服をきっちり着る普段の姿からは考えられないくらいの適当さと、慌てる姿がちょっとだけツボに入ってハルさんに見えないように笑った。ボタンを閉めた後ハルさんは物音を立てないように気遣いながら扉まで来ると私に肩から毛布をかけた。太陽の匂いのする毛布が落ち着く。私はお礼を言いながら自分から毛布を腕に絡ませたら、上目遣いで彼を見つめ、そのまま抱きついた。ハルさんは少し驚いていたけど優しく抱きしめ返し頭を撫でてくれる。頭の重みと子猫みたいな気持ちになった私はうっすらと涙を浮かべて、そのまま部屋に入れてもらった。
「もう片付けるだけだから、座って待ってて」
せっせと片付ける彼を私は椅子で待っていた。ハルさんも帰ってから湯浴みしたはずなのに明日の準備で動いたからかうっすら汗をかいている。日中は結んでいる髪の毛は解かれていて、いつもよりさらさらと揺れている。流石はご自慢の天然サラサラヘアーだ。
「ハルさん髪伸びましたね」
「えっ?」
「初めて会った日より長い」
「……あぁ、散髪行き損ねてたから」
ハルさんはもう「帰ってきてからでいいや」と思い始めたのだろうか。少しずつ適当な片付け方になってきた。
「私、ハルさんの髪の毛好き」
薄明りの中でも輝く金髪を見ながら呟いた私の言葉に反応して彼の手がぴたりと止まった。真顔で振り向いたあと少し眉尻を落とし、また荷物の方へと向いた。そして最低限は片付けたと言わんばかりに荷物を隅の方に寄せてその辺に置いてた模様の入った布をかけて誤魔化したら、私の傍の机に寄りかかる。
「……俺も、ブルーズの髪の毛好きだよ」
「こんなになっちゃったのに」
「こんなになってもだよ。短いのも似合ってる」
彼はそう言いながら髪を撫でた。
「私は、短いの嫌」
「……うん」
「せっかく大事に伸ばしてたのに」
「うん」
「ハルさん髪の毛長い方が好きだもん」
「そんな事は……」
「だって街中で髪の綺麗な子がいたらそっち見てますよ」
「え?」
「……それに、女らしく無いのも嫌。私おっぱい無いし男の子だと思われちゃう」
「それは絶対そんな事はないよ」
「でも一個良いなって思う事があって」
「うん?」
「今、ハルさんと同じくらいなんですよ。髪の毛の長さが」
私はハルさんが気にしないように満面の笑みでその髪を両手で揺らした。なのに紫色の目が滲みだしたから、慌ててそばにあったタオルを取って彼の目に当て「泣かないで」と語りかけてから笑顔を向けると、うん、と短く言葉が返ってくる。
「だからね? このままハルさんと一緒に伸ばしたいの。元の長さにするには十年近くかかっちゃうだろうけど」
「……二六歳まで?」
「ふふ、おばあちゃんになっても」
「俺もロン毛のじいさんになるの?」
「そうですよ!」
「……想像つかないや。ブルーズはおばあちゃんになっても可愛いだろうね」
「えー、しわくちゃになりますよ。おばあちゃんがそうでしたから」
「じゃあ俺は約束守れないかも」
「なんでですか?」
「じいちゃんがハゲてるから」
少し甘い空気から一転、二人とも噴き出した。
「父さん見てたら分かるでしょ? 多分三十過ぎたら太るし、禿げるんだよ俺」
「別にいいじゃないですかそれでも」
「やだなぁ。己の運命に逆らいたい」
「大袈裟ですよ」
かっこよくいたいんだよ。と口を尖らせながら絹糸を触る様にそっと私の髪に触れ、ハルさんはまた少し悲しげな表情をした。
「……ごめんね。せめてもう少し早く助けられれば怖い思いも、髪の毛も切らなくて済んだのに」
「そういえば何でみんなあそこにいたんですか?」
助けられてから家に帰るまで慌ただしくて、私はずっと不思議だった事を聞き忘れていた。
「あぁ。ブルーズにつけてた花、あれって今の時期自然には咲かないんだよ。カグラバのやつ、寝てるブルーズに上着着せたりスカーフを頭に巻いて変装させたみたいだけど、花とかの小物を完璧に取る暇までなかったんだろね。踊ってる途中にも花弁が散り始めてたからブルーズを運んでる間もパラパラ落ちたんだと思う。それで、目印みたいに点々と落ちてたんだ」
「ちょっと間抜けじゃないですか」
ほんとだね、とハルさんは鼻で笑う。
「でも風が強かったから花弁があっちこっち行っちゃってそれだけじゃ無理だったよ。でもあいつ目立つし、目撃証言も併せて山に入った事はすぐ分かった。その後は香水の匂いを辿って、つぶさにみんなで調べただけ。花火で狼煙みたいに連絡取り合ってね」
「あ、あの花火の音ってそういう事……」
山の中で聞こえた花火の音は街からの残響ではなかったみたいだ。そりゃあ走っても走っても麓に辿り着かないはずだ。
「クリシュナがブルーズ達の事最初に見つけたんだよ。ブルーズが小屋から飛び出てきた時たまたまそばにいたんだって。突然過ぎて花火打つの遅れたよ〜……って言ってた」
「クーくんが? ちゃんとお礼に行かなきゃ」
「うん顔見せてあげて。喜ぶよ」
手を私の髪から指へと移した彼は、手の甲をさする様に撫でた。少しくすぐったい私はへらへらしながらも人肌というのは気持ちのいいものなんだなと思った。ハルさんの顔を見て微笑むと、何故か彼は私から目を逸らす。
「……俺本当は、アイツの事殺そうと思ったよ」
そしてハルさんはボソリと呟いたその言葉の暴力性の強さに私は心底驚いた。
「本当は、ブルーズが髪を掴まれた時には矢を構えてたんだ。アイツの喉元を狙って。……だけどエフレムくんに止められたんだよ。『お前があいつのそばにいれなくなる』って」
「……そうだったんですか」
「俺は殺したって後悔なんてしなかった。今でも正直納得はしてないよ。俺はアイツを許せないし、ブルーズの選択も……尊重できない。またブルーズを傷付けるような事を起こすんじゃないかって不安だよ」
返答に困って、私はつい俯く。ハルさんが厳しい目で私を見ている気がすると、自分の考えに少し自信が持てなくなってきた。
「私、甘いんですかね」
「……まぁ、少しね」
「………………前、蚤の市で、シトラさんと私が喧嘩した事あったでしょ。あの日に私思ったんです。恋って、良くも悪くも人を変えるんだろうなって」
シトラって引っ込み思案な子だったわよね。と教えてもらった事がある。元々は本が好きな大人しい女の子で人に嫌味なんて言うようなタイプじゃなかったそうだ。そんな彼女があんな感じになったのはハルさんに恋をしてからだ。何度もアタックしては振られて、それでもしつこいくらいハルさんに告白を繰り返していたそうだ。
「カグラバ……、昔はいい人だったの。今じゃ信じられないけど昔は優しかった……あんなんなっちゃったけど」
「根っからの悪人じゃないって言いたいの?」
「……うん、まぁ」
「俺はそれ、信じられないな」
部屋に入り込んだ隙間風がろうそくを揺らして部屋の影を大きく揺らした。
「……だけど、癪だけど、アイツの気持ちが分かる事が一個だけあった」
「なぁに?」
「……『死んでも他の男に渡したくなかった』ってところ」
それは森の中での話し合いで、カグラバが泥を吐き出す様にこぼした言葉の一つだった。
数時間前。松明の灯りが広がる森の中、町の男の人に見張られながらカグラバと私は対話していた。最後までカグラバが反省しているのか後悔しているのか私には分からなかった。だって彼の口から出てくる言葉が自己中心的すぎて、話の七割は理解が追い付かなかったからだ。
「……でも、ハルさんはカグラバとは違うでしょ?」
「そんな事ない。男なんてみんな怪物だよ」
ハルさんも、私の事を死んでも他の男に渡したくないと思ってくれているって事だろうか。
「私の事、一度は帰そうとしてくれたじゃないですか」
「今は同じ事できる気はしない。寂しいから家に閉じ込めちゃうかも」
そういうとハルさんはふざけて座っていた私を両手で抱きしめるように捕まえた。子供が高い高いをされるように持ち上げられて、笑いながら軽く一周回される。突飛な行動に私は驚きつつも笑い声に釣られてつい大声で笑いそうになった。部屋の真ん中で子供みたいに騒ぎながら何度か回転したあと、そのままベッドにそっと放り投げられて、私はお腹を抱えて笑った。
「ははは、久しぶりにこんな事した。でもブルーズが嫌な思いするなら閉じ込めるなんてやっぱりできないかも」
「ははは、はは、やっぱりハルさんは優しい」
「なに? 突然」
「ううん、こっちの話」
ベッドに寝っ転がった私は芋虫みたいに動いて端に移動すると、ハルさんも自然とベッドに寝っ転がった。広いベッドだから二人で寝てもスペースに余裕があるけれど、私は変に緊張して胸の高鳴りを感じていた。ハルさんは横向きになって私の方へ向くと、おでこから鼻をなぞる様に頭を撫でて笑っている。
「カグラバ、どうなるんですかね?」
「さぁ……ブルーズの頼みもあるし打首獄門とかにはならないと思うけど」
「う、打首。反省してくれれば何でもいいんですけど」
「さぁどうだろ。本当ならあんな事件起こしたヤツ、チンコ切られるし」
「えぇ⁉」
「あ、無理無理、俺想像しちゃった」
「……ちんちんは切らなくていいかな」
「チンコの話はいいから……。ねぇ、ブルーズは平気? もしかしたらまたアイツが来るかもしれないとか思わないの?」
「……うーん」
「俺だって本当はブルーズの意志を十十パー尊重してあげたいよ。でも現実的に考えるならブルーズは四六時中守ってくれる誰かと一緒にいられるわけじゃないんだよ」
「わかってますよ。そりゃ、怖いですよ。許せないですよ。今でも思い出したら手が震えるし、一発殴ったくらいじゃ思ったより気なんて晴れなかったし……」
それに殴ったとき、思ったより手が痛かった。カグラバを殴った時、一番痛がってたのは他でもない私だ。殴られたはずのカグラバは痛みよりもびっくりした方が勝ってる表情だったし、あんな奴もう一発殴ってやればよかった。
「でも私だって、家族を捨てようと本気で思ってた。……私、元々、村の外に興味なんてなかったんです。家族が大好きだから、強いて言うならで近所の人と結婚して、地元で生きていければいいなぁって思ってました。だけどこっち来て、知らない事たくさん知って、楽しくなって、段々ハルさん以外考えられなくなって……――――帰りたくなくなった。びっくりしました。恋をしたら価値観とか大切なものが一気に変わるんだって思った。それこそ狂うくらい好きは人を変えるんだって。だからそれを思うとカグラバを責める気持ちが、どうしても薄れちゃった。……もしかすると、この人も辛いのかもしれないって」
カグラバは暗い森の中、私を押さえつけながらずっと泣いていた。本人も気付いていない涙が顎を伝って落ちて行ったのを見たら、私は、ずっと忘れていたはずの記憶をふと思い出していた。
それは、生まれたばかりの妹を亡くして泣いていた幼いカグラバの姿だ。泣いている彼が可哀そうで手を差し伸べてたら、泣きっ面のまま笑ってくれたのが嬉しかった覚えがある。今日は結局、どうして私を虐めるようになったのかも、あんな事をしたのかも聞き出せなかった。きっと今の私は、あの頃の様に彼の心に寄り添えないのだと思う。
「同情なんてする事ないよ。狂おうが狂わまいが、失恋しようがしまいが、あいつがやった事は許されないし、全部あいつの本当の顔だ」
私を甘いと思ったのだろう。ハルさんがまた苦い顔をして苦言を呈する。
「しかもアイツは自分の不幸をブルーズのせいにしてた。あんなんただの子供だ」
「……私がカグラバの事許したのやっぱりいやでした?」
「いやだったっていうか、」
眉間にしわを寄せたままハルさんはしばらく考えていた。
「……うん。いやかも」
「……ごめんなさい」
「いい。謝んないで」
しわを寄せたまま私の頭を撫でていた。
「さっきも言ったけど心配だし俺はあいつの事信用してない。また何かあれば今度こそ、俺はあいつを殺めるかもしれない。……だけど、きっとブルーズがしたい事は、『弱きものを助ける』の精神だと思う」
「何ですかそれ」
「外国語で『ノブレス・オブリージュ』ともいうんだけど……。恵まれた人は、弱い立場にある人を助ける債務、……助けるべきだっていう考え方」
「へぇー」
「……ピンと来てる?」
「む。せ、説明されたら分かりますよ」
「ブルーズは、心が恵まれてるんだよ。シトラちゃんと口論した時もあの子の事を心配してたし、カグラバだってそうだ。それは、人よりも優しくて心が強くないとできない事なんだよ。だからブルーズが、カグラバを救いたいと思うなら……」
言葉の途中で、猫を可愛がるみたいに私はあごを撫でられた。このままネコの鳴き真似でもしたらこの人は喜びそうだなと思いながらも、少しの間黙って撫でられ続ける。そのままほっぺたを軽くつねられるとお肉がよく伸びたので、焼く前のパンみたいと言ってハルさんは笑った。
「俺はブルーズを信じる努力をするよ」
そう言って私の頬っぺたにキスをした。
「―――――ところで、今日どうするの?」
「…………枕、持ってきました」
恥ずかしさを隠すためかハルさんは大袈裟に目を逸らした。血色のいい唇が空気を食べるように空振りをする。
私達が一緒に寝たのは二回だ。一回目は宿で同じ部屋に泊まった時。二度目は家出して帰ってきた夜にそのまま寝落ちした時で、どちらもある意味不可抗力だった。
私は本当に大切にされている。それはハルさんの態度から伝わってくる。
「今日は一緒にいたいの」
でも私はもう少しだけ、自分からハルさんに近付きたい。
誰よりも早く起きた私は、音を立てず慎重に部屋に戻ったら、そのまま机に向かってペンを走らせた。ハルさんが実家に向かうまでの数日間、私は止まってしまう交換日記の代わりに手紙を書く事にした。
【ハルさん元気ですか。迷子になりませんでしたか? 】
【お兄ちゃんはわがままを言っていませんか? 腕相撲に付き合ったらご機嫌になると思います。】
【お父さんに会いましたか? 体が大きくて熊みたいで他所の人にはぶっきらぼうだけど、優しい父です。ただ少し臭いかも。お父さんはお酒と甘いものが好きです】
他愛のない事を数日分書き溜めたら一つずつ封筒に入れて、旅立つ前、ハルさんに渡した。返事を必ず書くからと微笑んだ彼は、手を振りながら街の出口から馬を走らせて、私の実家へ兄と旅立っていった。骨折したお父さんの代わりに私は両手をブンブン振って見送った。寂しくて涙が出そうだったけど我慢して、彼らが見えなくなるまで手を振り続けた。
一日目は疲れて動けなかったから、家の中でのんびりと過ごした。寝不足な事をハルさんのご両親に誤魔化しながら、私の家族がどういう人なのかを笑い話を交えながら話した。
二日目はベル達が遊びに来てくれて、何事も無かったかのようにお洒落や恋バナをして過ごした。私とハルさんの関係を洗いざらい言わせた後、ベルが意中の彼とどんな感じなのかを全員で根掘り葉掘り聞き出す流れになったのは思い出しても笑えてくる。顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしながらも、父親に結婚を前提とした付き合いを認めてもらえたと嬉しそうに笑うベルが本当にかわいかった。
三日目はお医者様に再び診てもらったら、傷も残らないしもう大丈夫よ。と言ってもらえたので安心した。午後に家に来た商人が持ってきた大量のアクセサリーや服から好きな物を選べといわれて、どれも高級そうな品物だったから選ぶのが大変だった。
四日目は助けてくれた人たちのお礼にと、お母さんと大量のお菓子を作ってあいさつに回った。私が想像していた以上に多くの人が私のために動いてくれたみたいで、終わる頃には声が枯れかけていた。
五日目はベル達と外に出て、クリシュナ君ちの雑貨屋さんにお礼を兼ねて遊びに行った。そうしたらクリシュナ君がとっても可愛いスカーフをプレゼントしてくれたので、ベルに可愛く巻いてもらった。髪の毛が短いのが逆によいアクセントになって自分でも似合う気がして嬉しい。
六日目。ハルさんたちはもう実家を出ただろうかと物思いに更けながら久々に勉強を再開した。最近は家にある本や図書館で借りた本で読書をしている。お父さんが昔聞かせてくれた物語はどうやら西洋の話だったらしい。と適当に選んだ本で気が付いた。
七日目。早ければ今日だと思ってたのに今日は帰ってこなかった。家の外で待っている間近所の子供がボールを蹴って遊んでいたので相手をしていたら嫁入り前の娘がやめなさいとお母さんに後から怒られた。
八日目。今日も帰ってこなかった。鏡を見ても短い髪に違和感がなくなってきて、これはこれでピアスが映える事を発見したので大ぶりのピアスをつけるのがマイブームになった。
九日目。さみしくてハルさんの部屋で寝た。
十日目。ハルさんに渡した手紙はもうなくなってしまったはずなので、数日分余計に書くべきだったと後悔した。兄と喧嘩してないだろうか。
十一日目。もしかしてダメだったのかなと不安になってきた夕方時。やっと帰ってきたハルさん達は行きよりも多い荷物を馬に乗せて帰ってきた。そして熊みたいな体付きの父が馬から飛び降りると一目散に走ってきて、勢いがついたまま私に抱きついた。何も言わない父に緊張した瞬間、嵐の日の雨みたいな涙の粒が頭に続々と落ちて、つられて感極まった私も泣きそうになった瞬間、頭に鈍痛が走った。
「大バカ娘が!危ねえ事ばっかりしょって!ユリウスさんちに迷惑かけとらんじゃろうな⁉」
頭が首にめり込みそうな程のゲンコツを食った私は、痛みを堪える涙を流すはめになった。ハルさん達は哀れみの目を向けているが助けてはくれない。きっと父に止めてくれるなと事前に言われてるんだろう。
「これはこれは、ブルーズさんのお父上ですか」
ハルさんのお父さん私の父に駆け寄ると、二人は同時に「この度はうちの
「ところで、話し合いの前に椅子のある部屋を貸してもらえんじゃろうか」
私の父は田舎者のくせにしつけには厳しかった。生まれながらの山男の父の腕は丸太のように太く、太ももははち切れんばかりに膨らんで、脂肪のついたお腹も強さに変えてしまうような体格をしている。平均より大きな体は、まさに動く山だ。
その恵まれた体は子供達の絶好の遊び相手になる事もあれば、子供が悪さをした時最も恐怖の対象となる事でもあった。父は好んで子供を殴る人じゃなかったけど、必要な時には手段として選ぶ事は珍しくない。
逃げられないように両腕でガッチリと捕獲され抱えられた私は無人の奥の部屋に連れて行かれると、離れていた五月から八月までの日数分と家族の人数を足した数だけ、普通の男の倍はある手のひらで全力でお尻を引っ叩かれた。
数十分後、約百発の平手打ちを受けた私は焼けそうに痛いお尻を摩り、色々な意味で泣きながら父に改めて謝罪した。父は鼻息荒く「フンッ。バカ娘が」と鼻を鳴らしたら、そのまま大真面目な顔で「ハルくんがええんか」と聞いてきた。
「いっとくがのぉ、父ちゃんは反対じゃ。移動に三日も四日もかかるよーな場所、父ちゃんは嫌じゃ」
「お父さんお願い。私、ハルさんが好きなの」
「大体この街は家から遠いぞ」
「……分かっとる」
「嫁に行くって事は俺の娘じゃなくなるって事じゃ。簡単にうちの家族に会えんくなるって事じゃぞ」
「重々分かってます」
「金持ちは華やかで憧れるじゃろうけど、金持ちにはのぉ、守らんとおえんマナーや教養、暗黙の了解がそりゃぎょーさんあるんじゃ。お前にできるんか」
「全部頑張って覚えます。私文字も覚えたし、難しい計算もできるようになったの」
「こんな都会じゃあ、辛い時に誰も助けてくれんかもしれん。父ちゃんも母さんも兄ちゃんらもおらんのじゃぞ。甘えたのお前が耐えられるんか」
「それでもハルさんがいいんです」
「…………………………そーかぁ」
そして父は私の短くなった髪をぽんぽんと叩いて、小さく「大人になってもうたんじゃなぁ」と呟いた。
「わかった。父ちゃんに任せとき」
そして父はそう言いながら頭を撫でると、私に顔を見せない様にかすぐ背中を向けて、静かに部屋を出ていった。
別の部屋で心配そうに私たちを待っていたハルさんのご両親に声をかけると、私は父と一緒に頭を下げて三ヶ月間の無礼を謝罪した。その後、大人同士で話し合うから子供は出てけと追い出された私とハルさんは、少し暑い風を受けながら、中庭の涼み台に座って待つ事にした。その間ハルさんは実家までの旅の話や、家族との初対面の出来事。謝罪と結婚の承諾を得たあとは兄達にイジられ、弟妹の遊び相手をしつつ、木こりの仕事を手伝ったから身体中が筋肉痛で痛かったと笑いながら教えてくれた。
「いいご家族だね」
一通り話した後、ハルさんはそう言ってほほ笑んだ。私は楽しそうに話してくれた事が嬉しくて思わず頬が垂れそうなほど緩む。
「そうなの。私大好きなんです」
「ブルーズが愛されて育ったんだって分かって嬉しかった。…………俺、自分の事大人だと思っていたけどまだまだ未熟者だなぁ。ブルーズのお父さんに遠路はるばる来てもらって、親父には頭下げさせて、結局俺一人で決められる事はまだそんなにないんだ」
「それは仕方ないじゃないですか。きっと順番ですよ」
「もっと頼られる男になりたいよ」
充分頼れる人ですよと言って頭をなでる。ちょっと満更でもなさそうな顔をしていた。
「私はね、みんなに恩返ししたいです。たくさんの人に助けてもらったり、赦してもらった事を、私もみんなに返したいの」
望まぬ形でこの街に来たけど、世界で一番愛しい人以外にもたくさんの出会いに恵まれた。みんな私に親切で助けてくれた事は、私は絶対に忘れない。
「だから結婚して戻ってくるのが本当に楽しみなんです」
今度は、これからやってくる秋の恵みみたいに、みんなから貰った優しさを、この人と一緒に返していきたいと思った。
「――――そういえば手紙ありがとね。一緒に旅してるみたいで嬉しかったよ」
「ほんと?」
「これ俺からの返事」
手紙を読んでる途中、そよ風が私たちの髪を揺らした。そして、ハルさんが思い出したようにポケットから何かを取り出して見せてくれたのは、花の刺繍がびっしりと入った可愛らしいレースでできた髪飾りだった。それを私の髪に結んでから「これでお揃いだから」と言って、シンプルなデザインだけどお揃いの髪飾りをつけた自分の頭を見せてくれた。私はそれがうれしくなって
「大好きよ!」
と子供みたいに抱きついたら、お互いに微笑み合って、そのまま隠れてキスをした。
「もう嘘つくのなんてやめましょうね」
「ほんとだね」