「ブルーズちゃん、その方どなた?」
ベル達がどよめいて、突然の幼馴染との再会に頭が混乱している。他人の空似だろうか? いや、こんなに背が高くって黒髪の人間、そう簡単に存在するはずがない。そもそも私の小さなころからのあだ名を未だに使ってくるのなんて村の家族を除けばこの人ぐらいのはずだ。
「ルー!ルーなんか⁉」
驚きで声の出ないところに、さらにもう一人飛び出てきた。小柄で、真っ黒で真っ直ぐな髪の毛に、くりくりの目。
「お、お兄ちゃん」
私の顔とそっくりな兄のエフレムだ。もうすでに泣いていて、肺がつぶれそうなくらいの力で私を抱きしめると肩をびしょびしょに濡らしていく。十十キロ離れた田舎にいるはずの兄と幼馴染が何故目の前にいるのか分かっていない私は、言葉にならない戸惑いの声だけを発していた。
「おめぇなんしとったんじゃあ〜……!死んだんかと思っとったわ、ずっと生きた心地がせんかったんじゃけぇ……!」
感動のはずの再会に困惑する私を見て、まず事件性を感じたベル達はすぐにハルさんの背中を強く叩いて知らせた。パッと振り返った後、兄に抱きしめられている私という状況に驚きでぎょっとしていたハルさんだったけど、黒髪が他に二人もいる事ですぐに私の身内だと察したみたいだ。私の頭を愛しそうに撫でる兄を見たハルさんの顔は明らかに血の気が引いている。
それでも私達はすぐ近所にあるお茶屋さんまで移動して店の奥を貸し切ると話し合いの場を作った。その間も兄は私を放してくれなくて、カグラバはその場を仕切ろうとしているハルさんに敵意の眼差しで睨み続けている。私はというと、冷や汗が止まらない。
「ルー、説明して。何があったんじゃ? 俺達、みんなほんまに心配しょおったのに、無事なら何で連絡の一つもよこさんかったんよ」
「あ、あの、何でここがわかったの?」
「ふもとの街に来た隊商さんからお前みたいな女の子をここで見たって聞いたから飛んできたんよ。さっき、あっちで踊っどっとったじゃろ? でも声かけようとしけどすぐどっか行ってもうたから探しとったんよ」
「あ、えっ、あの、えっと、れ、連絡できなかったのは事情があって、その」
「事情って……」
しどろもどろな状態から兄に両肩を掴まれさらに言葉に詰まる。兄はすでにハルさんへ疑いの目を向けており、ハルさんもすぐに説明をしようとするそぶりを見せていた。
「……ねぇ、どうしてカグラバがいるの」
だけど家族でもないただの幼馴染が、十十キロも離れた街に何故わざわざ出向いてきているのか、私にはそれが真っ先に気にかかる事だった。ここにいるのがせめて兄だけならもっとすらすらと事情を説明できたはずなのに。なのに、目の前にいるカグラバが毒牙を向けてくる悪蛇にしか見えなくて、私はそれが怖くて仕方がない。
「無事でよかった。安心したよ、ルーちゃん」
訛りの抜けた都会っぽい喋り方をしている幼馴染は違和感の塊だった。私の記憶の中じゃカグラバは訛りがキツかったはずなのに、まるで生まれた時からずっとそうだったという様な優男風の普通の喋り方をしている。……あぁ、そういえばふもとの学校に通って勉強してるって誰かが言ってたし、話し方を矯正したのかもしれない。それにしても違和感がひどい。
「……ねぇ、だから、何でいるの」
「エフレムがさ、ルーちゃんがこの街にいるかもって言って、すごく焦ってたからさ。着いてきたんだよ。だってお前ら家族は街に行くのに慣れてないだろ?」
「でもだからって、こんな離れた街にわざわざついてきたの? 馬を走らせても四日はかかる距離なのに……」
そう返すと、カグラバは薄い唇の角を上げた。ゾッとする嫌な予感が身体中を駆け巡ってく。
私は、昔からこの人の取ってつけた様な笑顔が苦手だ。村の女の子の初恋を奪いまくっていた彼は今も整った顔立ちだし、人当たりもいい。みんなに人気者の「カーくん」だ。それなのに彼は昔から私には意地悪ばかりしてきた。内容はくだらない事ばっかりで粒立てて話す事もないけど、積み重なった意地悪と数年前の
「そうだよな、まだ何にも聞いてないよな」
「何を?」
「あの日、話すはずだったのにルーちゃんは消えちゃったんだから……」
「あの日って?」
「ルーちゃんが消えちゃった日だよ」
「……え?」
「あの日、俺と親父は夕方からルーちゃん家に行く予定だったんだ」
織り込まれたかのような会話のテンポの心地よさが怖い。脳裏にかすかによぎった嫌な予感が冷や汗になって背中を流れていく。年頃の娘がいる家に男の人が家族で来るなんていうのは滅多にある事じゃない。嫌だ。この予感だけは外れてくださいと、彼の唇が動かないで欲しいと切に祈った。
「…………俺たちが結婚する事になったから」
でもその祈りは意味をなさなかった。頭が真っ白になって、辺りがしぃんと静まり返り、ベルもカナもハーナもハルさんも、「説明を求むブルーズ」と言いたげに目を見開いてこっちを見ていた。だけど、私だってこの人が何を言ってるのかなんて分からない。カグラバだけが待ち望んでいた日を迎えたかのように静かに微笑んでいる。
「はあ⁉」
思わず礼儀がなってない言葉が飛び出る。
「な、何言ってるの?」
「今言った通りだけど。お前の親父さんがうちに結婚話持ってきて、是非にって受け入れたんだよ。つまり俺達は親同士が決めた許嫁。だから一緒に迎えにきたんだよ」
「…………そんな話知らない、聞いてない!ねぇお兄ちゃん、何? そんな話私全然聞いてない……」
「……あんなぁーカグラバ、その話は一旦なくなったじゃろ?」
兄は私がカグラバの事を嫌いだというのを知ってるから、カグラバを諭す様に反論してくれたけどカグラバの顔色は変わらない。
「話がなくなったのはルーちゃんがいなくなったからじゃん。ほら、この通り元気そうなんだから、連れて帰るのが当然……」
「触んないでっ!」
話の途中で私の腕を掴もうとしたカグラバから逃げるとハルさんにしがみ付いた。見知らぬ男性に異常に懐いてる様子の妹を見た兄はすぐ眉間に皺を寄せる。私とそっくりな真っ黒で丸い目が、宿敵を見つけた老兵の様の様に見開き、これからの事を予想した私の胃はよじれて悲鳴をあげている。
「ルー、さっきから聞きたかったんよ。その人誰? どんな関係の人?」
「……ハルさんです」
「ハル・ユリウスです。あの、妹さんとは」
「私の好きな人ですっ!」
「「えっ」」
兄とハルさんが同時に温度の違う驚きの声を上げた。本当は順序立てて兄を説得したかったけど、こうなったらもうなりふり構っていられない。
「私この人が、ハルさんの事が好きなの。カグラバと結婚なんてできない」
部屋の温度がだんだんと上がっていく気がする。ピリピリとした空気が全員に伝わり、ベル達が少し動くだけで鳴る髪飾りの鈴の音が異常に際立った。
「どういう事なの……?」
ハーナとカナが不安そうに小声で呟く。ベルは何かを考えてる様で苦々しく重い表情で黙り続けてる。
手を震わせて、歯を食いしばり白目を赤くする小柄な兄がいつもよりも大きく見えた。殺意にも似た怒り顔の兄が怖くてだんだんと息ができなくなる。兄は怒ると兄弟の中で一番怖い。私と張るくらいチビのくせに。
「――――なぁ、ルーを誘拐したんはお前?」
わなわなと声を震わせて兄はハルさんを睨みつけた。
「
「違う!!」
飛び出たとんでもない推理につい大声が出た。
だけど実際はそんな決まり、あってないようなものだ。女の人が「はい」と答えるまで監禁は続いて、凌辱される事も珍しくはないと聞く。事実はどうであれ、女の人が家族以外の男性と一夜を過ごしたもんなら婚前交渉したとみなされるので、そうなると誰とも結婚できなくなるから女側の家族も承諾せざるを得なくなる。元々女に結婚の自由なんてないけど、その中でも最悪な結婚方法だと私は思う。
うちの村じゃ年頃の女の子は
私はあの日、水を汲みに行って忽然と姿を消した。そのまま知らない街でのほほんと過ごしていた私を見て、兄はそれを疑ったんだろう。
「
兄の困惑は当然の事だ。だけどこの誤解だけは解かないといけないと思った私はつい大声を出して反論すると、兄も負けじと怒鳴り声の様な声で返してくる。
「じゃあ何なんよ!大体、お前、俺達がどんだけ心配しとったと思っとるんよ!無事なら無事で連絡一つも寄越さずこの三ヶ月何しとったんじゃ!」
「私だって事情があったんじゃもん!変なおじさんに捕まって、逃げて、山で三日も遭難して、足怪我して動けんかったんじゃもん!好きで村から出ていったわけじゃねぇのにそんな一方的に怒らんでもええが!」
「はぁ⁉ じゃあ何で尚更戻ってこんかった!母さんはお前を心配して何回も倒て、親父もお前が消えてから一人の時ずっと泣いとるんよ⁉」
「それも悪かったって思っとる……!でもハルさんは悪うねぇ、うちが全部悪ぃんじゃけん変な推測で怒らんとってよ……!」
「下らん事言うてちばけんなよ《ふざけるなよ》!親父達だけじゃない、兄ちゃん達も村のおっちゃんらぁも、お前を探すために山狩までしたんよ⁉ なのにお前は今まで何をしとったんじゃ⁉ 男にうつつ抜かしてのうのうと生きとったんか⁉」
途中までは威勢よく言い返したくせに、途中から涙声で怒鳴る兄に気付くと罪悪感で何も言い返せなくなった。当然だ。村中の人間から石を投げられても仕方ない選択肢を取ったのは自分だ。自分のわがままに家族も、村の人も巻き込んだくせに、のうのうと三ヶ月も他所で過ごしていたのは自分だ。
「……ごめんなさい、謝るから。でも話を聞いて」
「お前ハルっつったか? お前が妹をたぶらかしたんか?」
「っ!お兄ちゃん止めて!」
ハルさんの胸ぐらを掴んで今にも拳を振り上げそうな兄を急いで押さえ叫んだ。兄のエフレムは私と同じで背が低い。だけど木こりの家系で育ったからか力だけは人一倍どころじゃなくて、暴れ牛みたいな馬鹿力の持ち主だ。非力な私が兄を押さえ込んだ所で意味なんてほとんどない。足元の絨毯は相撲でも取ってるみたいにぐちゃぐちゃになっていく。歯を食いしばって、爪が割れそうな痛みに堪えて必死で押さえ込んでも、兄がハルさんに拳を振うのを止められそうにない。
それでも暴力はだめだ。話をこれ以上拗らせてたまるか。
「痛っ!!」
そんな決意も虚しく、兄が振り上げた拳がガツンと大きな音を立てて私の鼻に直撃すると、私はそのまま床に倒れ込んだ。
「—————エフレムです。ブルーズの一つ上の兄です。この度は妹がありがとうございました」
噴き出た鼻血が止まるまで話し合いはいったん中断された。
座布団を枕にして休む間、ハーナ達は私を心配して手を握ってくれた。——ハーナ達には私が孤児だという嘘を伝えてある。だから二人とも急に現れた私の兄と幼馴染に対して訳が分からずちんぷんかんぷんのはずなのに、話そうとすると「今はいいから」と笑ってくれた。握ってもらえた手があったかくて自然と涙が出る。私はこの子達も騙してて、きっとこれからもっと傷つけてしまうんだと思うと申し訳なくて、泣く資格もないのにさめざめと泣いてしまった。
私の鼻血で冷静さを取り戻した兄は、鼻血が止まるまではハルさんが私の世話を焼くのをじって見ていてた。ハンカチを貸してくれたカグラバは積極的に声をかけてくれたけど、彼には最低限の返事しかしなかった。
二十分くらいで鼻血は止まったのでベル達には席を外してもらい、私と兄、ハルさんとカグラバの四人で話し合いをする事にした。兄は落ち着きを取り戻すと、本来のしっかり者な表情になる。私は内心「カグラバにも席を外して欲しい」と思いながらも鼻に布を当てたままハルさんの隣に座った。
「改めまして、ハル・ユリウスです。訳あって、ブルーズさんにはうちに滞在してもらっていました」
「……それで改めて妹とはどういうご関係で?」
「お兄ちゃん、あの」
「ルー、俺はハルさんに聞いとるんじゃ。黙っとけ」
「だって」
「もう怒鳴ったり、殴ったりせんから。もうなんとなく察しついとるし」
「いいよブルーズ、俺が全部説明するから」
ハルさんの顔は、私に優しく微笑んでからすぐ覚悟を決めたようだ。そして事の経緯を、私達は包み隠さず全て話した。私の一言で察していだろう兄だったけど、それでも青くなったり赤くなったりを繰り返す。最後まで聞き終わると、肺の奥から重いため息をついて独り言のように呟いた。
「……親父になんて説明すれば」
額を押さえて軽蔑の目を向けてくる。そりゃあそうだ。私も妹がこんな事すればまず怒るし、相手を軽蔑する。それでも非常識な事をしでかした私達の話を落ち着いて聞いてもらえただけでもありがたい事なんだから、私達はその視線を受け止めないといけない。
「……ハルさん、本当にありがとうございました。足のケガの治療も、命を救っていただいた事も、その恩を返したいと思ったルーの気持ちも理解しました。だんだん、本当の事が言い辛くなったのも、まぁ、分かります。俺だってそういう経験があるけぇ」
兄の言葉にハルさんは無言で頭を下げる。
「でも結婚となると話は別ですよね? で、これからどうすんの?」
「……私はハルさんと一緒になりたい」
「あのさぁ~できると思っとん?」
「そ、そもそもハルさん家にいたのは一晩どころじゃないもの。今さら私の事もらってくれる人なんてもういないでしょ?」
「俺がいるけど」
カグラバが間髪入れずに返事する。ああああ、そうだった。
「大体、父さんはルーにはカグラバがええと思ったけんカグラバん家に結婚の話持って行ったんよ? カグラバが気にしないっていうならその理屈じゃ無理じゃろ」
「……お父さんを説得する」
「そんなガキみたいなワガママ聞いてもらえると思ったん?」
「俺もそんな話難しいと思うけど」
「「カグラバは黙ってて」」
兄妹声をそろえ抑止されカグラバはむすっとした。
「大体どこぞの馬の骨ともわからんやつ相手にもできんわ」
「……そ、それならハルさんはすごく立派な家の人だもん。うちの何倍もお金持ちだし、家もすごく大きいし、ハルさんも彼のご両親もすごくしっかりされてる方だもん」
「いやまぁ、それはなんか、見りゃあ分かるけど」
ハルさんからにじみ出る良い所のお坊ちゃまという輝かしいオーラに、兄は目ざとく気付いた様だ。
「それにルーもちゃんと食わせてもらっとるみてぇじゃもんな」
「え? 何で分かるん?」
「いや、前よりデブっとるけん」
腹の辺りを一撃殴った。金持ちだから良いって訳じゃないからなと言い返す兄に太ってないと反論する私をハルさんが諭しながら止めると、ハルさんは一回咳ばらいをして口を開いた。
「全て俺の責任です。先ほどおっしゃっていた
「あのさぁ? 都会じゃどーだか知らんけど、うちの田舎じゃ結婚相手は親が決めてくるんですよ。三ヶ月間帰ってこんかったのはもうええよ。そのバカみたいな案に乗ったルーも悪ぃ思うし……。でも連絡も寄越さずそっちの事情に巻き込んで、やっぱり本気になったから結婚しますなんて認めれる訳ねーじゃろ。みんなが三ヶ月どんな思いで過ごしてたのか想像つくんか? そんな事した相手に妹ください言われてはいどうぞなんて言ってやれると思っとるんですか」
「お兄ちゃん、本当はもっと早く帰してもらう予定だったの。なのに私がワガママ言って今日まで黙ってもらってたの。ハルさんはずっと早く言うべきだって言ってくれてて」
「うるさい、そんなん言い訳にしか聞こえん」
兄が、私の言葉を一蹴した後に「カグラバ、お前じっとしとけよ」とくぎを刺す一言を残しながら「ちょっと」と腕を私の軽く引っ張ったので、誰にも聞かれず内緒の話ができる位置まで移動すると、兄は私の耳に口を寄せて話し出した。
「大体さ~、カグラバだって昔みたいにお前をいじめたりせんよ。あいつだって大人になっとるんじゃし。そもそもあいつが軍人になろうとしたんはお前の為よ?」
突然のカグラバへの擁護にしかめっ面を見せた私を見て「分かっとるお前があいつの事嫌いなのは」と早口で言い足してから兄は話を続けた。
「『ただでさえ好かれてないのに貧乏じゃ勝ち目無いから』って親に頼み込んで学校通って勉強して、身分不相応な役人試験受けて候補生の試験合格したんよ? 縁も所縁もないただの農家の息子がさぁ、受かったなんてそりゃ大したもんよ? ハルさんは金持ちかもしれんけど、カグラバだって将来安泰じゃけー父さんはカグラバに結婚話もちこんだんじゃが。認めてやったらどうなんよ」
「……知らない。どういう理由があったって、生まれ変わったって言われたって、あの人の事と夫婦になんてなれないよ。好いてもらったって無理なものは無理、受け入れるなんて……」
「お前家族捨てるつもりか?」
「……それは」
「あのぉ~……」
振り返るとベルがすぐそばまで来ていた。口論がなかなか止まないを心配して様子を見に来てくれたみたいだ。
「ごめんなさい、ご家族だけの話に口を挟むべきじゃないとは思っていたのですが……。私からもお願いします。ブルーズちゃんとハルくんの仲を認めてあげてください」
「……この子誰?」
「友達のベルちゃん」
突然の女の子の登場に兄は少し驚き、そしてよく見ると超ド級の美貌に緊張したのか、急にたじろいで慌てて前髪を直していた。兄弟のこういう姿、ちょっと見たくなかったなと心の片隅で思った。
「ハルくんが言っていた元許嫁って私なんです」
「えっ⁉」
心の底からの驚嘆の声を上げた兄は私とベルの顔を何度も見比べる。
「……絶対こっちの子の方がいいじゃん!」
肘鉄を食らったろっ骨を押さえつつ「俺はルーの方が可愛いと思うよ」という兄の言葉を無視し、私達はベル達の話を聞くために元の位置へ戻って五人で輪になった。
「ベルと申します。私が五歳で、ハルくんが七歳の頃に許嫁になりました。私はハルくんの妹と赤ちゃんの頃からずっと親友で、そういった縁があって親同士が決めたんです」
言い出しづらい話のはずだしベルの沽券に関わる事だからと止めようとした。だけどベルは「大丈夫よ。私だって逃げてちゃだめだもの」と言って微笑む。
「もちろんハルくんのお嫁さんになるんだと思って育ってきましたけど、だけど、大人になるにつれ違和感を覚えたんです。だってハルくんは実の兄の様に思っていましたから。好きとか嫌いの延長線上にいる様な人じゃなかったというか、異性としてどうしても意識できなかったというか。とにかく、結婚して幸せになる未来がどうしても想像できなくて、私も悩んでいました」
ベルの細くてきれいな指が太ももの上でぎゅっと力が入る。一旦深呼吸して静寂な部屋を支配すると、猫みたいな緑の目をきりっと開けて口を開く。
「私、ハルくんの事を裏切って浮気しました。好きな人ができて、こっそり付き合ってたんです」
兄が眉をひそめる。まるで人殺しをした犯罪者を見るかのようなまなざしをベルに向けると、彼女は困ったように笑った。
「引きますよね女のくせにって」
「……この街じゃ、結婚は当人同士で決めるんは普通なんですかね?」
「いいえ。最近は恋愛婚も増えましたけど親が決める事はまだまだ主流です。……私、ハルくんに対して最低な事をしました。逢引していたんですもの。なのにそれを知ったハルくんは、私が本当に好きな人と一緒になれるようにって庇ってくれて、それに巻き込まれたのがブルーズちゃんなんです。……二人とも私のわがままの巻き添えを食らったんです。本当はすぐ帰ってよかったのに。なのにブルーズちゃんは『すぐ帰ったら怪しいから』ってしばらく滞在してくださったんですよ。ですから、責めるなら私を責めてください。全ての元凶は私にあるんです」
いつもの綺麗な声を部屋中に響かせる。たまに言葉に詰まりながらも、彼女は兄の目を真っ直ぐ見つめた。
「確かに二人がした事は正しくなかったかもしれません。ハルくんだってブルーズちゃんの優しさにつけこんだと言われても仕方ないわ。だけどハルくんは一緒にいる間、ブルーズちゃんに勉強を教えてあげてました。金銭的にも生活面でも彼女は不自由してませんでしたし、大切にしてもらってたと思います。ブルーズちゃんから不満とか聞いた事ありません。いつも綺麗な服を着てましたし自由に街を出歩いていました。おこずかいももらってて、帰ろうと思えば勝手に帰れたはずなんです。でもそれをしなかったのはこの街から離れがたくなったんだと思います。私には分かるわ。好きな人と離れるなんて考えられないですもの」
熱の篭ったベルの熱弁に兄も途中から茶化すような返事をしなくなった。適度に相槌を打って、真剣に聞いてくれている。
「ブルーズちゃんがご家族の事どうでも良かったわけがない。でも、好きな人と家族、どちらかだけなんて天秤にかけられますか? ブルーズちゃんだって苦しかったはずだわ。お兄さんはブルーズちゃんのそんな気持ち、理解してあげられないでしょうか」
「あ———。無理無理無理無理……………………俺じゃ無理」
兄は頭を押さえながら白旗を上げている。
「俺じゃ決められんってそんなの!ワガママをいうなワガママを!」
「エフレム流されるなよ。今すぐ帰って父さん達を安心させるのが最優先だろ」
頼りないと言いたげにため息をついてカグラバの助けにタジタジしていた兄は息を吹き返したかのようにはっとする。
「そ、そうじゃな。とにかく一回帰るぞ。話はそれからじゃ」
「すぐには無理だよ、ハルさんのお父様とお母様にもちゃんとお話ししたいし……」
「ねえルーちゃん」
カグラバは私の二の腕を掴んで座っていた私を無理やり引っ張り上げた。大人と子供並みに身長差がある私達は力に任されると抵抗なんてできるはずがなく、バランスを崩しつつも立ち上がらざるを得ない。私の足がきちんと床を踏み込んだらカグラバは手を取って、手の甲にキスをした。
「俺、ルーちゃんの事を愛してる」
遠くでハーナとカナらしき声がぎゃっと叫んだのが聞こえた。
彼の突然の行動に私は声も出ず指先まで固まり切ったし、あんぐり口を開けた兄と、目を血走らせて立ち上がったハルさんが私達を凝視している。
「昔はごめん。俺もガキだったから色々足らなくって、ルーちゃんの事たくさん傷付けた。悪さしてまで構って欲しかったんだよ……。でも俺そんな自分が嫌で変えたくて、それで軍人試験受けたんだ。立派な大人になって、ルーちゃんの隣に立っても恥ずかしくない男になりたくて」
カグラバはしっとりした手で手の甲を撫で続けた。
「ハルさんの事が好きなのはわかる。でも俺はずっと昔から本気で愛してる。ねぇ、ルーちゃん、チャンスをくれよ。ハルさんなんて忘れるくらいもっといい男になるから、俺と一緒になって」
「無理」
即断する。
この人は何を今更寒気がする事をつらつらと述べてるの? 理解ができない。あんな事しといて一体何をほざいてるのか。キスされた手の甲が気持ち悪くて今すぐ手を洗いたい。
「帰って。話もしたくないの」
「ルー、ちょっとはわかってやれって……」
「私、あなたにされた事何一つ許してない!」
本当はもっとひどい言葉を浴びせてやりたかった。だけど溢れ出そうな感情を歯を食いしばって我慢する。手を払いのけると、生ぬるい感覚の残る手の甲を火が出そうなくらい服で拭いまくった。
「お兄ちゃん、私は本当ならカグラバの顔も見たくなかった。今だって、我慢してここにいるの」
「ルー……」
「いいんだよエフラム。ルーちゃんの反応は当然だし」
カグラバは兄を嗜めると眉尻を下げて悲しげな笑みを浮かべる。ハルさんがカグラバと私の間に入って睨みつけたけど、睨まれた当の本人はひょうひょうとした様子で自分の無力さでもアピールするかのように手をひらひら動かした。
「ブルーズが嫌がる事をしないでください」
「そーですね。これ以上、俺だってルーちゃんの辛そうな顔見たくないですから。だけど俺は本気です。今は嫌でも十年後…いや半年後にでも、俺のが良い男だった思わせてみせる。……それに大体、結婚の決定権はルーちゃんにありませんよ。そもそも、ルーちゃんのお父さんは愛娘をこんな遠くに嫁がせたいなんて思ってないし」
「ブルーズの事をもの扱いしないでください」
「してませんよ。でもそういうもんでしょ? だから父親は娘の為に少しでも良い結婚相手を探すんじゃないですか。色んなつてを使って、ルーちゃんのお父さんが最終的に選んだのは俺なんです」
「……お前、ふざけんなよ」
「ふざけてませんよ現実的な話をしてるまでです」
「ブルーズの気持ちを考えずに何が現実的だ」
「ルーちゃんの事考えてないのはどっちなんですか? 実家から三か月も離れさせて、その自慢の顔で自分に依存させて恋愛ごっこしてるだけでしょ」
「何を」
「ルーちゃんに家族を捨てさせる気ですか。ルーちゃんの居場所奪って何が本気で結婚だ。あなたがしてる事はしょせん『恋愛ごっこ』でしょ」
「カグラバいい加減にしてよ……!」
「大体、もっと深い仲になってから引き離されるよりいいでしょ? そりゃ、
鼻で笑うようなカグラバの言葉に対して、私はぼそっと呟くとハルさんの力の入った腕をぎゅっとつかんだ。ハルさんはちょっと驚いたように視線を下に向けて私を見つめる。その場にいる人が全員耳を澄まして小さな声で何かを呟いた私が、聞き取れる音量でもう一度言い直す事を期待していた。
「————たもん」
「何?」
「できたもん」
浅く呼吸を繰り返す。私ははっきりともう一度繰り返した。
「できたの。赤ちゃん」
遠くでは笑い声と祭囃子が響いている。なのに世界から音が消えたかと錯覚するような数秒間だった。