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第20話 闇に花 二



そう思った瞬間、目が覚めるような感覚を覚えた。




「…………ねぇ、私、ハルさんに押し倒された事があるの」


「……はぁ?」


「でも襲われたとかじゃないの。ちょっと、色々あって。ただ『男に気をつけろ』って、ばかな私のためにわざと。でも痛いとか、傷つけられるような事はなかった」




何が言いたい、と言いかけたカグラバの言葉を遮って続けた。




「ハルさんって私が何言っても怒らないの。私が怒ったらちゃんと謝ってくれるし、逆ギレなんてしない。ハルさんは、理不尽な事で女の子にぶたれても、やり返さないの。私が言えない事を察してくれるし気遣いができて優しい人なの。……そう、ハルさんは、本当に優しい人」


「……はぁ?」


「こうやって暴力で解決しようとしてくるあんたなんかと全然違う」




反射的に振り上がった彼の右手が、私の台詞で頭上に留まる。そしてばつの悪そうな顔で行き場のなくなった拳を下ろすのを私は怖いと感じながら、精いっぱいの攻撃的な口調で責め続けた。




「謝ろうと思ってた? 何言ってんの? ごめんなさいでチャラになると思った? 何で許してもらえるの思ってるの。なるわけない。ハルさんの事が好きなの、本物なの。嘘から始まったけど、本物になっちゃったの。騙されてない、もし不幸せになっても自分で選んだ事よ。後悔なんてしない。…………大体自分勝手なのよ。赤ちゃんいるっていってるじゃん」


「はぁ? それは嘘だって」


「それはカグラバが勝手に思ってるだけじゃん。私はずっと赤ちゃんができたって言ってる。来てないのが。だから色々勝手に決めつけないでよ。……男に何が分かんの?」




逃げる余裕もなく打たれた頬が、千切れそうなほど痛かった。口の中いっぱいに鉄の味がする。目が血走ったカグラバが荒い息継ぎをしながら握りこぶしをもう片方の手で押さえ、「嘘だ、嘘だ」と虚ろな目が訴え続けていた。そして私の口からあふれ出てくる唾と混ざった血液を見ると、さっき可愛いと誉めてくれたのは何だったのか。自分のポケットに手を突っ込んで、ハンカチを探し出した。衣装を汚さない様にと唾液を受け止めた自分の手のひらに痛みで溢れた涙が落ちる。よく見たら真っ白な衣装はすでにボロボロで汚れていてバカらしくなった私は唾を床に捨てると、汚れた手のひらを汚れた巻きスカートで念入りに拭う。




「ねぇ、お願いだから、もうこんな事しないで。カグラバだってきっといつか後悔するよ。今ならまだなかった事にしてあげられる」


「……俺は、ルーちゃんが他の男の手に渡る方が後悔する」




ハンカチがないから、カグラバは自分の着ていたシャツの裾を小刀で切り裂いて、その布で私の口元を拭き始めた。






「じゃあなんで泣いてんの。さっきからずっと泣いてるじゃない」




私の言葉に驚いた顔をして、カグラバはさっと頬に手を当てる。そして彼が自分の指を見て不思議そうな顔をした瞬間、私は床に置かれた視線を注いだ。彼が気付くよりも前にそれを盗み出すと両手で握り直して、切っ先を鈍く光らせると重いを構えた。




「こないで」




カグラバから盗んだ小刀を、カグラバの顔面に向けて構えた。包丁以外で初めての刃物に緊張して手が震える。明らかに慣れない手つきで無理をしている事が丸わかりの私を見て馬鹿にするようにカグラバはその場から動かない。




「……小賢しい事」


「早くどいて。そのまま、後ろを向いて、振り返らずにどこか行って」


「何? 言う事聞かないなら俺を刺し殺す気? そんなのできないでしょルーちゃんなんかに……」


「早く私の上からどけ!」




震える声をごまかすように大声で叫んだ。




「私本気だから!」




へっぴり腰だし、怖いし、今にも泣き崩れそうだ。




「そんな細い腕で何を殺せるんだよ」


「うるさい、早く私から離れろ!」




それでも唯一の抵抗できる可能性を易々と下ろす訳にはいかない。




滅茶苦茶に怒鳴りつづけるとカグラバはおままごとに付き合うかのように悪態をつきながらも立ち上がった。私も小鹿の様に震えながら立ち上がると、さらに何歩か後ずさって扉へと近付いた。このまま走って外に逃げる事ができれば、地の利がある私に勝算があるはずだ。ありがたい事に窓からは特徴的な木が見える。記憶が正しければ、今いる場所は誰でも使える鍵のない山小屋で、ハルさんと一緒に山を探索したときに通った道のすぐそばだ。街は近くないけど東の方向へ向かえば降りられるはずだし、この暗闇ならカグラバを撒く事だってできるかもしれない。




「……ルーちゃんさ、俺から逃げられるなんて本気で思ってる?」


「足は私の方が速かった」


「いつの話だよ」




どちらが先に動き出すかを読み合った。緊迫する空気にカラカラになった喉に唾液が染み込む。手汗で小刀が滑るから何度も握りなおすけど、カグラバは刃を凝視しながらじりじりと私を追い込み、真っ黒な瞳を一切逸さなかった。頼むから油断して、よそ見をしてと祈りながら、私は妨げになりそうな巻きスカートの紐を片手で解いて脱ぎ捨てる。ぼさぼさになった髪の毛が視界の邪魔で結び直したい。髪飾りにしていた満開の花もほとんど残っていない。ついさっきまでは綺麗に着飾って舞台に上がっていただなんて、今の私を見てもきっと誰も信じてくれないだろう。




唾を飲み込んでカグラバを睨み続ける。息をするのも惜しむ中、遠くから聞こえた獣が動いたような物音の方向にカグラバが目だけを向けた瞬間、私は家を飛び出し東の方向へと駆け出すと、扉のすぐそば繋がれた馬が飛び出してきた私に驚いて嘶いていた。




木の根に足を取られず木の枝に行き場を遮られないようにと、道を選んで走り続ける。振り向かなくてもカグラバが後ろにぴったりついてきていると気配で感じながら、遠い灯火のような希望を信じ、死ぬ気で足を止めなかった。


追いつかれれば人生の終わりだ。私の方が足が速かったのは本当の話だけど、軍人に合格した男を撒くなんて甘い考えだったと後悔する。一歩でも足がもたれれば次こそ食われるだろう。長身のカグラバには走り辛そうな道を選んで走り続けるしか私には勝算がない。




たまに聞こえてくる怒声に耳を貸さなかった。足が千切れたっていい。とにかく走って走って走って走って走って走り続ける。たまに花火の打ちあがるような音が聞こえるから思ったよりも街が近いのかもしれない。奇跡を信じて張り裂けそうな喉から大声で助けを求めながら、自分の体力を信じて逃げ続けた。




「あっ」




だけど限界はいずれ訪れる。足を捻りかけて一瞬ぐらついた所を彼が見逃すはずがなく、ぼさぼさの三つ編みを母猫が子猫の首を噛むように掴まれて足が止まった。私の足は疲労で震え、心臓には焼かれるような痛みが走っている。溢れ出る汗で全身が水浴びをしたみたいにびしょびしょだ。




「俺の方がっ、速かった、みたいじゃん……」


「は、離して」


「ほら、刺すなら刺してみろよ」




カグラバも多少疲れていたんだろう。右手で髪を持ったまま近くの木にだらっと寄りかかった。そのまま引き寄せようと思ったのか三つ編みを犬の首輪を引っ張る様に引っ張ってきて、何本か髪の毛が抜けて頭皮が痛かった。その後もぜえぜえと息継ぎをしているカグラバに私は半身だけ振り返ると、滝みたいな汗をかいた彼を睨みつけ、右手を水平に振り切ってから二、三歩後ろに下がる。目に入りかけた汗を何も持ってない方の手で拭うと、そのまま心臓の付近を押さえた。




「……お前何してんだよ」




目を見張り、さっきまで掴んでいた物が砂みたいに地面へ落ちる様子を、カグラバは呆然と見つめていた。


私は面白い顔のカグラバを睨みつけるとさらに数歩後ずさって小刀を構える。さっきまで私の一部だったものは見向きもせずに。




「髪」


「あっち、いって」


「お前、髪の毛」




お尻まであった髪の毛が水平に振り切った小刀により大半が切り落とされた事を、軽くなった頭と、カグラバの手に残る髪の束で悟った。


お母さんが小さい頃から毎晩歌いながらといてくれて、友達と編みあいっこして遊んだ髪の毛。




「……あぁ、そうね。サッパリした」




軽くなった頭から埃を払うように後頭部を掻き乱す。




十六年間大事に伸ばし続けて、ハルさんがつやつやで綺麗だって言ってくれた、私だったもの。




「これで捕まんない」




引くための後ろ髪を残さないためにも、首に残った長い髪を捨てた。




嘘だらけの三か月。たくさんの人を傷つけた。きっとその中に、カグラバもいたんだろう。


もしあの日、少しでもタイミングがずれていれば、井戸で再会したカグラバからの謝罪を受け入れていたかもしれない。昔みたいに仲のいい友達に戻れたかもしれないし、結婚も素直に受け入れていた未来があったのかもしれない。その未来でも私は幸せになれたのかもしれない。




「ごちゃごちゃうるさいのよ、私は死んでもあんたなんかと結婚しない!」




だけど、それを選ぶ私は、もうどこにもいないんだよ。




肩までになった髪が風で揺れた。幼馴染の彼は、「お前は誰だ」と問いかける様な目を向けているけど、私は再び逃げるために急いで息を整えた。


そして、立ち尽くす私達を驚かす様に、突如大きな爆発音が両耳に鳴り響いた。思わず空を見上げると、金色の小さな花火が一輪、糸を引くように上がっていく。ほぼ真上と言っても大袈裟じゃない程の近距離から打ちあがった花火に目を奪われたら、突然目の前にいたカグラバが前のめりに倒れた。




「一歩でも動いてみろ!次は心臓を貫くからな!!」




茂みから聞こえた怒声とカグラバに私は肩が揺れるほど驚いた。倒れた彼の太ももには矢が刺さり、カグラバは傷口を押さえて苦しそうにもがいていた。新たに飛んできた弓が更に反対の太ももに突き刺さると、直後に上から落ちてきた網が抵抗しようとしたカグラバの邪魔をする。合図とともに木から飛び降りてきた人が暴れるカグラバを押さえつけて何発も殴り始めると、周囲に隠れていた人も藪から飛び出て、餌に群がるアリみたいにカグラバを囲ってタコ殴りにしはじめた。私はそれを、弓が飛んできた方向から走ってきた人の腕の中で見ていた。




そこからはあれよあれよという間だった。太ももから血が出てるのにも関わらず五、六人に抑えられながらも暴れるカグラバを、兄が鳩尾を踏みつけて大人しくさせたら、カグラバのお腹に跨って顎をめがけて何発も殴った。余談だけど、兄は喧嘩だけは地元じゃ負け知らずだ。小柄な体に似合わない筋肉が自慢で、麓の街での格闘技の大会で飛び入り参加して優勝した事がある。だからなのか他の人がドン引きするほどの迫力に十発目からは他の人に止められ、気絶しかかっているカグラバはその隙に縄でぐるぐる巻きにされていた。




「ごめん」




この三か月間で、一番耳にした低い声が私の耳元で震えている。




「ごめん、一人にしてごめん、こんな目に合わせてごめん」




真っ白だった服が私以上にボロボロでサンダルを履いた足からは血が出ていた。おそろいの香水をつけたはずの体からは汗と火薬の匂いがするし、笑みの絶えない綺麗な顔は涙で見るに堪えない形相だ。熱い身体に押しつぶされそうなほどの力が私を抱きしめ続けている。




「ハルさん」




助かったんだと分かった私は彼の腕の中に納まったまま、恋人の名前を呼ぶと熱が出そうなくらい泣き続けた。


しばらくしてから戻ってきた兄が黙って横に座り、私に頭を下げた。


「ごめんカグラバから目離して。一人で祭り見物したいっていうし、傷心しとるじゃろと思ってほっといたんじゃけど、俺まさかあいつがこんな事するとまで思わんくて」


ぐるぐる巻きにされたカグラバは項垂れてピクリとも動かなかった。思わず「死んじゃったの?」と聞くと「生きとる。ギリ」と兄が言う。よく見たら弓が突き刺さった太ももは止血処置が施されていて、自由に動けないだけで比較的元気そうだ。どうやらハルさんは急所はわざと外したらしく、出血もそこまでひどくない様に見える。

兄は無事を確認するように私を抱きしめると、無事でよかったと言って泣き出した。久々の兄との抱擁で小さなころ一緒に寝ていた様な温かさを思い出した私は、安心してまた泣いた。


「……カグラバは、何か言ってる?」


拘束されているカグラバは事情聴取まがいの事をされているみたいだけど、何て返しているのかまでは聞き取れない。兄は鼻水を啜った後鼻を掻いてから答えた。


「知らん。うわごとみたいに何か言ってるけど聞き取れんかった」

「……どうなるん?」

「街に降りたら役人に引き渡す」


彼は生気を抜かれたかのように動かない。


「……まぁ、お前とりあえず服着ぃや?」


兄の一言で上半身がほぼ下着だけだった私を見て、泣いていたはずのハルさんが急に恥ずかしがって、自分のシャツと上着を全部着せてくれた。逆にハルさんの上半身が裸になってしまったけど、汗で冷えた体には脱ぎたての衣服は暖かくて丁度よかった。そして、服の中に納まってるはずの背中の髪を引っ張り出そうと首に手を回し、何も引っかからない手触りで気付いた。


「……あ、そうだ私髪の毛ないんだった」


すかすかの首元が気持ち悪い位の爽快感だ。ハルさんは肩までになってしまった髪を掴んで「女の子なのに」と自分の事の様に泣きながら憤怒している。


「俺、やっぱりぶっ殺してくる」

「ま、待ってハルさん、大丈夫、大丈夫だから。第一心配されるような事されてないです」

「そんな問題じゃない、ばか」



そして痛む足を我慢しながら考えている事をハルさんと兄に伝えたら大反対された。当然だと思いつつもなんとか二人を説得して渋々承諾してもらったら、支えてもらいながら街の人に囲われているカグラバへと一歩ずつ近付いた。


「あぁ、ブルーズちゃん。こっち来たらダメだよ。こいつは役人よんでしょっ引いてもらうから。というか、ちょっとハルしっかりしてよ」

「……ブルーズがどうしてもっていうんで」


怪訝な顔で遮っていた街の人に避けてもらうと、うなだれたカグラバの目の前に立った。人の気配を察知し死んだ目で上を向いたカグラバは、そのまま険しい半分、不思議そうな顔半分の顔で私達を見ている。私はその顔を見下ろしながら、その場にいる全員に聞こえる様に、宣言するようにはっきりとした口調で一言述べた。


「喧嘩」


全員が眉間にくっきりと皴を寄せて、私を見ている。


「喧嘩です」


一斉にみんながざわつく中、カグラバが一番訳が分からないと顔をした。


「ごめんなさい。喧嘩、これは内輪の喧嘩なんです。ちょっと、噛み合わない事があって、カーくん暴走しちゃっただけで」

「ブ、ブルーズちゃん、どうしちゃったんだい。かばってるのかい? こんなやつ」

「かばってるんじゃないんです。けど、違うけど、お役人に引き渡すのは、ちょっと、どうにか」


その場にいる全員にどうかしていると諭され、私も自分がやっている事が正しいのかなんて分からなくなる中、役人に渡すのは止めてあげてと主張し続ける。


「ばかかよ。俺はお前に薬飲ませて、さらった最低野郎だぞ」


その中、自傷するようにカグラバが声を上げたので、私は震える自分の手を押さえた。


「私達、一回冷静になって、話し合いをしないといけないと思う」

「……はぁ?」

「話し合いをしよう。カーくん」


私の選択が賢くない事は分かってる。疲れで私もおかしくなってしまったんだろうか。

だけど、兄のパンチが綺麗に鼻に入って鼻血が出た時、真っ先に私にハンカチを渡してくれたのはカグラバだった。私に酷い事をしようとしてる時にも、覆いかぶさったカグラバの涙が私の頬に落ちたとき、どうしてか、涙の奥に、優しかった頃のカーくんが見えた気がした。

それにカグラバはいつも小刀を二本持っていた。お父さんにもらったやつと自分の小遣いで買ったやつだ。なのにそのうちの一本はずっと腰に刺さったままで、私には使わなかった。私が小刀を盗んでからもそれは同じだ。使うそぶりなんて一度も見せなかった。

それならきっとカグラバに必要な事は、お役人に説教してもらう事でも罰を与えてもらう事でもない。



「……話し合いって何をどう話すんだよ」

「うん。私も具体的にどうすればいいかちゃんとは分かんないんだけど」


腫れた頬を隠すようにぶっきらぼうな態度のカグラバの前に立つ。両脇には兄とハルさんが介護兼用心棒で立ってくれているけど、二人ともいい顔はしていない。当たり前だ。直前まで大変な目に遭っていた癖に、二人とも今から私がしたい事を知っている。これから行う事を考えると心臓がすこしドキドキして、落ち着きたい私は一度深呼吸して気持ちを整えた。


「私、カグラバの事許せない。三年前の事もさっきの事も絶対、絶対に許さない」


不貞腐れたような顔のカグラバは顔を上げない。でも、絶対に私の話を聞いているはずだ。丈夫な体のカグラバだから、きっと私も遠慮する事ない。


「だからまず私、あんたの事今からぶん殴るから」


聞いているはずだから、私が拳を振り上げた時、目を見開いて驚く事ができたんだ。父に教えてもらった人を殴るための最適な形に手のひらを握り直したら、私史上目一杯の力でカグラバの顔を鼻からぶん殴ってやった。

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