目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第19話 闇に花 一

風と音と、虫の声だけが鼓膜に届いた。

暑かったはずの空気はすっかり冷え込んで私の体温を奪っていた。この状況はまるで遭難して山の中を彷徨っていたあの日みたいだ。それなら、あの時みたいに誰か助けに来てくれないかな。見ず知らずの迷子を助けてくれる優しい人が通りがかってくれないかな。


もしかすると、私はあの日からずっと長い夢を見ていたのかもしれない。犬に食べられて死にかけている私が、幻を見ているだけなんじゃないかと思った。

そうだきっと、可哀そうな私を哀れに思った神様が、せめても救いにと、最期に幸せな夢を見せてくれているんだ。……それもそうだ。私に王子様みたいにかっこよくて、都合よく私を愛してくれる人なんて現れるはずがないもの。それなら、幸せな夢を見ながら死にたい……。開きかけた瞼を一度ゆっくりと閉じようと思ったところだった。

でも、寒くて動かした指先には指輪がいくつも嵌められている。手首にはブレスレットがあって、首元にもネックレスの重みがある。実家じゃ見た事ないくらい綺麗で真っ白な服を着ている。田舎者のただのブルーズならこんな素敵なものを身につけているはずがない。

現実は、薄暗い森の中にある木造の小屋の中だった。


……さっきまで私は更衣室にいたはずだ。なのに、どうして小屋の壁にもたれかかって熟睡していたんだろう。

私はハルさんに買ってもらった夏用の外套を着ていた。さらにその上から体をすっぽりと覆い隠せるくらい大きな外套が、寒さ除けなのか肩からくるぶしまでかけられている。

ここはどこだろう。大きな窓から見える真っ暗な森の情報だけでは、方向も街からどれぐらい離れているのかも見当がつかない。


「……ここどこ」


やっとの事で絞り出した声に、真正面の柱に寄りかかっていたカグラバが気付いて微笑んだ。


「よかった。体調はどう?」


返事をしない私にお構いなく、彼は話を続ける。


「全然起きないから心配したよ。最新の睡眠薬なんて半信半疑だったけど本当に効くんだな」

「すい…、何……?」


まだ頭が完全に働いてないけど、あのやけに甘いジュースに何か良くないものが入っていたんだと悟った。私のばか。何でカグラバから差し出されたものを疑いもせずに口にしてしまったんだろう。体に違和感はないけど、今も頭がぼーっとしていて油断したら眠ってしまいそうだ。

右手を手を動かそうとすると左手がついてきた。何事かと思って自分の手首を見るとぎちぎちに縛られている。


「ねぇ、これ取って」

「だめ」


解放の申し出は簡単に取り下げられる。窓から差し込む月の光に反射した彼の黒い瞳が恐ろしくて、縄が手首に食い込んで痛かったけどそれ以上食い下がる事はできなかった。三つ編みにしてあったはずの髪はぼさぼさになっているのが感覚で分かる。ハルさんが飾ってくれた髪飾りのお花も数本だけになっているのか、あんなに漂っていた花の香りがしない。


「ねぇルーちゃん、俺と家に帰ろ?」


暗闇で私を見下して笑っている知り合いの姿は、知らないおじさんに刃物を突き立てられた時よりもおぞましい光景だった。飄々とした口調の彼が化け物にしか見えない。恐怖で自分の汗の匂いが変わっていくのを感じた。


「ねぇ、冗談だよね? 何でこんな事したの? 面白くないよ、これ」


お願いだから何かの間違いであってくださいと神様に祈りながら刺激しない様に涙声で問いかける。


「なんでって、酷い事したのはルーちゃんじゃんか」

「酷いって……、ハルさんの事?」

「そ。ショックだよ」


閉じ込められた小屋は普段人の出入りがないんだろう。その辺に転がっていた小石を何もない方向に投げたカグラバは、そのまま視線をこっちに向けた。


「さ、さっきは諦めるって言ってたじゃん」

「嘘に決まってるでしょ。おばかさんだなルーちゃんは」


怖い、息ができない。まるで月明りだけの真っ暗な森でフクロウに見つかったネズミみたいだ。少しでも油断をすれば、このまま私はその尖った爪で殺されてしまうんだろうか。


「俺の言う事を全部聞くなら、俺はルーちゃんに酷い事なんてしない。ハルさんの事も、村に戻ってこなかった事もぜーんぶ、許してあげる」


座り込んだ私に合わせるようにしゃがんだカグラバは、弓なりになった瞳を向け、明るく振舞い続けた。まるで悪い事なんてしてないとでも思ってるような目つきだ。


「……単刀直入に言うね。ハルさんの事は諦めて、俺と結婚するって誓って。そうしたら、すぐ街に降りて、そのまま村まで送り届けてあげる」

「……嫌だ」

「どうしても?」

「何でこんな脅すような真似する人と結婚できると思うの? 大体、私には赤ちゃんがいるの」


そう言って視線をお腹に落とす私をカグラバは鼻で笑った。



「何言ってんの。いないでしょ。そんなの」


彼がお腹をジロリと見た数秒後、突然近付いて私の横腹を思いっきり掴んだ。内臓が潰されそうな握力で漏れ出たうめき声に対して上辺だけの謝罪が聞こえる。痛みを散らすように掴んだ部分をさすりながら、カグラバは悪戯を見抜く父親のような目を向けた。


「お腹、ずいぶん細いけどさー、これ絞めつけてるよね」


ぎちぎちに絞められたお腹を服の上から撫でられ、指の触感と全てを見透かした様な声に身の毛がよだった。


「ここにガキがいるならさ、流れてもおかしくない時期にこんなぎゅって絞めていいもんなのかなぁー……。あんなに激しい振り付け、気にせず踊っていいのかなぁ……。なぁ? ルーちゃんは下の兄妹ができた時、おばさんとばあちゃんから子供ができる事について、色んな事教えてもらってたじゃないか。おばさんが難産で苦しんでたのも目の前で見てたのに、本当に妊娠なんてしてたら、姉ちゃんのルーちゃんはそんな事出来ないはずだよね」


そのままつーっと、人差し指でお腹を下から上へとなぞり、太くて骨ばった指はそのまま私の胸を突いて凹ませる。


「嘘はだめだよ」


青ざめる私を見て、カグラバは服越しにわざとらしくゆっくりと揉んだ。


「すぐわかったよ。俺がなんて言ったから咄嗟に嘘ついたんだろ。大体あのハルってやつ? ガキがいるって言った瞬間めっちゃびっくりした顔してたよ。エフレムは気付いてなかったけど。大根芝居だったなぁ、あの顔でも役者は無理だよ」

「嘘じゃない、嘘じゃ……」

「……ルーちゃんさ、赤ちゃんも何も、まだなんじゃないの。全部」


この場に相応しくない様な綺麗な笑顔で笑いかけられると、体中の血液が逆流するような恐怖と体を刺すような震えが背中を巡った。


「処女?」


なぞなぞを解いた様な得意げな顔にぞっとした。違う、と必死にブンブン首を横に振る私が惨めでおかしかったんだろう。カグラバはひと笑いすると、「あーあ、よかった」と呟いた。


「さっきから反応でバレバレなんだよ。大事なもん守ろうとしてる感じがさ」

「違う」

「あーあ、よかった。……それなら、ちょっと楽になった。アイツ、手出してないなんて本当になんだな」


胸から手を離して両手で顔を覆い隠すと、カグラバは興奮した口ぶりで話し出した。隙間から見える口角が斜めにねじ上がって、いやらしい顔をしている事が暗闇でもすぐにわかる。


「最後までヤってんなら本当に無理だと思った。そーだとしても別に俺は構わないけどさ、それならマジで無理じゃん。でも、本当に一緒にいただけならまだ俺にもチャンスがあるって事じゃん。ねー、ルーちゃんは知ってんのかな。ルーちゃんって他にも良いとこから縁談が来てたんだって。でもこの街と同じくらい遠い街からの話でさ、おじさんがそんな遠い土地に嫁になんか出したくないから会わせもせず断ったって、俺と話した時に言ってたよ」


「……何考えてんの?」

「なぁ、ハルとキスはした? したとしたら子供のキス止まり? 大人のキスはした?」


ニヤッと笑った彼は、私の口をねじ開ける様に指を突っ込むと、涎を指に絡ませて遊びだした。そのまま舌を摘ままれて喋れない程引っ張られると、止めてと言っても全てが間抜けな音に変わってしまう。否定も肯定もできない私が面白くてたまらないのか、悦に浸ったような表情を浮かべていた。


「いるかも分かんないガキと今から俺達がする事、おじさんはどっちを信じるだろ」


真っ黒な瞳が瞬きもせずに喋ってる。


「違うっていうならちゃんと教えてよ。どういう風に抱かれたのか。どこをどんなふうに触られて、舐められて、いじめられた訳?」


舌を引っ張られている私がまともに話せるはずがなくフガフガと声にならない声を出している間に、獣が獲物に襲い掛かる様に首筋にかぶりつかれた。今まで感じた事のない違和感に思わず漏れ出た声に、自分が心底嫌になった。


「……その声、アイツに聞かせた事あんの?」


そんな気は全くない。びっくりした時に思わず出てしまう声と同じだと分かってる。だけど私の口から飛び出た高い声は、迷い込んだ町の奥の売春宿から聞こえる女の人の声と同じだった。そんなに声の高くない私からそんな声が飛び出た事が面白かったのか、カグラバは首元を執拗に何度も何度も舐めてくる。屈辱感と自分への嫌悪感で頭が真っ白になった後、堪えていた涙がショックで一気に溢れ出てきた。


どうして私には男に勝てる腕力がないんだろう。カグラバが腰にぶら下げた小刀を使う素振りを微塵も見せないのは、私なんかに使う必要もないと下に見ているからだ。

生温かくて分厚い舌が氷を溶かすみたいに何度も這う。首の次は耳たぶをんで、肩、鎖骨へと続く合間、蹴って何度も抵抗を続けた。

だけどいずれもいとも簡単に遮られる。誰にも触られた事ない場所に触れられると反射的に声が出て、それが嫌で嫌で仕方がなかった。歯を食いしばっても涙が出るし、だんだん抵抗しても無駄だとわかって抗う力も弱くなっていく。


「何でこんな事するの。まともになったって信じてたのに」


やっとの思いで口にした言葉に、胸元をはだけさせようとしていたカグラバの手が止まった。


「信じた? 俺を?」

「お兄ちゃんも、カグラバは丸くなったから認めてやれって、ちょっとはそうなんかなって思っとったのに」

「はは、エフレムって、ほんとーにいいやつだよな。そんな事言ってたんだ?」


涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったであろう私の顔を適当に拭いながらカグラバは笑う。


「……俺さ、本当に反省してたんだよ。小さいときの事も、も。……だからずっと話がしたかった」


聞こえるはずのない水音が頭に響き、起きているのに朝の夢の続きが始まった。

そうだ、あの時もこうやって向かい合って私達は言葉を交わしていた。私達が最後にまともに話したのは三年前。

私が一三歳で、カグラバが一四歳の時の事だ。



私のご先祖様を何世代もたどると、大昔は海の方に住んでいたらしい。移動しながら住みよい土地を探し、自然あふれる山地の奥を定住の地に選んだのがひいひいひいひい爺ちゃんだと、子供の時に死んじゃったお爺ちゃんが何度も教えてくれた。山男として生きると決めてもやっぱり水辺が恋しいからと、すぐそばに湖のある場所に家を建てたのがひいひいひい爺ちゃんで、ひいひい爺ちゃんはその湖で大きなライギョを釣って村のみんなで食べたんだそうだ。ひい爺ちゃんは植林を始めて、お爺ちゃんは先祖代々続いた土地を守り抜いた。


『おおめぇの父ちゃんはなぁ~、どん底に落ちとった家をまた盛り返したんじゃけぇ、偉えんじゃぞ~』


一緒にお墓参りした後、おじいちゃんが必ず誇らしげに言うのを、私はおじいちゃんの膝の上でお菓子を食べながらしょっちゅう聞いていた。


家の傍の湖では魚がたくさん獲れたから一三歳の私はその日も五歳の弟を連れて魚釣りに来ていた。小舟を漕いで湖の真ん中まで行けば年の割りに釣りの上手な弟が勝手に張り切ってくれるので、私はその間、小舟の上でぼーっとしていた。

末の妹が生まれた後、産後の肥立ちが悪くて長い間体調を崩していたお母さんも最近はだいぶましになって、家事を担っていた私もこうしてたまにのんびりする時間が増えた。とはいえちょっとでも無理をすればお母さんはすぐに体調を崩してしまうから、帰ったら夕ご飯を作らないといけない事には変わりないんだけど。

ところが、私にとって貴重な休憩を兼ねていたはずの時間は、大漁にはしゃいだ弟が無茶に動き回ったせいでボロ小舟はあっという間に横転して釣りどころではなくなった。


弟はカナヅチじゃないけど泳ぎはそこまで得意じゃない。水に放り投げだされた後は底に足が届かない事態にパニックになって溺れそうになっていた。しかし、弟の性格を分かってる私がそもそも深い場所にいく訳がない。私の足が届く深さの水面で「おぼれ死ぬ」と言って暴れる弟の首根っこを掴んで岸まで運ぶと一発ゲンコツを入れて叱った。耳を塞ぎたくなるほどの大声で泣いている弟を岸に置いて、湖の深いところまで流されていった小舟まで泳いで戻り、元に戻した小舟と水中に浮かぶ魚袋を回収してから岸に戻ると、殴られた事を母さんに慰めてもらいにでも行ったんだろう。弟が見事に消えていた。


『———あの、あんぽんたんめ~!!』


尻ぬぐいをしてあげたのに!全身水浸しになった私はぷんぷん怒りながら服と髪を絞った後、気を取り直してひいふうみいと獲れた魚を数え始めた。少なかったら何匹か追加で釣っていかないと山で仕事をしている食べ盛りの兄達が喧嘩してしまうし、幼い弟と妹にはたくさん食べさせてあげたいし、何より私がたくさん食べたい。我が家には食べ盛りしかいないから食材は多くて困る事はないのだ。


『……何でそんなびしょびしょなん』


魚袋に手を突っ込んでいる最中に呼びつけられた私は振り返ってみると、ちょっと嫌な気持ちになった。あんまり好きじゃない幼馴染の彼が、すぐそばに立ってこっちを見ていたからだ。


『カーくん、何か用? 』


十四歳のカグラバがポケットに手を突っ込んで、すぐそばでたたずんでいた。


『用って程やねぇけど近くに来たけぇ』

『お兄ちゃんならお父ちゃんと山入っとるよ』

『知っとる』


この時はそれほど背が大きくなかったと思う。とはいえ、ずっとチビの私よりはずいぶん大きく育ったカーくんはすっかり男らしい体つきになっていて、声もすでに低くなっていた。また意地悪な事でも言いに来たんだろうかと思った私はつっけんどんな態度で自分の仕事を進める。


『今日は魚、多いなぁー』

『……あげんよ⁉ 《あげないよ》』

『いらん』


充分な量が獲れている事を確認したら、私は水際に置いたままだった小舟を陸地に上げようとする。そしたらカーくんが代わりに小舟を陸地の上の方まで上げてくれた。気まぐれな優しさに驚きつつ適当にありがとうと伝えたら、私はそのまま水で砂のついた手を洗う。カーくんは船に腰かけて後ろから声をかけてきた。


『何でそんなびしょびしょなん? 』

『ベっくん《弟》が船ひっくり返したけん、巻き添えなった』

『俺のん着るか? 』

『いらんわ。へーきじゃこんくらい』


いつまでも帰らないカグラバにめんどくさいと思いつつ、暇つぶしになるからと追い返さなかった自分を叱りたい。包丁で食べられない部分を取り除くと手が魚臭くなったから、手を洗いに再び浅瀬へと向かった私は、もういっそ水浴びしてから帰ろうと思い立った。家にお風呂はあるけど、暖かい季節は湖で水浴びをするのは私んちではよくある事で、特別な行動でもなんでもなかった。


湖の少し深いところまで足を踏み入れると頭まで潜って全身を水にぬらした。今着ているのは水泳用のぼろの服だし、服を脱ぐわけじゃないから男子がいたって恥ずかしくないと、この時の私は本気で思っていた。皮膚に張り付いた服で下着が若干透けているのにも気付かず、私はそのまま濡れた髪をうなじが見えるまで上げて絞り上げる。成長の遅かった私は一三になっても月の物は来てなくて、胸も今以上にぺったんこだった。だから自分はまだまだ子供だと思っていたし、そういう風な目で見られるのは大人になってからと強く信じていた。

急にカーくんに後ろから抱きしめられて、誰も来ない林の奥に無理やり引きずり込まれそうになるまでは。


——最初は度の過ぎた悪ふざけだと思った。抵抗しようとしてもピクリとも引き離せないカグラバへの恐怖を水音でかき消すように、私は足場の悪い湖の淵で抗い続けた。そして、私を置いて帰った事に怒られて、また泣きべそをかきながら戻ってきた弟が「お姉ちゃん!」と大声を出した瞬間、驚いてひるんだカグラバの股を蹴りあげた。うずくまる彼を置いて、泣いてる弟を丸太みたいに持ち上げて、何故か魚だけはしっかりと手で持ったまま家まで走って逃げた。

だから未遂に終わったし、何もされなかった。

湖での出来事はお母さんにもお父さんにもいえなかった。食事の準備だけすると「お腹が痛い」と言って、その日は早々に布団にもぐって無理やり眠った。心配して顔を見に来た母には寝たふりをして誤魔化して、翌朝も、翌々日も私は心配する母に何でもないと振り舞い続けた。

だって、何もない。何も起きなかった。

何もなかった。何もされなかった。

だからこれは誰にも言う必要がない。いや、言えるはずがない。

私が我慢して、心の中に封じ込めばいいだけなの。


三年間、親にも友達にも誰にも話した事がない。これがカグラバと距離を置く理由だ。

忘れようと思ってずっと記憶に蓋をしていた十三歳の嫌な思い出。

怖くて、恥ずかしくて、悔しくて、汚くて、思い出すだけで不安になる最悪な思い出。


「———水浴びするルーちゃん見てたら気付いたら手出してた。本当に悪かったよ。……急にタガが外れたんだ。ベっくん《弟》の声で我に返ったよ。なんて事したんだ、最低だって」


私のぼさぼさになった髪を撫でながら物悲しそうに言うのを、私は怯えながら聞いていた。色鮮やかに蘇った苦い記憶から脱するためにも早くここから逃げ出したい。


「何回も謝りに行ったんだよ。だけど会えなかったし、エフレムに理由を話して取り次いで貰うのはもっと嫌がると思ってやらんかった。なら、お前に会っても恥ずかしくない男になればいいと思って軍人の試験を受けたんだ。農家のままじゃ貧乏のまんまだから。試験に受かって、おじさんから結婚の話が来た時はびっくりしたけど……――――すっげー嬉しかった。そうなればいいってずっと望んでたし、これで堂々と会いに行ける理由ができたと思った……」

「わ、私別にカグラバと結婚したいとか、お父さんに言ったわけじゃ……」

「分かってるよ。お前が俺と結婚したいとか言うわけねぇもん。まぁ試験に受かったのが翌朝には村中に広まっててさ。おかげで他の家からも声はかけてもらったよ断ったけど。……それで俺とお前が結婚する事になって、、お前と親の前で結婚の話をする前にどうしても謝りたかった。全部が決まった後に謝るなんて、卑怯な気がしたから」

「……?」


脈絡のない話の真意に私はすぐ気付けない。



「……水がめに、水が無かったろ?」


ヒントを出されても頭の悪い私は何の話か掴み切れない。その顔をみたカグラバは「攫われた日だよ。飲み水が無かったんだろ、水がめに」と付け加える。


「水を抜いたの俺なんだよ」


思い出した後も何を言っているのか理解ができなかった。


――――――母さん、水がめの水がのうなってるけぇ《無くなってるから》汲んでくるわぁ


そうだ。元はと言えば、水がめが不自然に少なくて、わざわざ夕暮れ時に井戸まで出かけたからだ。そのせいで危機感も持たず人のいない場所にのこのこ現れた私は、悪い人にさらわれたんだ。


「……うそでしょ?」


それが、目の前にいるカグラバが仕組んだ事なのか。


「あの時間ならべっくんは遊びに行ってるだろうし、水汲みに行くのはルーちゃんだろうから井戸で待ち伏せして謝ろうと思ってた。けど俺、村のヤツに引き留められて行くのが遅れて……。それで遅れて行ったら、バケツしかなくて、お前、いなくなってんだもん」

「……ふざけないでよ。私がどんな目にあったと思っとんの⁉ 三日も山で迷って、泥水飲んで、挙句の果てに犬に食われそうになっとったのに!」 

「ほんと、あんな事しなきゃよかった。そしたらルーちゃんがハルなんてヤツに会う事もなかったのに」

「ばかじゃないの……っ!」



何が原因で出てくるのかもわからなくなった新しい涙をまたカグラバが拭ったら、指についた涙を舐めた。


「……やっぱルーちゃんは、泣いてるのが可愛いや。真っ赤になって、涙目でむくれて、本当に怒ってんのかわかんねーって感じが可愛くて仕方ないの。俺だけのものって気になる」

「…………気持ち悪い」

「ね。俺、変態かも」

「死ねぇや……」

「はは、じゃあ一緒に死ぬ?」

「一人で死ねぇや……っ!」


雲が月に覆いかぶさって、神様も迷うほどの闇が部屋を覆い隠すと、手探りで顔に触れたカグラバがキスをしてきた。心を掻きむしられる様ないらだちと拒絶感に顔を何度も左右に振った。それでも蛇みたいに入ってきた舌を噛んで抵抗したら、舌打ちされて頬を叩かれる。鉄の味がする口の中と頬が痛くて「もうやだ」と何度も喚いた私は小さな子が親に助けを求める様に泣き続けた。


「ねぇ、これもアラカチューになる?」

「……変態、おおめぇなんて卑怯者ひきょーもんじゃ」

卑怯者ひきょーもん? なんだよそれくらい。好きな子の初めてなんて、こんな幸せな事なんてない」

「もう嫌、もう嫌、もう嫌じゃ。帰らせて。お願いじゃけ何でも言う事聞くけぇハルさんとこ帰らせて」

「……こんな時にも。ハル、ハル、ハル、ハル……うっさいんだよ」


吐き捨てる様に呟くと、私を辱めるためか下着が見えるぎりぎりまで服を脱がせると、胸の谷間にカグラバが指を押し当てる。


「はは、ねぇここにほくろあるのハルさんは知ってんの」


胃の中の物が一気にせり上がった。


「俺だってさ。無理やりなんて本当はしたくないよ。憧れてたよ。ルーちゃんから誘ってくれるような関係性。だけどもう仕方ないじゃんルーちゃん何にも分かってくれないから」

「止めて」

「止めてじゃない」

「嫌だ、やだやだやだ!」


カグラバは腰に指を滑らせると巻きスカートをめくり、私の腰を持ち上げる。無意識に全力で伸ばした腕の動きで手首の皮膚の下の肉が縄で擦れて、声が出るほどの痛みが全身に走った。ほどこうと無意識にもがき続けたからか、擦り切れて手首には真っ赤な傷口ができていた。そこからにじみ出た血液で綺麗な金色のブレスレットが赤黒く汚れてしまったのがすごく悲しくて、私はこれにも声を上げて泣いた。このまま時が過ぎるのを耐えるしかないのかと思うと、絶望の二文字だけが頭をよぎる。


夢を見てたの。

勉強を頑張って読み書きをすらすらできる様になる事。本もたくさん読めるようになれば頭が良くなって宿の仕事が手伝えるようになる。そうしたら、ハルさんが家に早く帰れるように私も一緒に仕事をするの。それならずっと一緒にいられるはずだから。それで、ハルさん似のかわいくて賢い子をたくさん産みたい。笑いの絶えない家庭を作って、いっぱい愛情を注いで、大人になるのを見守りたい。

そしてただのおばあさんになって死んでいく。それだけの夢。

だけどもう全部無理なんだろうか。


泣き喚く私にカグラバはめんどくさいという顔を隠しきれない様子だったけど、腰から手を離すと一度ため息をついて愚痴をこぼすように呟いた。


「あぁ、ごめんごめん。もういいや、これも」


懐から小刀を取り出すと、固定していた縄を切ってブレスレットも外された。今さら縄を切って多少の自由を与えたところで押さえつければ私が逃げられるはずなんてないと分かってるんだ。実際に腕が動かせるようになっても押し返せるはずがなく私の下半身に重い体が跨ったままだ。


「……こんな事して何になるの? こんな事して、カグラバは幸せなの?」

「幸せだよ。好きな子が俺の事忘れられなくなるなんて」

「本当に好きならこんな事しない……」

「ルーちゃんはいっときの感情に流されてるだけだよ。ちょっと顔のいい男に優しくされて思い上がってるだけなんだ」

「違う」

「あいつが優しいのはルーちゃんが若くて可愛いから」

「違う……」

「楽しくて幸せだなんて今だけだ。”嘘”で飾り立てた世界が綺麗に見えるだけなんだ」


“嘘”。


嘘か。


私達には、馴染み深い言葉だ。


そう思った瞬間、目が覚めるような感覚を覚えた。


「…………ねぇ、私、ハルさんに押し倒された事があるの」

「……はぁ?」

「でも襲われたとかじゃないの。ちょっと、色々あって。ただ『男に気をつけろ』って、ばかな私のためにわざと。でも痛いとか、傷つけられるような事はなかった」


何が言いたい、と言いかけたカグラバの言葉を遮って続けた。


「ハルさんって私が何言っても怒らないの。私が怒ったらちゃんと謝ってくれるし、逆ギレなんてしない。ハルさんは、理不尽な事で女の子にぶたれても、やり返さないの。私が言えない事を察してくれるし気遣いができて優しい人なの。……そう、ハルさんは、本当に優しい人」

「……はぁ?」

「こうやって暴力で解決しようとしてくるあんたなんかと全然違う」


反射的に振り上がった彼の右手が、私の台詞で頭上に留まる。そしてばつの悪そうな顔で行き場のなくなった拳を下ろすのを私は怖いと感じながら、精いっぱいの攻撃的な口調で責め続けた。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?